第3話 毎朝の日課、川へ水汲みに行く

 アイガ・モルタス西地区の一等地――高級住宅街と呼んで差し障りはない――では十六軒の石造家屋が隣家と壁を共有して囲いを作るようにして並び、内側に共用の中庭を構成している。

 エリザベートの理髪外科医院兼自宅は各階二部屋の二階建て。

 一階の路地側が理髪外科医としての店舗。土間になっており、椅子やテーブルや棚が置いてある。

 一階の中庭側は書き物部屋兼書類置き場。足下には石が敷かれている。オック語(南仏で話される言語)やオイル語(北仏で話される言語)だけでなくラテン語やアラビア語の読み書きもできるエリザベートは公証人も兼ねている。これは様々な約束事を獣皮紙に書き記し、証明書を保管する職業である。

 半地下に食物の貯蔵庫があり、ワインと豚の干し肉や野菜が保管してある。

 二階の路地側は居住空間。物置を兼ねているためチェストがあり、中には先代親方アンリの遺品が保管してある。床には羊毛が置いてある。

 二階の中庭側は寝室。葦を束ねたベッドの上にリネンのシーツが掛けられている。床は木製で、屋根は木の板の上に葦が葺いてある。

 家の中から階を移動することはできない。いったん中庭側に出て、梯子を使う。もしくは、建物の背が低いため、中庭にある鶏小屋を踏み台にしても階を移動できる。

 エリザベートや同じ区の家ほど豪華な建物は城壁内に数えるほどだ。教会堂、礼拝堂、屋根付きの市場、領主の館。他には城壁の外に倉庫が並ぶ。

 早朝。陽は昇ったが、城壁から伸びる影が都市に蓋をしている頃に、中庭で飼っている鶏やウズラ達が鳴き始めた。最初の一羽を皮切りに、各家が中庭に飼っている合計数十羽による合唱の始まりである。

 食事に卵を提供してくれるありがたい奴らでも、このときばかりは憎たらしい。寝起きのエリザベートは葦の中で寝返りをうち毒づく。


「鶏達はなんて敬虔な信徒なの。きっと司祭様よりも先に起きてお祈りを始めているんだ。聖書の一節を読むだけの時間でいいから、もう少し寝かせて……」


 エリザベートは体を丸めて手を組んで祈るが願いは叶わない。鶏達の歌声に獣の低いうなり声が加わる。中庭で飼っている豚達の起床だ。


「ああっ! そうだった! 豚まで熱心な信徒だった! 一緒にお祈りを捧げるなんて立派! 汝達に祝福あれ。……ほら、祝福してあげたんだから、もーう、静かにして……」


 エリザベートは仕方なく二度寝を諦めて起床する。

 都市の人々は教会が鳴らす鐘の音に従って規則正しい生活を送っているわけではない。何故なら、城壁内で人より多く暮らす家畜達が寝かせてくれないからだ。牛飼いや羊飼いが牛や羊を壁の外で飼育してくれているのにも拘わらず、城壁内は動物だらけだ。人口三千人に満たないアイガ・モルタスだが、家畜は優に一万を超える。

 エリザベートは枕の下から下着を出して着用すると、葦のベッドから這い出る。亜麻布の赤い服を着て、その上にエプロンを重ねる。皮革のベルトを腰に締めて、そこに鍵と小銭の入った袋を掛ける。ホワイトゴールドの長い後ろ髪を束ねると、白い絹の飾り布で巻く。鹿の革の靴を履いて着替えは終了だ。

 エリザベートは中庭側のドアを開けると顔を東へ向け、太陽の位置を確認する。


「『女王の門』の右。これが四月の朝」


 彼女は職業柄、必要になることがあるため、一年を通して何処から太陽が出てくるか同じ場所で観測し続けている。太陽は冬から夏にかけて現れる位置が北へと移動していき、夏至をすぎると南に移動する。そのため、日の出の位置を精確に記憶していれば、観測した日が何月の何日頃なのかが分かる。

