第一章 理髪外科医エリザベート・ド・トゥールーズ

第2話 上から目線で結婚を申し込まれても断る

 窓際のテーブルには販売用のカツラが置いてある。理髪店なら髪は入手し放題だ。

 陽が陰ってきたので、エリザベートは店内が見やすいように窓枠からガラス戸を外した。ローマ帝国時代の鏡を所有するエリザベートでも、さすがに当時の透きとおったガラスは所有しておらず、十字窓は小さく半透明だ。


「通りから見える位置に抜いた歯を飾るところもあるらしいけど、うちも真似した方がいいのかなあ。いっぱい歯が並んでいれば、経験豊富だって伝わるからお客さんも安心して来てくれるかなあ。私は理髪職人としてよりも外科医の能力をアピールしたいし、やってみようかなあ……。でも、人の歯を並べるのって、なんか抵抗あるなあ……。……はあ、暇だ」


 昼間の男の嫌がらせが影響しているのか、客が来る気配は一向になかった。

 やがて、室内が薄暗くなったのでエリザベートは店を閉めることにし、窓枠に十字窓をはめ、遮光と防寒を兼ねた木の板を重ねる。

 ちょうどそのときドアを開ける者があり、鈴が小さく鳴った。

 客だ。そう思ったエリザベートは残る労働パワーを笑顔に変えて挨拶するが、一瞬で表情は曇る。


「ご機嫌よ――うぅ……。なんだ、マリウスか……」


「随分な態度だな。客が寄りつかない理由がよく分かる」


 地中海の陽差しで灼けた情熱的な眼光が真っ直ぐエリザベートを捉える。

 エリザベートと変わらぬ年頃に見える男の名はマリウス・デュボワ。親方の下で修行を積む一七歳の職人。腕前は確かで、徒弟に理髪の技術を教える立場にある。おそらく同僚から切ってもらい、自らの手入れにも余念がないであろう短い髪は、沈みかけの夕日に照らされて柔らかく波うつ。

 理髪職人らしく爽やかな好青年――とエリザベートも認めざるを得ない。喋らなければという条件付きだが。


「ごきげんよう。俺の小さなエリー」


 マリウスが白い歯を見せて微笑む。

 エリザベートは熱のこもった視線を無視して窓に向き直り、窓板がはまっていることを確認する。


「素敵な紳士様。貴方に三つのお願いがあるわ。一つ、気持ち悪い挨拶はやめて。二つ、エリーって呼ばないで。三つ、客じゃないなら帰って」


「最後の確認だ。俺と結婚する気になったか?」


「まあ嬉しい。これが最後なのね。明日から付き纏われなくてすむなんて素敵だわ。それではさようなら、ごきげんよう」


 エリザベートは素っ気なく言い放ち頭を下げる。

 マリウスは退去するつもりはないらしく、部屋に入ってくると中央の椅子に腰掛ける。

 話が長くなりそうな気配を感じ、エリザベートは壁にもたれる。


「で、なんの用?」


「出稼ぎ担当の持ち回りから外れたそうだが、収入は減ったんじゃないのか? 来月の組合費は払えるのか?」


「ええ、もちろん。払えるわ」


 昨今、都市では職人の保護や育成を目的として、同業者組合というものが組織されるようになった。マリウスが尋ねた組合費とは、組合員が怪我をしたときの見舞金や、死亡した際に家族への年金として積み立てられるものだ。

 組合に参加する者は、商品やサービスの値段を統一することにより、同業者内での争いが発生しないように努める。また、都市内における親方や職人の数を制限し、組合員が仕事を奪われないようにもした。

 エリザベートは、アイガ・モルタスで三人までと定められた親方のうちの一人だ。

 トゥールーズ理髪外科医院の先代親方のアンリが同業者組合の長を務めており、エリザベートを親方に任命したが、都市の新参者でしかも女が親方になるのは異例のことである。


「ああ。マリウス君。理髪職人組合の要件で来ているのなら、私のことはエリザベート親方と呼びなさい。礼儀を失しないように。よろしい? 私は親方。君は職人。偉いのは誰?」


「ちっ。女のくせに生意気なことを言いやがって。エリー。さっさと俺の女になれ。それがお前のためにも、組合のためにもなる」


「なんで私のためになるのよ。マリウスはこの家と親方の身分が欲しいだけでしょ。アイガ・モルタスの理髪職人組合が認める親方は三人まで。あんたはどれだけ頑張ってもこの街では親方になれない。親方になるためには都市の外を遍歴して、椅子が余っているところへ行くしかない。あんたは、ただこの街から出ていきたくないだけでしょ?」


