第三章 エリザベートとヴァンの同居生活

第13話 エリザベートはヴァンに街並みを紹介しつつ家へ向かう

 ラングドックの城塞都市アイガ・モルタスは首都パリから馬の旅で一ヶ月、教皇庁の座すアヴィニョンからは南東へ徒歩で一日、プロヴァンス伯領マルセイユからは西へ徒歩で一昼夜に位置する。野盗に襲われたり、ぬかるみにはまったりしなければ、だが――。

 周辺の気候は温暖で葡萄やオリーブがよく育ち、都市の南と東には塩湖があり製塩業も盛んである。

 東のカマルグ湿地帯に多数生息する馬は労働力として重要な役割を果たす。北や西には羊や牛の放牧に適した山や牧草地が広がる。

 都市は運河を通じて地中海に接続しており、海外に繋がるフランス王国唯一の貿易港として、西方や南方大陸との交易により莫大な利益をもたらしている。港には地中海沿岸国から多様な船が集まっており、香辛料や絹織物や宝石などの高級品が積まれている。

 四方を城壁で囲まれた長方形の街は、大路と小路が東西南北に走り、三十八の区に三千人が暮らす。活気にあふれた商売の声が途切れない賑やかな街だ。

 エリザベートは初めて都市を歩くヴァンのために、華やかな『エミール・ゾラ大通り』の市場を通って家へ向かう。何処を見ても人であふれていて、ヴァンが迷子にならないように気を配る必要があった。ヴァンはキョロキョロと視線を周囲に向けて落ちつきがない。


「うわあ、凄い……」


 エリザベートは自分が初めて都市を見たときのことを思いだしながら、ヴァンと同じ景色を眺める。

『エミール・ゾラ大通り』は広場と呼んで差し障りのない幅広の道で、北側の城壁に接しており、その手前の日陰にはゴザを敷いて物を売る者がいる。反対側は屋根付き店舗が並び客がひっきりなしに出入りする。

 連なる建物の高さはまちまちだが、いずれも二階建て。限られた土地を有効活用するために隣の家と壁を共有しているため、隙間はない。

 表の壁面ファサードは石材が剥きだしの物もあれば、積まれた石に赤みがかった白色のモルタルが塗られている物もある。モルタルの表面に煉瓦の絵を描き、煉瓦造りのように見せかけた建物もある。多くの建物が石畳の路地に面した一階に工房や商店を持ち、二階が居住空間になっている。


「ワインを入荷したよ! プロヴァンスの赤だよ!」


 壺を抱えた女が路地を行く人々に声を掛けている。アイガ・モルタスにはワインを提供することを目的とした、座席を有する店は存在しない。ワイン売りから一杯のみ買うか、ワイン商から瓶や壺単位で購入するのが一般的だ。

 右手の商店では軒先の台に魚介類を並べて売る男と、その客がいる。少し視線を上げれば一階の上に青銅細工の看板があり、魚が描かれている。魚屋に意識を奪われていると、目の前を若い男が声を張りながら通り抜ける。


「水汲みです。御用の方はお呼びください。水瓶一杯につき一ドゥニエです!」


 他にも周囲は何処へ視線を向ければいいのか分からない程、音と声があふれている。


「モンペリエから毛織物が届いたよ。この鮮やかな緋色、見ていってくれ!」


「おい小僧、やっとこの持ち方がなってない。こうだ!」


「籠一杯のプラムが三ドゥニエだよ。早い者勝ちだよ!」


「木炭は要らんかい? 質のいい木炭だよ。今日を逃すと、次の仕入れはいつか分からないよ」


「オリーブで作った蝋燭だよ! 蜜蝋より安くて長持ちだよ!」


 笛を吹く音や樽を手で叩く音に負けじと、客を誘う大声が二人を包もうと腕を伸ばしてくる。工房からは工具で金属を打つ音と、親方が徒弟を怒鳴る声が飛びだしてくる。


「ここはねー。私やヴァンのおじいちゃんが生まれたくらいの時代に、フランスの王様が貿易港が欲しく造らせた街なの。あっちこっちから物が集まってくるから、色んなものがあるのよ」


「は、はい……」


「あー。街の光景に驚いて声も出ないか」


「今日は、市かお祭りなんですか?」


「んー。普通の日だよ」


「え? 普通の日でこんなにも賑やかなんですか?」


「運河で繋がっているから海が遠くて分かりにくいけど、ここ港町だから常に活気あるわよ。風が南から吹いてくるときとか、たまーに海の匂いがするから港町だって思いだせるかな。三時課の鐘が鳴ってから晩鐘が鳴り終わるまで、音や声が途切れることはないから」


「す、凄いですね。耳がおかしくなりそうです……」


「心配は要らないよ。私の声には癒やし効果があるんだから。ね?」


「は、はい」


 ヴァンの表情が綻ぶ。


「ほら。ポールポール


 エリザベートは笑いながら、少し先にいた豚を指さす。豚porcと港portの発音が同じ(末尾の子音を発音しないため同じ発音になる)という言葉遊びだったのだが、ヴァンには通じず、笑いもしない。

