追補
女王殺し
追補 女王殺し
旱天のもと、ひび割れた大地には長い影が伸びている。その影は風に煽られて重たげに、左右にふらふらと揺れては、フォロガングの視界を移ろいゆく。長い時間、彼女はそれを眺めていた。日に
娘の頭上で、かすかな音が響いた。樹葉の隙間からのぞく
つられて顔を上げれば、その赤い眸には熱風に複葉を揺らす巨木が映り込む。
遙か昔、この曠野が氾濫原の一部であった頃に根付いた、古い火焔木であった。その逞しい梢にはいくつもの細長い綿布がかけられ、色とりどりの糸で刺繍が施されている。この樹は呪術師たちの暮らす一帯にあって、荒原では唯一の花木であったため、損なわれることがないようにと願いをこめた布の数々だった。
たくさんの綿布に混ざって、梢をたゆませて揺れる何かがある。
フォロガングはそれにむかって腕を伸ばした。
「触れてはいけない」
すると、どこからか伸びた白い腕が、フォロガングの視界を覆い隠した。
上背のある美しい女だ。背後から娘を抱きしめ、彼女は視線を上に向けた。
青い瞳がまなざしたのは、火焔木で首を吊ったひとりの女だ。
彼女にとっては、血を分けた姉でもある。
「みずから命を絶つことはもっとも穢れた行いであると、お前も心得ているだろう。メロエ人のなんぴとたりとも、あれに触れることは許されない。そうしなければ、砂の精霊の怒りを買い、わざわいが呼び起こされるから」
女の言葉に、フォロガングは黙って頷く。細い腕をそっと下ろすと、虚空を掴んだだけだった指先を、力なく握り込んだ。
■
常に静謐が保たれているその場所に、女の乱れた呼吸が響いている。
フォロガングは息を整えようとしたが、それも叶わず、ただ肺が破裂しそうだという思いが増すばかりだった。眩暈が消えず、耳鳴りがやまない。彼女は地面に這いつくばって、つい先ほど取り落としてしまった鉈を探していた。やっとの思いでそれを見つけても、汗にぬめる指先ではうまく掴むことができない。焦燥感ばかりが募る。
普段であれば聖女王の謁見の場として機能するその空間は、今は一種異様な劇の舞台のようでもあり、フォロガングみずからも、ただの見世物でしかないと思った。彼女は高座にいて、そのぼやけた視界には、後ろ手に縛られ、顔を俯かせた白い女の背中がある。その首筋からからだの広範囲にかけては無数の瘡蓋が赤いまだら模様を描いている。
白い女にとっての死斑だ。
神聖王権を継承する白い女は強力な呪術師ともなる。しかしその寿命は短く、死斑が全身に及ぶ頃に命を落とすと信じられていた。メロエ人は正統な血統に属する白い女だけを聖女王としてその頂点に戴きつづけるが、一方で聖女王とは、民とその運命をともにする神の代理人であり、その健康はメロエ人にとっての命運と同義であった。
ゆえに死斑が体のあらゆる部位に及んだ聖女王は、その資格を剥奪されねばならない。
――女王殺しという、次代にその玉座を引き継ぐ儀式によって。
聖女王・テスファイネシュもまた自身を蝕む太陽の病が悪化し、全身に死斑が及んだがために、その地位を追われなければならなかった。生涯にわたって彼女は孤高だった。保守的な女王であったがために、次代の革新的な白い女を支援する者たちにとっては、切望された瞬間でもあった。
フォロガングはやっとの思いで鉈を掴む。鉄でできたそれはあまりに重く、十分に振りかぶることすら難しい。狙いを定めることなど、もってのほか。聖女王は縄で姿勢を固定され、その瘡蓋に覆われたうなじをさらしてはいたが、見当違いのところに刃が落ちることもあれば、運良く首に当たったところで、フォロガングの腕力では到底一刀両断できない。いたずらに時間をかけ、その女を痛めつけること以外のことができなかった。
視界がかすむほどの香煙が焚かれた空間には、高位神官や、聖女王の近親者たちが詰めかけ、高座に居るふたりを注視している。石床にあふれた血液にかかとを滑らせ、足場の安定を欠き、何度も膝をつきながら、それでも一声も発さず、助けを求めず、フォロガングは鉈を振るい続けた。
血しぶきが目に入り、思わず瞼を閉じれば、全身を血潮がめぐる音が喧しく聞こえた。鉈を掴んだまま、片腕で目元を拭う。
