1310年南フランス城塞都市の理髪外科医と悪魔憑き ~同業者からの嫌がらせになんか屈しない! 私は「理髪外科医」兼「公証人」でラテン語だって話せるんだから~

うーぱー

中世南仏物語 ーContre Vents et Maréesー

プロローグ

第1話 同業者の嫌がらせに屈しない

 城塞都市アイガ・モルタスの理髪外科医エリザベート・ド・トゥールーズは、壁際の木棚にハサミと櫛を置くと、代わりに布の包みを手にし、中から手鏡を取りだす。


「さあ、お客様。鏡をご覧ください。水面よりも綺麗にお姿を確認できますよ」


 ガラスの鏡は既に製造技術が失われた遺物だが、プロヴァンス地方に接するここラングドック地方では、闘技場や水道橋などのローマ帝国時代の遺跡と同じように、いくつかの道具や技術が残っている。

 エリザベートが清潔を維持するために使用する石けんもローマの遺産の一つで、ワインを搾る圧搾機の技術によって近隣の大都市マルセイユで作られる。

 彼女が着る赤い亜麻布のワンピースは、石けんと同じくマルセイユからの輸入品。

 氷上に積もった雪のように白い肌と、雲のように透きとおった絹の髪飾りが巻かれたホワイトゴールドの髪は、まるで貴族の娘だが、ワンピースの上に毛布地の白いエプロンを掛けた格好から分かるように、エリザベートは庶民である。そんな庶民が一人で経営する、徒弟がいないような理髪店にガラスの鏡は随分と不釣りあいな高級品だ。

 客の男は、膝丈の服を皮革のベルトで絞るという、ありふれた格好をしており、彼もただの庶民である。

 しかし、男は鏡を一瞥しただけで特に興味を持たない様子だ。鏡を見慣れているからではない。男が理髪店へ来た理由が、髪を切ること以外にあったため、そちらに意識を奪われていた。


「ああ。うん」


 男は正面の十字窓に顔を向けたまま、だるそうに首を回す。

 愛想の悪い客はいくらでもいるので、エリザベートは特に気にかけない。十六歳の女では客から侮られてもしょうがない。だが、技術には文句を言わせないだけの自信がある。


「それではマッサージをしますね」


 エリザベートは手鏡を布に包んで木棚に置くと、男に掛けてあった皮革のマントを取り、壁の釘に張られたロープにかける。


「頭部から首筋にかけて押していきます」


 エリザベートは血行促進のため、指先で男の頭部を圧していく。続いて、首の筋肉の緊張をほぐす。


「次は右腕を動かします。痛かったら教えてください」


 エリザベートは男の右手首と肘を掴み、体の上方へと上げさせる。前へ、後ろへとゆっくりと回転させ、可動範囲を確かめる。左腕も同じようにした。


「はい。健康そうですね。では、脚も見ていきます」


 エリザベートは男の膝を曲げたり伸ばしたりし、具合を確かめる。


「脚も痛みがなければ問題ないですね。何処か調子の悪いところはありますか?」


「んー。最近、夜になると寒気がする。瀉血しておいてくれないか?」


 瀉血とは血を抜く行為である。悪くなった血を体外に排出すれば病が回復すると、世間では信じられている。

 理髪士は外科医を兼ねており、客が求めれば治療のために瀉血をする。


「あー。瀉血。はい。うん……。えーっと」


 モンペリエの医学校でアラビア人医師から医学を学んだエリザベートは、瀉血で病は治らないと知っている。しかし今のヨーロッパは、神によって創られた人間の体を切り開くことは許されないという宗教的価値観により、医学は大幅に後退している最中。多くの外科医は瀉血によりあらゆる病が回復すると信じている。


「春先の今頃でも夜になると冷えますよね。私も寒気がして、そんなときは壁に張りつくんですよ。お隣さんには竈があるから温かいんです。ほら、壁を共有しているから熱が伝わってくるんです」


 エリザベートは言外に、単に寒いから寒気がするだけであってなんの病気でもないと指摘する。しかし、男はどれほどエリザベートの意図を理解したかは分からないが「ふん」と嘲るように鼻を鳴らす。


「所詮は女か。瀉血する技量がないとみえる」


 男は立ちあがると、肩を回しながら出入り口に向かう。


「お客様。四ドゥニエ。もしくは羊毛の束でお支払い頂きたいのですが」


 都市内には貨幣の鋳造所もあるが、まだ貨幣経済が浸透しきっていないため、物々交換も行われている。物々交換では、需要が高く扱いやすい羊毛が好まれる。

 エリザベートは商人達が使うハンドサインは男に通じないと判断し、請求額の数だけ指を立てた。

 男はエリザベートを見向きもせず、ドアを内側に引いて開けると、路地に向かって声を大きくする。


「まったく、女の指ではマッサージは弱くて効果がない。おまけに瀉血すらできん。十分なサービスを受けられなかったのだから代金を支払う必要もあるまい。別の理髪店へ行くとするか」