「ちっ……」


 マリウスは苦虫を噛みつぶしたような表情を浮かべる。

 都市内で仕事がない者は、職を求めて他の都市へと移動する。それにより、職人過剰な都市は職人を一定数に保てるし、逆に職人の足りていない都市では職人を補充できる。職人の移動により技術も伝わっていく。


「エリー。このままだとお前はすべてを失うことになるぞ」


「はあ? 何それ、脅し?」


「最近、狼の群れが付近の村を襲っているという噂は聞いたか?」


 急に話題が変わったためエリザベートは訝しむが、問いに答える。


「聞いていないけど。狼は人を襲わないんじゃないの? 槍や弓矢……鉄の怖さを知っている。村を襲っているのは野盗でしょ? 財産はたいて出兵したのに不遇に見舞われて十字軍に行き損ねた騎士が野盗に身をやつしたという方が、よっぽど信憑性あるわよ」


「今朝、俺も城壁の外で狼を見た。ヴィドゥール川の向こうだ。川の向こう岸で狼が俺に気づくと、じっと見つめてきた。まるで獲物を見定めるように」


「朝から川で何しているのよ。洗濯している女の脚でも見て品定めしていたんでしょ。結婚相手はその中から選びなさい。私は髭が薄い年頃の男は相手にしないの。私が好きな男は、私に髭を剃らせてくれて、お金を払ってくれるお客なの」


 エリザベートは手を振って茶化すが、マリウスは声を低くする。


「狼の出没を受けて、次の会合で、理髪職人組合から夜警を出すことが提案される」


「あら、そう。その会合に私は呼ばれるのかしら?」


「各店から毎晩男を一名夜警に出す。ルネ親方とギュイ親方の間では既に話がついている。お前が反対しても、覆らない」


「ふーん。別にいいわよ。私は夜目が利くし、夜更かしは得意よ。そこらの男より強いし。世間の女が毎日、川に行って汲んでくる水がどれだけ重いか、男様は知らないだろうけど」


「虚勢を張るな。それに腕力の問題じゃない」


「脚も強いわよ。私、多分あんたが中に入った瓶だって余裕で頭に乗せて川まで歩けるから。狼や野盗に囲まれても切り抜けられるわ」


「その強がりを誰が信じるか。夜警には男しか参加できない。女の参加は不可だ」


 エリザベートが身を乗りだし、壁から背中が離れる。


「はあ? うちには男なんて一人も――」


「都市を護るための夜警に人員を出せない店は、理髪職人組合から追放される。都市への貢献は組合の義務だ。エリー、お前がアイガ・モルタスで理髪外科医を続けるには、俺の嫁になるしかない」


「はあ? なんでそうなるの?」


「俺は既に親方に実力を認められている。この店が俺の物になれば俺は親方になれるし、お前は職人としてここで働き続けることができる」


「なに好き勝手を言ってるのよ。乗っ取りじゃない! だいたいここは私の家よ。仮に万が一私がマリウスと結婚しても、家長は私。あんたじゃない」


「俺と結婚して親方の座を譲れ。エリザベート。それがお前のためだ」


「不勉強な司祭様じゃあるまいし、何度も何度も同じことを言わないで。帰って」


 エリザベートは椅子の背もたれを掴んで押し、強引にマリウスを立たせる。

 マリウスはその勢いのまま歩きだし、ドアの前で止まる。数秒制止した後、彼は振り返ってエリザベートを真っ直ぐ見つめる。


「俺のものになれ、エリー。俺がお前を護ってやる」


「次、エリーって呼んだら、一生あんたと口をきかない。帰って」


 エリザベートは精一杯眉間に力を入れて、マリウスを睨み上げる。

 マリウスはまだ何か言いたそうだったが、ドアを開けて出ていった。

 遠ざかる足音が聞こえなくなると、エリザベートはテーブルに向かって拳を振り上げるが、壊すわけにはいかず、堪える。


「はあ? 夜警に男を出さなきゃ組合から追放? マリウスのやつ親方を上手く言いくるめたものね! そこまでして、この店が欲しいか!」


 エリザベートは怒りを発散するため、土間になっている地面を踏みつけた。

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