 冗談が滑ったエリザベートは恥ずかしさの裏返しでヴァンに逆恨みの目を向けるが、彼は気づきもせずに、街の至る所に好奇の視線を彷徨わせている。


「あれ?」


「ん。どした? 何か珍しい物があった?」


 エリザベートがヴァンの視線を追った先では、恰幅のいい女達が手にパニエを提げて歩いている。隣近所の主婦が一緒にお買い物に来ているのだろう。

 女達は南方のからっとした陽差しで育ったことがよく分かる肌をし、癖のある茶色い毛を束ねて、青や白の頭巾を被っている。ゆったりとした一枚布の服を着ており、色は白や、くすんだ青やグレー。

 振り返ったヴァンの視線がエリザベートの頭から足下に下がると、上に移動し直し顔までやってきた。

 赤い亜麻布のワンピースと、同色の頭巾が珍しいのだろう。先程リュシアンに対する礼儀として頭巾を外した際に見えたホワイトゴールドの髪を思いだしているのかもしれない。


「ん? なに? 私が美人すぎて見とれてる?」


「はい……」


「こらこら、正直すぎ」


 エリザベートはヴァンの肩をべしべしと叩く。冗談半分で言ったから、肯定されるとは思ってなかった。照れた顔でも見せてくれるかと思ったのに、逆に自分の方が顔を赤くしていそうなので、エリザベートはヴァンの背後に回って肩を押す。


「ほら、立ち止まってないで歩いて、歩いて。いつまでも同じ場所に留まっていると邪魔になっちゃうよ。こっち。ここ、果物屋の角を曲がる。覚えておいて」


「エリザベートさんは周りの雰囲気と違います……」


「私はずーっと北の方の出身だからね。小柄だし、髪の色も違うし、周りからは浮いちゃうかな」


「でも、声は周りの人と同じくらい大きくて――」


 素敵ですとヴァンは続けようとしたのだが、エリザベートは淑やかさに欠けるとでも言われると誤解する。だから、背中を叩いて、ヴァンの言葉を遮る。


「おらあっ!」


「な、なんですか、いきなり」


「ついたわ。ここが私の自宅兼仕事場、トゥールーズ理髪外科医院よ。住所は『自由通り』の五番地。きっと自由気ままに生きている人が昔にいたから、通りがこんな名前になったのね」


 入り口戸の前でエリザベートは頭上を指さす。

 壁から路面に迫り出した棒があり、四角形の看板が下がっている。それは青みがかった銅製の板で、人の頭部とその髪に当てられたハサミが描かれていた。看板の下端には九の字を倒したような形の瀉血ナイフが細工されている。


「ほら、この看板を見て」


「エ、エリザベートさんは人の首を、売っているのですか?」


「なんでそうなるのよ」


「だ、だって、人の首付近に刃物が当てられていて」


「髪を切っているの。何処からどう見てもこの看板は理髪店でしょ。私は理髪外科医。人の髪を切ったり、瀉血や抜歯とかの外科手術をするの」


「瀉血?」


「そ。知らない? ナイフで患部の静脈を切って血を出すの」


「い、痛そうです……」


「痛いよ。だから暴れる人もいるし。もしかしたらヴァンには、痛みで暴れる人を押さえる仕事をしてもらうかも」


「こ、怖いです……」


「冗談冗談。私は滅多に瀉血しないし、仮にするとしても、上手だから患者が痛がらないようにするから。さ、入って。ここが今日からヴァンが暮らす家よ」


 年頃の未婚の女子が男子を家に住まわせることは、この時代の文化では特に珍しいことでもない。一組の夫婦が一つの家を所有できるのは数百年後に訪れる裕福な時代のことである。十四世紀の南仏では、血縁関係にない者が同じ家に住むことは、ごく普通に起こりうる。

 家に使用人を雇ったり、徒弟を弟子入りさせたり、結婚や離婚により住人は頻繁に入れ替わる。羊飼いのように季節ごとに住処を変える者を長期間、泊めることもあった。彼らは羊に牧草を食べさせるため、夏は北へ移動し冬は南へ移動する必要があり、数ヶ月ごとに異なる住処に滞在することが一般的であった。

 血を分けた骨肉の一族と、同じ家に住む者との間に区別はなく、どちらも家族という。

 このように同じ家屋に血縁関係のないものが長期間住むことが当たり前のように起こりえる時代だから、三年前に十三歳だったエリザベートにしても血縁関係にないアンリ・ド・トゥールーズの家に、住み込み労働のために同居していた。だから、彼女はヴァンのことを生涯の伴侶を家に迎え入れるというより、住み込み労働人の徒弟を一人雇うくらいの感覚でいる。

 エリザベートがドアを開けると、室内からジャスミンとキャラウェイの香りが僅かに漂ってくる。ジャスミンは革製品の臭い消し。キャラウェイは客の希望によって髪につける香料だ。エリザベートが屋内に入ると、ヴァンは未知の匂いに一瞬だけ躊躇ったように立ち止まったあと、続いた。

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