 梯子は防犯のため、前夜のうちに二階に引き上げてある。梯子を降ろすのが億劫なエリザベートは、鶏小屋を経由して飛び降りることにした。


「さあ、聖歌隊のもとに天使の降臨よ!」


 エリザベートが前のめりに身を乗りだした瞬間、朝陽が城壁を越えて指し込み、光線が顔を包む。


「わっ」


 目が眩んだエリザベートは体勢を崩した状態で足が床から離れた。瞬時に、真っ直ぐ鶏小屋に着地することを諦める。鶏小屋を蹴って前へ跳び、中庭のプラタナスに手を伸ばすが、届く位置に枝がない。

 エリザベートはプラタナスの幹に右手を回す。そして、幹を軸にして一回転しながら着地。勢いそのまま体は勝手に一歩前へ進もうとするが、そこに一匹の子豚がいた。


「危なぁッ!」


 蹴飛ばすわけにもいかずエリザベートは二歩先へ右脚を伸ばして子豚を跨ぎ、腰を低くした状態でようやく止まった。

 股関節が痺れて一時的に行動不能に陥ったエリザベートは、住処を蹴られた鶏達が抗議の声をけたたましくあげるのを聞いた。


「完ッ全ッ……に目が醒めた……。天使の降臨どころか逆に昇天するところだった」


 エリザベートは周囲に視線を向ける。幸い、中庭を共有するご近所さんには見られていなかった。


「鶏ちゃん達ごめんねえ」


 謝りながら内股で鶏小屋の前に行き、扉を開けて中庭に放つ。


「今日は卵を産んでいないかー。残念。お祈りが忙しかったのね。ほんと、敬虔なこと」


 家の鍵を開けて一階の書き物部屋に入ると、半地下室からパンとベーコンを一切れずつ出す。パンは乾燥している断面を取り除き、その内側を切り取って食べた。豚飼いが豚の群れを連れて店の前を通ったので、いつものように一頭の豚を中庭から連れだして預けた。隣近所も同じようにして豚の数が減る。除けておいたパンの半分を細かくして鶏に与えた。

 中庭には小さくてまだ豚飼いに預けることのできない子豚がいるので、残ったパンを与える。これでようやく家畜聖歌隊の解散だ。


「まあ、うちの子が食べてくれたと信じよう」


 子豚が十頭ほど殺到してきたので、エリザベートの飼っている子がパンを食べたのかは分からない。食べる量は少なかっただろうが、他の家も同じように、古くなった食品や野菜の端などを与えるから、いずれ満腹になるだろう。


「しっかり食べて、豚飼いに預けられるくらいになるんだぞ。そんで、冬までにまん丸になってね」


 冬になると食肉に加工される運命を知らない子豚が、ピューと鳴いた。

 エリザベートは部屋に戻ると、羊毛を詰めたクッションを頭に乗せると赤い頭巾シャプロンを被り、空になった水瓶を持って家を出る。

 アイガ・モルタスの北東から南西を流れるヴィドゥール川の上流へ向かい水を汲むのが毎朝の日課だ。何度も往復するのが煩わしいエリザベートは、顔がすっぽり影に覆われるほどの大きな水瓶を頭に乗せていく。

 店舗兼自宅を出て路地を北へ少し行くと、顔なじみの老人と出くわす。


「サリュ。私の小さなエリザベート。今日も精霊のように美しいね」


「サリュ。ありがと。ニコラさん。目はしっかり見えているようね。健康的でいいことだわ」


「どうだい。これから聖ルイ広場にでも行って、お散歩でも」


「私の頭の上の水瓶を見て。忙しいの」


「はっはっはっ。美人さんの顔に見とれていて、頭の上には気づかなかったわい」


 吟遊詩人が愛を歌った時代の若者が、昨今の老人だ。彼らは南国気質も相まって女を見れば口説かずにはいられない。


「じゃ。行くね。サリュ」


「サリュ。エリザベート」


 エリザベートは老人と別れると大通りに出て西に進む。


「ほんと、今時の若者は老人を見習うべき。『女のくせに』と言う前に、ニコラさんみたいに『今日も美しいね』と言ってよ」


 歩いてすぐ『塩の門』に到達するが、ここは利用しない。今は見張りの兵士以外に人はいないが、やがて荷車に塩を載せた商人達が列を成すので、わざわざここを通る必要もない。

