第5話 家に帰ってきたらマリウスが待ち構えていた

 アンリの名誉を護れたエリザベートは比較的、機嫌が良かった。

 だが、エリザベートは『自由通り』に辿り着くと、隠す必要のない感情を顕わにして眉を顰める。

 家の前に、彼女と結婚して店を乗っ取ろうと目論むマリウス・デュボワが立っていた。

 エリザベートの住む家は隣家と左右の壁を共有していて、同じように家々が連なり長方形を描き、中庭を形成している。家屋を通り抜けずに中庭へ入る共用の通路が二箇所あるから、エリザベートはその気になればマリウスと顔を合わせずに家に帰ることができる。

 しかしそれは負けた気がするので、堂々と正面から帰ることにした。

 エリザベートに気づいたマリウスの視線は、彼女の頭上へ向かった。しかし、すぐに若干気圧された感を残しつつも、小馬鹿にしたような笑みを浮かべる。


「何処に行ったのかと思えば、水汲みか」


「おはよう。マリウス」


 気にくわない相手であっても、エリザベートは挨拶を欠かさなかった。

 マリウスは一瞬だけ呆気にとられると、すぐに表情を引き締める。


「店の前は随分と綺麗だな。繁盛しているようで何より。これなら組合費の支払いは問題なさそうだな」


 エリザベートはマリウスの皮肉を理解した。理髪店の客が多ければ、正面の路地は掃き捨てられた大量の髪が落ちているはずだ。実際、マリウスが働く理髪店の前は、髪の毛が散らばっている。

 アイガ・モルタスの城壁は外敵の侵入を阻止することと同時に、海からの潮風や砂が吹きこむのを防ぐことも目的として建てられている。路地は風が吹き抜けないように、都市の端から端まで一直線に貫くことなく、途中で屈折する。そのため、都市内は空気の入れ替わりが少なく、路地にゴミが留まりやすい。

 トゥールーズ理髪外科医院は客が少ないから捨てる髪も少ないのだが、エリザベートはゴミや動物の死骸が病気の原因になることを知っているため、店舗の内外を清潔に保っている。


「ほら。手伝うから、水瓶を下ろせ」


「……ん」


 建物は背が低いので、水瓶を頭に乗せたまま入ることはできない。いったん下ろす必要がある。助け合わなければ生きていけない厳しい時代だからこそ、皮肉屋のマリウスであっても、目の前でエリザベートが困っていれば手を差し伸べてくれる。


「ありがと」


「ふん……」


 マリウスが瓶の窪みに手をかけて力を入れる。

 エリザベートが腰を落としてからゆっくりと瓶を前に出すと、マリウスの腕が震え膝が崩れそうになる。


「お、おい」


 完全に想定外の重さだったのだろう。女のエリザベートが運べる程度の水なら、余裕で持てるとタカをくくっていたに違いない。


「ほら。君も徒弟の頃は水汲みに行ってたんでしょ? 懐かしい重さでしょ」


「くっ……」


 水瓶を割るわけにもいかないし、手伝ってくれる者に恥をかかせるわけにもいかないから、エリザベートは力を入れて瓶の重さの大半を自らが引き受け、ゆっくりと腰の高さに据える。

 そのとき、隣家の前にゴザを敷いて寝転がっていた男が立ちあがる。歳は三十ほどで、名をギュスターヴ・ティレルという。人々は晴れているときは、暗い家の中よりも軒先や公園を好む。彼は家の前で横になり、無為に時を過ごしていたところだ。

 エリザベートは、ギュスターヴのボサボサ頭の下にある眠たそうな目に挨拶をする。


「おはよう。ギュスターヴ」


「おはよう。エリザベート」


「おい。なんだ、お前は」


「隣の家にいるんだから、私の隣人に決まってるでしょ」


 そう言っている間にギュスターヴはエリザベートのベルトに提げられた袋に手を入れる。


「おい、何をしているんだ、お前!」


「ちょっと。マリウス、うるさい」


 苛立つマリウスをエリザベートがたしなめていると、ギュスターヴは袋の中から木製の鍵を取りだす。そして、理髪外科医院の鍵を開ける。


「今日は、手伝わなくて良さそうだな?」


「ええ。ありがとう。ギュスターヴ。髪を梳くから、仕事へ行く前に寄ってね」


「おお。世話になる」


 ギュスターヴは鍵をエリザベートの袋に戻すと大きな欠伸をし、自宅前のゴザに寝転がった。

 普段は彼が水瓶を降ろす手伝いをしている。代わりにエリザベートも、彼の仕事を手伝う。お互いに助け合うご近所である。


「はい。マリウス。そのまま、後ろに下がってお尻で押してドアを開けて中に入って」


「お。おう……!」


「万が一にもありえないことだけど、仮に私と結婚したら、君が毎日こうすることになるのよ。さ。重いなんて文句を言わないで」


「くそっ……!」


「ほら。頑張れ」


 マリウスの足取りは悪くふらついている。


「おい。あの男はなんなんだ」


「だから、隣人のギュスターヴよ」


「随分と仲が良さそうだな」


「ええ。ご近所関係は良好よ」


 二人は室内に入ると、壁際の葦束の上に水瓶を降ろす。エリザベートはテーブルに置かれた木製の蓋を取り、水瓶に乗せた。


「ん。マリウス。ありがと。素直に感謝するわ。じゃあ、またね。ばいばい」


「ああ。……じゃなくて!」


 一仕事終えた感を出しつつマリウスは退室しようとしたが、慌てて振り返る。

 頭巾を脱いだエリザベートは両手の指先で髪を整えつつ、頭部をマッサージする。


「何よ? まだ何か用があるの?」


「横着なことをするな。櫛を貸せ。俺が梳く」


「……そうね。君の職人としての腕前を、エリザベート親方が見てあげましょう」


 エリザベートはふざけたように笑い、椅子に座る。

 マリウスは椅子の後ろに立つと、彼女の髪を解き、丁寧に櫛を入れていく。


「理髪職人組合はエリザベートから月に一リーブルの賃貸料を請求することになった」


「……ん? 私がいない間に勝手な決めごとをするのは分かるけど、賃貸料って何? なんのこと?」


「この建物だ」


「それはおかしいわよ。あんたの聞き間違いじゃないの? 賃貸料って物を借りたときに払うお金のことよ? ここは私がアンリさんから相続した建物だから、誰にも賃貸料を払う義務はないよ」


「いや。エリザベートが相続したのは家屋だ」


「そうよ。だから、ここは私の物。誰にも賃貸料を払う必要はない」


「アンリさんは妻に先立たれたあと再婚していなかったから、店舗は組合が相続している」


(なるほど、次はそうやってこのお店を奪いにきたか。それにしても杜撰なアイデアね)


 マリウスはエリザベートの髪を中央で分け、左右で束ねた。


「できたぞ」


「ん。ありがと。手際よくできていて非の打ち所はなかった。職人としての腕前だけは認めてあげる」


「余計な一言を添えるな」


 エリザベートは立ち上がると、奥の部屋へ向かい、マリウスを手招きする。


「代金代わりというわけじゃないけど、マリウスは私のもう一つの職業を知らないみたいだから教えてあげる」


「え?」


「ほら。おいで」


 隣室には机と椅子が一体化した書き物台があり、木の棚には、獣の皮で包まれた物が数多く収められている。


「なんだ、これは……」


 マリウスは餌を待つ雛のように口を開いたまま、室内を見回した。

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