汗と血がまじり、あたかも涙が流れたかのように温い液体が頬を伝った。
「――フォロガング」
ふと聞こえた声に顔を上げれば、エベデメレクの姿があった。
彼は一段高く設えられた壇に踏み入って、自身の母を一瞥した。
「もうこれ以上、母を苦しませないでやってくれ」
青い目を眇め、フォロガングにしか聞こえない声量で囁く。
聖女王の首筋は皮がめくれ、肉の中から白い骨が覗いている。あともうすこしで首も切り落とせるというところだったが、自分とともに鉈を握ろうとするその腕を、フォロガングは拒めなかった。
背後から密着され、支えられながら鉈を振りかぶろうとする。汗にぬめる娘の皮膚に、男が全身に刻んだ瘢痕の硬いおうとつが絡んだ。身じろぎに合わせてたがいの皮膚がこすれあい、熱が生まれると、フォロガングの全身は燃え上がった。あたかも交接が産む激しい熱の幻想に、頭が浮かされる。
フォロガングが鉈を下ろすと、間を置いて、質量のある物体が落ちる音が響く。
足もとに転がった、叔母の頭を注視する。淡い金の毛髪が血を吸い、ちぎれた首から伸びた頸椎はその肌よりなお鮮やかに白い。
深く項垂れ、長く息を吐くと、フォロガングはおとがいを上げた。
エベデメレクの手を振り払う。鉈を投げ捨て、舞台から降りる。静まりかえった近習たちを横目に、確固たる目的をもって歩き始める。
フォロガングは長い
たどりついたのは膨大な地下空間だ。そこにはメロエ人の多数の呪術師たちが待機している。宙から吊り下げられ、それでも足らないと地面に積み上げられた無数の白い屍を一瞥する。あたりは蠅が飛び交い、思わず顔を覆いたくなるような異臭が充満しているが、その娘は表情ひとつ変えることがなかった。
折り重なる
皮膚だけでなくはらわたまでをも縫い合わせた金の糸が、きらりと光る。
下腹部を覆う金の糸は、無数の蛇の紋様をかたちづくっている。
かつて彼女の叔母が施した呪詛。それはフォロガングを助けようという切なる願い、叔母自身の怒りや悔恨が絡み合い、常ならざる効力を発揮した。そして、娘の本来修復不可能な肉体を機能させていた。
――生きてさえいれば。
それがフォロガングにかけられた呪詛だ。
その呪詛は、この先も永遠にほどけることがない。
■
フォロガングの母は呪術師で、父は戦士だった。いずれも肌は黒く、
父の記憶はほとんどない。聖女王の血縁者に生まれた者は、白い女が産まれると、相手と離縁して宮廷に戻るように迫られ、母もそのしきたりに従ったからだ。話を聞くに椰子酒飲みの、やさぐれた男だったという話で、フォロガングが産まれてまもなく、些末な罪で殺された。
母について考えるとき、フォロガングは彼女が特別小柄だったことにくわえ、鼻腔の奥にまでこびりつく悪臭を思い出さずにいられない。
「お前を産むのは大変だった」
母は、フォロガングを産んだときのことをしばしば語って聞かせた。
十四歳でフォロガングを妊娠したが、幼少期の割礼による傷がもとで難産だった。十分に産道が広がらず、お産が長時間に及び、その際にできた
しかし母はフォロガングを産んだことを誇りに思い、そんなのは些末なことだ、という趣旨のことを話の終わりに付け足したものだった。事実、聖女王とその近親者のなかで、白い女を産んだのは母だけだ。テスファイネシュは、結局、死ぬまで一度も白い女を産むことができなかったのだから。
フォロガングは異常なほど初潮が早かった。「白い女は白い女を産むべし」という原則がまかりとおるなかで、それは祝福にほかならなかった。ある朝、自分の股から流れ出る血を発見し、困惑した娘を前に、母もたいそう喜んだ。
母は身の異変に困り果てた娘を抱擁し、こう告げた。
「結婚しなさい」と。
「私のように、そして他の誰よりも早く、次の白い女を産みなさい」
相手を見繕ってあげましょう、と彼女は言った。
白い女を産むということは血族の女として最も名誉なことで、白い女でありながら白い女を産めない妹・テスファイネシュを母はあざけり、ののしり、見下した。「あれは聖女王にふさわしくない野蛮な女」と憎み、「テスファイネシュのようにはならないように」とフォロガングが意に沿わぬ行動や発言をするたびに厳しく折檻した。それでも、死ぬような思いをしてまで自分を産んだ母のことを、フォロガングはけっして嫌わなかった。尊敬していたのだ。その母からの結婚しなさいという命令に、フォロガングが従わないはずがなかった。一方で、自分を乳母に預け、夜な夜な綿布に呪詛を刺繍する母を恐れる気持ちも――かけらほどには。