 男は道行く人々に聞かせるよう、やや芝居がかった様子で大声を出すと、ドアを閉めずに去っていく。

 十字窓の向こうに、肩を振りながら歩き、すれ違う者を威嚇する男の様子が見える。エリザベートはすべてを察した。いや、最初から薄々と感じていたことが確信に変わった。


「はー。あー。まー。……そっかあ。やっぱなあ。私が女なのに都市の一等地に店を構えているから、それを妬んだ同業者からの嫌がらせかあ。代金を払わないどころか、わざわざ大声でうちの評判を落とすようなことを言ってくれちゃって……」


 先程まで男が座っていた椅子の背もたれをエリザベートが掴むと、ミシリと乾いた音が鳴る。


「誰の力が、弱いって?」


 エリザベートは騎士が使う盾(板を重ね合わせて表面を動物の皮で覆い、縁を金属で補強した物)と同程度の重量の椅子を頭上に持ち上げ――。


「禿げ散らかせ犬野郎! ご主人様のところに帰って骨でも貰って尻尾を振ってろ!」


 椅子を壁に投げつけようとするが、すんでのところで思いとどまり、手は離さずに振り抜く。

 プロヴァンスの北風ミストラルを思わせる突風が屋内に吹き荒れた。十字窓がガタガタと鳴り、ドアが勢いよく閉まり、床の髪と埃が舞い上がる。


「けほっ……けほっ……。あー。石のお家で良かった。木造だったら、ぶっ壊れてた」


 エリザベートは椅子を元の位置に戻す。固いオーク材の背もたれは、指の形に僅かに凹んでいた。


「はあ……。椅子もドアも壊したら修理のお金がかかるよね……。まったく、もう。同職組合は相互扶助するんじゃないの? 露骨に嫌がらせで私を追いだしてここを奪いに来てるなあ」


 エリザベートは椅子に腰掛けると、脚を投げだして脱力する。


「まったく……。分かるよ、分かる。城壁内の一等地にある石造二階建てなんて、喉から手が出るほど欲しいのは分かる。けど、ここは私がアンリさんから相続した物だから、そう簡単に譲るわけにはいかないのよ。アンリさんが存命のうちに、繁盛しているお店を見せてあげることは叶わなかったけど……。私の髪とアンリさんに誓って、絶対に、このお店を賑やかな声でいっぱいにしてみせる」


 アイガ・モルタスでは最初に城代の塔が創建されて、家々は東側に建てられていった。

 市街を囲む城壁は建設途中で石材が不足したため、都市の建造開始から半世紀以上がすぎた今でも東側と南側が未完成だ。

 一般的に城壁を造る石材は現地で地下から採掘する。掘った穴はそのまま堀として流用できるため現地採取が望ましい。工事現場の石を使えば輸送コストは要らないし、壁材として使えない細かい石は石灰モルタルの材料や、城壁内部の充填剤として使用できる。

 しかし、アイガ・モルタスでは城壁が半分も完成しないうちに建築材に利用可能な石灰石は尽きてしまった。石材を輸入することになり価格は高騰。そのため、初期に建てられた西側には石造の家が並ぶが、東に行くほど木造建築が増えていく。

 エリザベートが相続した建物は西側の一等地にある石造の高級物件だ。木造の店舗で商売する同業者は、これが気に入らないのだろう。

 都市民として新参者でしかも女が一等地に店を構えれば、妬みは避けられない。最近は先程のような男が来るようになった。証拠はないが、エリザベートは理髪職人組合、つまり同業者からの嫌がらせだと考えている。店が潰れることによって得する者が組合にはいるからだ。

 他にも、組合の会合に呼ばれなくなり、近隣の村落に出張して商売する担当の順番が回ってこなくなった。

 エリザベートは木造の天井(石造建築でも自重を減らすために、床や天井は木造にする)を見上げると力なく呟く。


「ゴミが部屋の隅に吹き飛ばされたから、店内は綺麗ですよー。立派な髭を蓄えたおじさまー、お客さーん、おいでー」


 諦観に満ちた声音は、遠くから聞こえてくる城壁工事の音や、大通りで客を呼び寄せる声にあっけなくかき消された。

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