第6話 ラテン語を話せる私は副業でお金を稼ぐ

「ここは書き物部屋兼書類置き場よ。棚にあるこれは証書を束ねた物。湿気で痛まないように皮で包んであるの。これで分かったでしょ。私は公証人もしているの」


「公証人?」


「えっとね。簡単に言うと、約束事を紙に記録しておく職のこと。あとから約束なんてしていないって言わせないようにするために証拠を残しておくの。当然、この建物が私のだって証明する物もある」


「そんな物が……」


 自身の領域で証書という大勢の味方に囲まれたエリザベートは、誰もがそうであるように得意分野について多弁で早口になる。


「仮に相続人がいない場合、都市内の建物と土地は代官の物になるの。ここはフランス王の領地だからね。理髪職人組合が賃料を請求する権利はないのよ。領主より職人組合の権力が強いような北の方の都市だったら、組合が相続するかもしれないけど、ここアイガ・モルタスは違う。代官はパリから派遣されたフランス王の代理。だからとても強い権力を持ってる。理髪職人組合が法に背いたことをしようとしても無理」


 エリザベートは棚の束から、紙を一枚取りだす。


「あった。この紙に、アンリ・ド・トゥールーズが『自由通り』五番地にあるトゥールーズ理髪外科医院をエリザベート・ド・トゥールーズに相続するってラテン語で書いてあるの。アンリさんの遺言書ね。私が、真実のみを記しますと、神と精霊と聖書に誓って書いたわ。代官リュシアンのサイン入りよ」


 遺産を寄付させたいがために教会は遺言書の作成を強く推奨している。そのため、裕福な人々は死が迫る前に遺言書を書き残すことがあった。アンリは現金を教会に寄付し、家と土地をエリザベートに譲ると遺言書に記していた。

 説明しながらエリザベートは首に掛けてある紐を引き、子豚の足のような形をした印章を胸元から取りだす。


「ほら。これ印章。溶けた蝋にぺったんするの。この紙から垂れた尻尾みたいなところに、潰れた硬貨みたいなのがくっついているんだけど、これと同じ形をしているでしょ? この文書は代官から正式に認められている公証人の私が書きましたって証拠」


 悪意ある者が印章を使えばエリザベートに成りすまして文書を捏造することが可能なため、彼女は盗まれないように、常に肌身離さず身につけている。


「ね? この建物は私の物。理髪職人組合が小細工をしても無駄よ。インクを削って書き直すのも無理。これは羊の皮を使っているから、改ざんしたところが毛羽立って丸わかりだから。嘘だと思うなら、リュシアンのところに行こっか? 同じ内容の証書が代官の館にも保管してあるから」


「いや……」


 マリウスに疑念はなかった。神に虚偽を誓うことは信仰上許されないのだから、エリザベートが神に誓ったと宣言する以上、マリウスはそれを尊重し信じる。また、文字の読み書きができる者が少ない時代において、文書は魔術のように神秘的な力を宿すと信じられることもあった。そのような事情があるからマリウスは納得する。

 そのとき、暗い書類置き場に新しく、精力に満ちた声が加わる。


「わざわざ来る必要はない。俺が記憶している。アンリ・ド・トゥールーズの所有した土地と建物は、確かにエリザベート・ド・トゥールーズが相続した」


 声の主はまさに今話題にあがったアイガ・モルタスの代官リュシアン・ド・マルティニーである。彼は遠くパリから派遣されている。

 リュシアンは壮齢の男で、長身で引き締まった体躯の持ち主である。北フランスの寒冷で厳しい自然環境を過ごしてきた経験が表出したかのように眼光が鋭い。フランス南部の、ローマ人の血が濃い情熱的な男達と異なり、何処か冷たい印象を与える男だ。

 リュシアンはフランス王の権威をよく領民に伝え法と秩序を維持し、都市民に様々な特権を与えて移住者を増やすことにより人口を増加させ、同時に市民の声をよく聞き、彼らの持つ農耕技術によって都市周辺を開発させた。