初夜を終え、血だらけになった娘をはじめに発見したのは母だった。彼女は取り乱し、あれほど憎んでいたテスファイネシュを頼って、娘のはらわたを縫うように頼んだ。初夜を失敗した娘は生殖器が膿みただれ、それがもとで死ぬこともあった。
テスファイネシュほどの呪術師でなければ、その命を救えなかったのだ。
「どうしておまえは」
母はフォロガングを罵った。「どうして私の子でありながら」
「相手はきっと恥をかかされたと思っているだろう」
これまで叔母に向けられていた呪詛を、母は自分にも向けた。フォロガングは心底申し訳ないきもちになった。務めを果たせなかったどころか、この肉体では永遠に子を産めない。
白い女なのに、白い女を産めない――。
自分に咎を求める母や周囲に対し、フォロガングはなんと罪深いことをしてしまったのかと気を病んだ。しかしテスファイネシュから婚姻の祝いの品として贈られた呪術用の刺繍針と糸を受け取ったとき――既婚の女でなければ、自由にそれを扱えなかった――ある衝動が、彼女の胸のなかに芽生えた。
フォロガングの心には、ものごころがついたときから一匹の甲虫が棲んでいる。普段は無視可能な存在だが、時折、ひどくのたうちまわって、硬い手足で心臓を引っ掻こうとする。母が恨み言を吐くとき、口さがない者に失態を嘲笑われるとき、それは一際大きく暴れる。
この忌々しい甲虫を、どうにか焼き殺したいという欲望を得た。
「しかしながら、われらが聖女王よ、その娘は自分の夫を呪い殺したというではないか」
その言葉にテスファイネシュは角杯を宙に投げ捨てた。椰子酒がこぼれ落ち、彼女の座す染織に乳白色の水溜まりを広げる。
「呪物は見つかっていないのに、なぜそう言い切れる?」
一呼吸置き、平然とした態度を崩さぬまま、テスファイネシュは返答する。
「それが事実だとして、結構なことではないか。この娘は報復しただけのこと。それがなぜ、継承者としてふさわしくないという話になる? 白い女は、私とこの娘以外にいないというのに? 誰がこの娘の代わりになる?」
テスファイネシュの居る高座からは、その場に集まった高位神官、近親者たちのあらゆる表情をつまびらかに観察することが可能だった。自身をまなざす無数の瞳、そこに籠められた畏敬、恐怖、不信――胸もとを覆う
「そもそも、私はこの結婚に賛成ではないと何度言った? 近しすぎる血が混じり合うことは、一族に破滅を呼び込むだけだと。それは私が言うまでもなく、これまでの数多の近親婚が証明してきたことではないか」
「白い血を繋ぐためには致し方ないことだと、其方も承服したはず」
「ただの一度も承服したことはないよ。貴様ら神官とこやつの母親が勝手に事を進め、その結果、フォロガングの肉体は修復不可能なまでに損なわれた。一度生まれてしまった
テスファイネシュは自身の膝に座らせた白い娘の頭を抱き、低い声で囁いた。
長身長躯、短く刈り込んだ淡金の毛髪に青い瞳に、特徴的な白い肌を持つテスファイネシュ。黒い男たちのひしめく場所で異彩を放つその容姿こそが、彼女が特別な存在である何よりも雄弁な証拠だった。
メロエの神聖王権――その頂点に君臨する聖女王。
エグジアブヘルは白き肌の女神によって拓かれ、のちに放棄されたという。神に見棄てられた
ゆえに、聖女王は血統と容姿を最重要視される。そしてテスファイネシュの膝に抱かれた娘の肌は、テスファイネシュ以上に白い。その娘こそが、彼女の姪であり――聖女王を除いて、親族のなかでは唯一の白い女であるフォロガングだった。
つい先日、フォロガングは親族の男と結婚した。
そしてある事件を経て、彼女は自身の夫を呪い殺した。
聖女王とはメロエ人において、神の力を体現する存在として扱われる。聖女王の言葉は聖なる言葉、その行為は聖なる行為として影響力を持つ。実際は下部組織である神官集団と近親者たちとの駆け引きに翻弄される孤独な存在だが、テスファイネシュ含め、歴代の女王たちは常に強力な呪術師でもあった。そして皮肉にもこの事件によって、フォロガングもまた、才能ある呪術師であることが立証された。