 少し進んだ『ガルデットの門』が、普段エリザベートが利用する城門だ。

 城門は――城門に限らずアイガ・モルタスの石造建造物は――ロマネスク建築を基礎にしつつ、ゴシック建築の影響を濃く受けているため重厚さと華麗さを兼ね備えており、見る者を力強く圧倒する。側防塔を備えた『ガルデットの門』は、高さ九杖(カンヌ)。カンヌは水深の浅い川を船で渡るときに川底や川縁を押す棒のことで、エリザベートが背伸びをして腕を伸ばしたくらいの長さがあり、長さの単位として使用される。兵士であれば同様の長さを表現するために「槍」を用いる。

 城門の扉は開かれており、門の外側と内側にある落とし格子が両方とも上げられている。

 通路は騎馬がくぐれる高さがあるため、水瓶を頭に乗せたエリザベートでも悠々と通れる。


「兵士さん。おはようございます」


「おはよう。水汲みだな? 森の近くで大きな狼が目撃されている。川を越えないように」


「ええ。もちろん。濡れたくないから川は越えません」


 エリザベートは見張りの兵士に挨拶をして城門を出ると、跳ね橋を渡って水堀を越える。

 そして、道に刻まれた深い轍に足をとられないように中央を歩いて北へ向かう。

 川は領主や教会の所有物であるため、水汲みも洗濯も、許可されている場所へ行くしかない。

 下流は利用可能だが、海が近いため飲料には適さないし、肉屋、染色職人、皮革職人、鍛冶職人達が流す排水が混ざるため水質が悪い。

 前方の豚の行列を遠くに眺めながら遠矢の射程にして五つの距離を歩き、短い林を抜けて川の水汲み場に到着。エリザベートは見知らぬ壮年の女性と一緒になった。


「サリュ。ご婦人」


「サリュ。お嬢さん。あら、まあ、大きな瓶だね。私まで影に吞まれちゃいそうだよ」


「何度も往復したくないから、無理して頑張ってます」


 エリザベートは頭から水瓶を降ろし、水を汲む。


「おや。あんた、まあ、珍しい髪の色をしているね」


「ええ。北の方の出身だから、雪の色が付いちゃったのかも」


 エリザベートは水を汲み終えた瓶をいったん川沿いの大きな岩の上に持ち上げる。それから、頭巾の中に羊毛のクッションが入っていることを確かめて、頭の上に水瓶を乗せる。あとはバランスを崩さないように手で押さえる。

 エリザベートと女は並んで帰路についた。名前も身分も知らない相手だが、共通の話題があるから会話には困らない。


「若いとはいえ、大した力だよ。私があんたくらいの歳のときでもそんな大きな瓶は無理だねえ。あんた男より強いよ。間違いない」


「ええ、もちろん。水汲みで競走したら、絶対に私が勝つわ」


「ああ、そうだね。男はそんな大きな瓶は持てないから勝負にすらならないね。男どもときたら、力仕事なら任せろと言うくせに、水汲みは女の仕事だと言って一度たりとも水を汲まない」


「まあ、ご婦人の言うとおり! 私、朝の水汲みで男とすれ違ったことなんて、ほとんどないわ。ここですれ違う男なんて、痩せた牛に荷車を曳かせた塩売りか、徒弟の子供くらいよ」


「男どもは小さな瓶を運ぶ姿を女に見られたくないのさ。ワイン商だってワイン樽を持てないもんだから、小さな皮袋に入れて売り歩いているんだからね」


「分かります。この前『これいっぱい、ワインください』って私が出した壺が、ワイン売りが持っている瓶より大きかったんですよ」


 いつの時代でも女が集まれば、する話題は決まっていた。

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