 政治を司る代官と軍事を司る城代を兼務する、アイガ・モルタス最高の権力者である。

 市民から慕われる代官ではあるが、エリザベートは過去にリュシアンから悪魔憑き疑惑をかけられており、彼のことを快く思っていない。


「げ。リュシアン……」


「エリザベート。おはよう。ご機嫌いかがかな」


 エリザベートは「朝から嫌いなやつに続いて苦手なやつが現れたから最悪よ」と声に出せないから心の中で毒づいた。


「ええ、まあ、はい……。おはようございます。紳士様」


「ドアが開いていたし話し声が聞こえたから入らせてもらったぞ」


「はい。ええ、どうぞ。ワインの一杯すら振る舞えずに恐縮ですが、どうかおくつろぎください」


「それで、問題は解決したのか?」


 リュシアンが視線を向けると、マリウスは萎縮したように「はい」と小さく答えて、目を伏せた。さながら狼に睨まれた子犬であるが、威厳に満ちた眼差しに見据えられれば仕方のないことだ。


「で、なんの用? 髪でも切りに来た? うちを贔屓にしてくれるなら大歓迎よ。うちがあんたの館から一番近いところにある理髪店なんだから、通いなさいよ。というか、その髭、剃らせなさい」


 エリザベートは瞳に星を宿す。誰からも理解されないことだが、彼女は男の濃い髭を剃って、厳つい顎を赤ちゃんの肌みたいにツルツルにするのが溜まらなく好きだった。

 リュシアンのように身分の高い者が髭を剃らずに切りそろえているのは珍しいことだ。以前は長い髭が男らしさの象徴として流行したが、現代では時代遅れである。男が髭を剃るようになった大きな理由は二つ。一つは、キリスト教の普及。司祭が髭を剃っているため、敬虔なカトリック信者は彼等の真似をするようになった。残る一つの理由は、異教徒が髭を伸ばしているため、彼等と外見の区別をつけるためだ。十字軍に参加した騎士達は髭を剃るようになり、その風習が残り広まった。


「都市が平和な内は髭を剃らぬと誓ったのだ」


「もーう。それは聞き飽きた。切りそろえるだけなら一ドゥニエだから、長くなりすぎる前に来なさいよ」


 現れたのがリュシアンである以上、マリウスは自分が蚊帳の外に追いだされたことに文句を言うつもりもないのだが、エリザベートが獅子すら恐れぬ態度で話すから、むしろ彼女を止めるべきではないかと、僅かに狼狽えた。

 エリザベートもリュシアンも、そんなマリウスの様子に気づかない。

 リュシアンは指先で顎髭をしごく。


「仕事の依頼だ。港でもめ事があってな」


「怪我人でも出た? 契約で揉めた?」


「契約だ。イタリア商人の書いた手紙と、荷運び人夫の言っていることと、商品台帳に書いてある内容が食い違っている」


「ラテン語の読み書きができて、ローマ数字とアラビア数字の変換もできるリュシアンが解決できなかったとなると、台帳の方に問題があるのかも。最近、ラテン語の書き言葉と話し言葉の差が開いてきたそうだし」


「ほう。確かに、文書は読めても、言葉が分からなくて聞き返さねばならないときがあるな」


「うん。ローマに行ったとき、ダンテという詩人が書いた写本『俗語論』を読んだんだけど、勉強になったわ。リュシアンも機会があったら読んでみて。人って、書くより話すことの方が多いでしょ。だから、話し言葉は使いやすいようにどんどん変化していくんだって。書き言葉の方は書ける人が少ないから、変化はないんだって」


「なるほど。面白い現象だな」


「さて。話が逸れちゃったか。実際に港に行って台帳を見て、関係者の話を聞いてみるわ」


「ああ。頼む。お前の用事はすんだのか?」


「もちろん。ね、マリウス」


「あ、ああ」


 マリウスには、領主の依頼を遮ってまで自身の都合を主張する度胸はない。


「あ。そうだ。マリウス。理髪職人組合の組合費って月額いくらだっけ?」


「五スーだ」


「ん。リュシアン。報酬は五スーでよろしく!」


 臨時収入の見込みがあり、煩わしいマリウスとの会話も断ち切れたのでエリザベートは鼻歌交じりで出掛ける準備をした。

 家の外にはリュシアンの従者が控えており、二つの手綱を引いていた。リュシアンが乗る馬の他に、エリザベート用の馬も用意してくれていたようだ。二頭ともアイガ・モルタス近郊のカマルグ湿地帯に生息する白馬だ。広大な湿地帯を駆けるため、体力と脚力に優れた種である。