彼女は自分に生涯癒えぬ傷をもたらした男を、一ヶ月に及ぶ不眠の上に発狂させ、ついには火山口に身を放り投げさせた。
さらには――実の母親を自殺させた。
幼い頃から通常の刺繍針と糸で研鑽を重ねていたとはいえ、フォロガングは結婚してようやく呪術師として自立したばかりの娘だ。耐性のない夫はともかくとして、テスファイネシュほどではないが優秀な呪術師である母を呪い殺した事実は、たしかな証拠がなかろうとも、宮廷中に激震を走らせるには十分だった。
「呪いをはねのけられないのは、相手に相応の理由があるということを、ゆめゆめ忘れられるな。そして、この件についてこれ以上語ることは許さぬ。以降、誰ひとりとして口にするな。――耳障りだ」
その言葉に周囲は押し黙った。テスファイネシュは立ち上がり、フォロガングを連れて謁見の間を去る。
寝所を兼ねた奥の間に戻ったあとも、フォロガングは沈黙したままだ。一連の『事件』について、姪は嘘いつわりを述べない代わりに、真実も口にしない。何もかも内に秘めようとする性質は、年の割に賢い娘をより頑ななものへと変えていた。
「何も案ずることはない」
膝を折り、フォロガングと目線の位置を揃える。テスファイネシュよりずっと視力の低い彼女とは、目が合うということもほとんどなかったが。
「白い女が必要だというのなら、私が代わりに産んでやる」
「……テスファイネシュ様が?」
「ほかに産める女はいなかろう」
フォロガングは下唇を噛みしめ、うなだれた。
腰布を両手で握りしめ、睫毛を震わせている。
聖女王の寿命は短い。その強烈な存在感のわりには、あまりにはかない命を持つ。太陽に毒され、若くして死にゆく者たち。ゆえに跡継ぎは間断なく作られなければならない。もはや白い女を産む望みがあるのは、テスファイネシュだけだ。テスファイネシュは、十三歳で結婚し、以降何度となく夫を替えながら子を産み続けていた。
「テスファイネシュ様は、ほかの女と違って、男の上に乗るからまともな御子ができないのだと聞きました。それは本当ですか?」
フォロガングは視線を床に向けたまま、抑揚のない声を発した。
「男に対して支配的な女はおこがましいから精霊に嫌われるのだと」
テスファイネシュは声もなく、吐息だけをこぼした。
フォロガングが指摘したとおり、初婚から十年以上経った今、自分の子で無事に育っているのはひとり息子のエベデメレクだけ。
死産、幼くして
「ああ……。そうか。お前にそんな話をするやつがいるのか」
テスファイネシュは否定も肯定もせず、呼気を震わせた。
彼女の母親を含め、姪に口さがない噂を吹き込む者たちがいることは知っていた。テスファイネシュは宮廷から分断されているのだ。
ひとえに、彼女が『厄災』を呼び起こす力と
「だから、お前はあの晩逃げようとしなかったのか。私のようになりたくはないから?」
「いいえ。じっとしていなさいと母が言ったのです。相手に身をゆだねて、何をされても拒んではいけない、相手に恥をかかせてはいけないと」
「そうか。私はお前の体を縫いながら、ずいぶん悔しい思いをしたよ」
両腕を伸ばして姪を抱擁した。その体は冷たい。
「どんな手を使ってでも、お前を助けねばならなかった。フォロガング……お前はもう、生きてさえいれば、それでいい」
そのごく小さな囁きに、腕の中の体がかすかに震える。しかし、それだけだった。
フォロガングはテスファイネシュ、そしてみずからへの露骨な嫌悪感を滲ませ、かぶりを左右に振った。
「いいえ、いいえ。生きてさえいればいいだなんて、どうしてそんな残酷なことを仰るのですか。私をあざけっておられるのですか、テスファイネシュ様」
口惜しいという感情が、幼い肉体にはおさめきれない勢いでみなぎっている。
「ああ、フォロガング。お前は何と憐れで、救いがたい女か……!」
テスファイネシュは渇いた声で笑った。もはやかける言葉もなくして、テスファイネシュは姪のからだを抱く腕に執拗に力をこめた。
