第4話 恩人を馬鹿にした性悪女を言い負かす

 話は盛り上がったが前方から背の高い痩せた男が近づいてきたので、二人は次第に声を小さくしていく。

 男は動物の皮を縫った外套を着ており、フードを目深にしている。外套が相対的に短く見えてしまう程の長身は珍しいし、何より同業者だからエリザベートにはそれが誰か分かった。


「おはよう。ロシュ」


「おはよう。エリザベート嬢。ソフィア婦人」


 男は街の東側にある理髪店の職人だ。近隣の村落に仕事をしにいくのだろう。村には理髪店がないため、近隣の都市から職人が出張して村人の髪を切る。以前はエリザベートも村に出稼ぎに出掛けていたが、一ヶ月ほど前に持ち回りから外された。

 ロシュとすれ違ってしばらくすると、エリザベートはソフィアにおどけた調子で囁く。


「ロシュさんの荷物、小さな袋だけでしょ。理髪職人はハサミと櫛とカミソリと瀉血ナイフと抜歯鉗子と血止めの軟膏と包帯さえあればできるお仕事です。言葉にするとたくさん道具を使うように聞こえても、軽い袋一つで事足ります。大きな水瓶を頭に乗せた私も同じ職業なんだけどなあ。おっと。名乗るのが遅れてすみません。ソフィアさん。私はエリザベート。『自由通り』で理髪外科医をしています」


「あらまあ。『自由通り』ということは、アンリのお店を継いだのね。私も若い頃は彼に髪を切ってもらったのよ」


「あ。そのときのお話を聞かせてもらってもいいです?」


「ええ、もちろん」


 二人はお喋りしながら歩く。都市に戻ったあとは、話を聞くために大通りを大幅に遠回りしてから、エリザベートはソフィアと別れた。

 帰路の途中、木造平屋が並ぶ区域で新婚の夫婦が家の前に座りこんでいた。多くの人々が朝に家族同士で蚤を取りあい、会話をして交流する時間に充てる。オック語で小指を「蚤取り指」と呼ぶ程に、蚤取りは身近な行為だ。

 過去に夫はエリザベートに結婚を申し込んで何度も断られているし、妻はそれを知っていてエリザベートのことを快く思っていない。あまり新婚夫婦の前を通りたくないが、迂回するには頭上の水瓶が重くて邪魔だ。


「あら。エリザベートさん。おはよう」


 相手の表情から悪意が読み取れるが、エリザベートは気づいていない素振りで返事をする。


「おはよう。アンナ。ジャック」


「ねえ、蚤を取りあういい人がいないから、朝陽が薄いこんな早くからもう水汲みに行っていたの? それとも夜明け前から、死者の霊魂が作る行列でも探して男漁りでもしていたのかしら? 生きた男にいい相手がいないようだしね」


 アンナは言葉に棘を生やして揶揄するが、ヒキガエルの吐く泡が空の白鳩に届くことはないから、エリザベートは笑顔を絶やさない。


「悲しいけど、最初の指摘については、そうなのよ。心配してくれてありがとうね。素敵な人と一緒にいられるアンナが羨ましいわ。お仕事の都合で水をたくさん使うことがあるから、朝から大忙し。それじゃあね」


 アンナはエリザベートにとっては客になり得る相手だ。たとえどのような皮肉を言われようとも、敵対するより愛想よく振る舞う方が良い。


「ほんと。あんたって青白い顔して死者みたい。夜遅くまで異端の集会に参加しているんじゃないの?」


 ジャックが途中で制止しようとするがアンナは舌鋒を緩めない。


「アンリは病気を治すためにローマまで巡礼したんでしょ? それなのに帰ってきてすぐ死んじゃったし、信仰心が足りなかったんじゃないの? あははっ」


 エリザベートは笑顔のまま夫婦の下を離れかけたが、足を止める。自分が何を言われても構わないが、親に等しい大切な人を侮辱されて、黙って去るわけにはいかない。

 喉まで熱いものが出かかっているが、エリザベートは口の端に力を込めて、普段と変わらぬ調子で言う。


「アンナ。二つ教えてあげる。ローマへの過酷な巡礼を果たしてアイガ・モルタスに帰り着いたアンリさんの信仰心は本物だから、神と聖人のご加護があったことに疑いの余地はないわ。それを疑い敬意を払わないことこそ、教会の教えに背くことよ。そして、次のことは貴方だけでなく愛する夫の身にも関わるからよく聞いて」


 アンナの顔が赤く染まり目の端が吊り上がるが、エリザベートは丁寧な口調で続ける。


「貴方が言っていた『夜中に死者の霊魂が地上を彷徨う』というのは異端の教えよ。死者の魂は昇天するの。だから、地上を彷徨うことなんてない。ここはアヴィニョンの教皇庁に近いの。異端審問官に捕まって火刑台に送られたくなかったら、不用意な発言には気をつけて」


 アルビジョア十字軍(異端との戦いとしてキリスト教徒同士で行われた戦い)から既に一世紀が経つが、アイガ・モルタスより西方の地では未だに火刑台に送られる者があとを絶たない。

 アルビジョア十字軍の勝利によって南仏まで権力が及ぶようになったフランス国王が建造したのが、エリザベート達が暮らすアイガ・モルタスだ。市民の多くは自覚していないが、遠き地におわすフランス国王の庇護下にあるからこそ、アイガ・モルタスでは異端審問の影響力が弱く、アンナのような迂闊な発言が見逃されている。


「もし都市の外で同じ発言をしたら、近所の者から密告されて家族全員、投獄されちゃうわよ」


 ――というのはさすがに言いすぎだし、恨みを買うかもしれない。エリザベートは言葉を吞みこんだ。


「じゃあね。敬虔なカトリック教徒として、司祭様の説教を聞くためにミサで会いましょ」


 アンナの顔が赤黒く染まって歪んでいることに気づかないフリをして、エリザベートは立ち去る。皮肉の応酬で勝ったから、鼻歌を鳴らす。

 ――なーにが「蚤を取りあういい人がいないから、朝陽が薄いこんな早くからもう水汲みに行っていたの?」よ。私は水をいっぱい汲んで体を洗って清潔にしているし、ベッドの葦を頻繁に干しているから我が家に蚤はいないの。マルセイユの石けんがいくらすると思ってるの? 私は清潔なの。仮にいい人がいたとしても、蚤を取る必要ないの。体が痒くてしょうがないなんてこともないの。

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