 馬の体高はエリザベートの身長ほどあるが、リュシアンは鐙に足を掛けて軽々と背に乗る。

 従者がエリザベートに手を貸そうとするが彼女は「大丈夫だから」と断る。


「マリウス。目を閉じるか、あっち向いてて」


「なんでだよ」


「気が利かないなあ……。私、馬に乗るの」


「はあ? それがどうした」


 リュシアンが用意した馬は、エリザベートがスカートのまま乗ることを想定して、婦人用片鞍サイドサドル(馬体を跨がずに乗馬するための器具)を装備していた。とはいえ、最初は脚を大きく動かす必要があるため、エリザベートはスカートの裾を膝まで捲りあげる。


「まあ、慎み深い淑女の私は普段から下着を穿いているから、膝までなら見られてもいいんだけどさ……。そっか、君はそんなに私の脚が見たいかぁ」


「ちっ……」


 マリウスは舌打ちをして背を向けた。


「さて。お馬さん。良い子だから、乗せてね」


 エリザベートの家と中庭を共有する一画の角に、女性や乗馬に不慣れな者が馬に乗るための石階段が存在するが、彼女はそれを使わず、勢いを付けて馬に飛び乗った。

 さて。出発という段階で、リュシアンが馬首を巡らせてマリウスに顔を向ける。


「マリウスよ。理髪職人組合が夜警を組織することを提案し、私はそれを承認した。そのことは聞いているか?」


「はい。もちろんです」


「夜警には理髪職人組合に所属する各店舗から男を一人出すとある」


「はい」


(おっ。もしかして、女の参加を許可しろって言ってくれる?)


 エリザベートは都合の良い言葉を期待し、頬が緩むのを感じた。

 しかし――。

 リュシアンは合理的な思考をするタイプで、都市の繁栄を第一に考えているからこその言葉を放つ。


「お前は十七だがまだ独身だったな。じゃじゃ馬だがこれを娶ったらどうだ? お互いに得のある良縁だろう」


「はっ、はい! リュシアン様。まことにそのとおりでございます!」


「はあ?! リュシアン、何を言ってんの?」


「トゥールーズ理髪外科医院は働き手が増えるし、夜警に男を出せるようになる。何が不満だ? 他にいい相手がいるのか?」


「それは……いるのよ」


 いない。だが、追及を躱したいが故に口が滑る。


「ほら、その、ね。持参金的な折り合いが付かなくて話が纏まらないだけで……。いるにはいるのよ。ただ、私は親もいないしね」


「今は亡きアンリにお前の後見を頼まれている。俺が仲人を務めてやろう」


「あーっ! ほら、それよりも港に急ぎましょう。この時期の荷物なら、プロヴァンの大市に出すものでしょ。いつまでも港に荷を留めておくわけにいかないはず」


 エリザベートは馬を歩かせ、話を終わらせた。

 それから、アイガ・モルタスの城壁を出て、南西にある荷揚げ港へ向かい、関係者から話を聞く。原因は予想どおり、ラテン語の書き言葉と話し言葉の違いだった。

 以前は行商人が自ら商品を仕入れ先から市まで運んだものだが、昨今の貿易商は自宅の執務室から出ることなく手紙と契約書で人と商品を動かすようになった。そのため、今回のような問題が起こるようになった。それは、公証人のような文字の読み書きに秀でた者にしか解決できない。

 問題を片づけたエリザベートは来月の理髪職人組合費を払えるほどの謝礼を手に入れた。

 だが、夜警の件は解決していないし、人口増加を望む代官リュシアンに、マリウスとの婚姻を薦められ、状況は悪化してしまった。

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