第15話 エリザベートはヴァンを洗う

 エリザベートは大通りに足を運び、羊毛で支払ってヴァン用の下着を購入した。

 家に帰ってくるとヴァンは理髪店にはいなかった。隣の書庫を覗いてもヴァンの姿は見当たらない。

 中庭に繋がるドアが僅かに開いていたから見てみれば、ヴァンはプラタナスの根元にいた。

 二十件ほどの家屋で囲まれた共用の中庭は、石畳の路地や土間の一階と異なり、草が生えている。四本のプラタナスは家屋と同じほどの樹高。鶏やウズラの鳥舎が三軒に一個の割合で置いてある。柵で囲まれた小さな菜園に植えられているのは蕪とタマネギ、他に左隣の薬剤師が育てているハーブ類。十頭前後の子豚と二十羽前後の鶏とウズラが放し飼いになっている。

 ヴァンはプラタナスの根元にもたれかかって寝ているようだ。豚の皮を編んだ粗末な服を着ている彼のことを仲間と思ったのか、子豚が四頭一緒にお昼寝をしている。

 多くの人が春に子豚を購入し、冬に解体してハムやソーセージにして食べ、モモ肉など高価な部位を肉屋に売り、余ったお金で翌年に子豚を買う。こうすれば半永久的に肉が手に入るので、庭がある都市民は自宅で豚を飼うことがあった。

 エリザベートは子豚を二頭飼っており、元気に歩き回れる方は豚飼いに預けてある。今自宅に残っているのは、外に出すのが不安な小さい子豚だ。

 エリザベートは羊も四頭飼っており、羊飼いに預けている。羊飼いは群れを連れて、北の牧草地へ移動しているため、冬になるまでアイガ・モルタスには戻ってこない。羊は完全に預けたっきりである。


「気持ちよさそうにしているなあ。私もお昼寝するかあ」


 エリザベートは膝を抱えて腰を落とし、ヴァンの顔を覗きこむ。

 そのとき、エリザベートの気配に気づいた子豚が一頭起き上がり、それに反応して他の子豚も飛び跳ねる。

 ヴァンが瞼を大きく開ける。


「親方は外出中です。少々お待ちください」


「わ。びっくりー」


 エリザベートは言葉とは裏腹に大して驚いていないから、声の抑揚は小さい。


「え? あ」


「えー。なになに君ぃ。寝ぼけてた? ちゃんとお留守番できて偉い」


「ご、ごめんなさい!」


「あ、いや、別に居眠りくらいいいけど。それよりも大人の豚がいるときは居眠りしちゃ駄目だからね。君が食べられちゃう」


「はい」


 冗談ではなく、病人や乳幼児が豚に襲われて捕食されることはある。そのため赤ん坊がいる家では、赤ん坊の体を布で巻いて這い回れないようにして二階に寝かせる。


「左の後ろ足の毛を剃ってあるのが、うちの子だから特別に可愛いがってあげてね」


「はい」


「ちょっと待ってて」


「はい」


 エリザベートは理髪店に入り水瓶から桶に水を一杯汲み、石けんと、壁のロープに掛けてあった手ぬぐいをとってきた。


「着替えてもらう前に、先ずは体を洗います。脱いで」


「は、はい。あ、あの。自分でやります」


「背中や頭は自分でやれないでしょ。ほら、背中を向けて脱いで」


「はい……」


 ヴァンが背を向けて服を脱ぎ、ボロ布の腰巻きを取る。パンをたくさん食べさせてあげたくなる背中だった。


「じゃ。頭から洗います。冷たくても文句は受け付けません」


「はい」


「石けんを使うから、頭に違和感があっても絶対に目を開けないでね。口も閉じててね」


「はい」


 エリザベートは泡立てた石けんでヴァンの髪を洗う。


「呼吸は止めなくていいからね? 鼻で息を吸ってもいいからね。あとちょっとの我慢」


「うー」


「はい。よく頑張りました」


 エリザベートは水を掛けて泡を洗い流す。手ぬぐいで優しくヴァンの顔を拭く。


「はい。洗髪は終了。目を開けてもいいよ。髪質はいいみたいだし、これからは小まめに洗うのよ。お次は、お背中を洗います」


 手ぬぐいを濡らして泡立てた石けんを付け、エリザベートはヴァンの背中を拭く。


「うわあ。面白いくらいボロボロと垢が取れる」


「ご、ごめんなさい……」


「気にしない気にしない。長旅してきたんでしょ。しょうがないよ。それにしても小っちゃい背中ね。まるで女の子」


「ごめんなさい。頑張って早く大人になります……」


「謝ることじゃないでしょ。さ。背中終了。前は自分で洗ってね」


「はい」


 しばらくしてヴァンが体を洗い終えたので、汚れた水は畑に撒いた。


「じゃ。綺麗な水を掛けるから、畑の前で立ってて」


「はい」


 エリザベートは理髪店に行き、水瓶から桶に水を汲む。

 そして中庭に戻った。

 ヴァンは菜園に背中を向け、出入り口ドアに体の正面を向けていた。だからエリザベートは正面からヴァンの裸を見る。


「こらこら、正面を――。え? あれ?」


 視線を逸らそうとしたのだが、その一瞬で見てしまった……というより、股間にあるだろうと思っていたものが、見えなかった。


「ヴァン。おちんちん……どうしちゃったの?」


「ありませんよ……?」


「え? 狼に食べられちゃったの?」


「最初から……ありません……」


「嘘……。てっきり男の子だと……」


「だ、駄目ですか。女だと働かせてもらえませんか?」


 ヴァンの声が震える。どうやら性別を誤解されていると気づいていたようだが、働きたいから言いだせなかったようだ。


「女だけど、畑仕事は得意です。キャベツ。作れます。エリザベートさんの赤ちゃん作ります。だから、お願いします。私をここで働かせてください」


「働くのは構わないけど……。うーん。とりあえず。えいっ」


 エリザベートは桶の水をヴァンにぶっかけた。

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