神に見棄てられた土地に遺された、たったふたりきりの『白い女』――。
それは典礼の際に聖女王に投げかけられる、祈りの声。
聖女王がいてこそ民は神の存在を感じることができる。かれらは救いを求めて、そう唱える。唱えれば唱えるほど、神の国が近づくと信じられている。
「お前を救えるのは、もはや神しかおるまい。ならば神の国に至ることだけを考えて生きよ、フォロガング。だが忘れるなよ、私がお前にかけた呪いを。私は死んでもお前を呪い続けるからな。私はお前が何を欠こうとも、生きてさえいればそれでよい……!」
すがるように。
■
「こっちへ来るな」
ナサカの怒声に、物思いにふけっていたフォロガングはふと意識を呼び覚まされ、頤を上げた。傘を差して岩畳の上に座った娘は、視界に入る光のあまりの眩しさに両目を細める。
太陽光のもとで、ナサカの黒い肌は美しく艶めき、光の加減によって
その彼女が、威嚇するように前方をにらんでいる。
「近寄るな、私に触ろうとするな。――いい加減にしろ」
ナサカの手前にある間歇泉で水しぶきが上がった。熱水が噴出したわけではなく、彼女に突き落とされた人物がいるのだ。黒曜の輝きを放つ右脚を地面に下ろすと、背の高い女は振り向きもせずその場を去ってゆく。
「ナサカを怒らせてしまいましたね」
硫黄の泉から上がったエベデメレクを一瞥し、フォロガングは澄まし顔で呟く。ナサカの背はあっというまに遠ざかっていき、今から呼び戻すのは難しいだろう。
聖女王の居所に彼女を呼んでから、一月あまりが経過していた。新婚のエベデメレクは第一妻に対する責務を果たしていたが、もともと多情のきらいのある男だ。何かと理由をつけては、フォロガングに同行するようになっていた。
「夢でお前の顔を視ただなんて、くだらない口説き文句を考えたものですね」
「聞いたのか。まさか、そんなふうに捉えられるとは。嘘じゃない」
「ええ、そうですよ。聞きました。お前はどんな女にも好かれると思っているでしょうけど、ナサカはお前のことを嫌っているでしょうね。それに、お前が夢視だなんて。嘘に決まっているでしょう、お前に呪術の才があるわけなかろうに。……呪術とは、欠けたるもののある者だけが得る才なのですから」
エベデメレクは苦笑を漏らす横で、フォロガングはまぶしさに耐えかねて目を閉じた。光が毛細血管を透かし、視界が赤く染まる。
「その傘、気に入って使っているな」
フォロガングはその言葉に、ええ、と単調な声でうなずいた。
「俺が織らせたやつだ」
「そうでしたね」
やはり気のない返事をする。
フォロガングの傘は、数年前、夫に喪に服して一年外出しなかった彼女を連れ出す口実にと、エベデメレクが呪術師たちに織らせたものだ。テスファイネシュは彼を戦士として身を立てさせており、外部に出かける機会が多い彼だらかこそ、商人から伝え聞いてメロエにはない傘の存在を知っていた。
エベデメレクは、夫を呪い殺し、男とまじわる機能を失ったフォロガングに、それでも近づいてきた唯一の男だ。何の打算もなかったわけではなかろうが、母親に似て情深く、フォロガングのことを同腹のきょうだいのように扱った。彼から傘を贈られたのをきっかけに、フォロガングは居所の外に出かけるようになった。卵を見つけては盗み食いする癖を教えたのも彼だ。
エベデメレクにとっては、そのすべてが特別な時間ではなかったはずだ。しかしフォロガングにとっては格別なものに違いなかった。この男とは太陽のようなもので、フォロガングの心臓をむしばんでやまない存在なのだ。
「欠けたるものとは、すなわち永遠に補うことができないもの。あるいは、漸近はすれどもけっして同じにはなれないもの。肉体の損壊、精神の断絶。けれども、お前は完璧だもの」
歌うようにフォロガングは囁き、それから思い出したように、「テスファイネシュ様のご容態は?」と問いかけた。
エベデメレクは無言でかぶりを振った。めずらしく、表情が暗い。
「では、まもなく」
フォロガングは凪いだ風のように平坦な声で呟いた。
■
フォロガングは喉笛を鳴らす。
低く、異なる二音。
それは葬礼の泣き歌のように周囲の呪術師たちに伝播してゆく。
メロエ人にとっては神話にひとしいはじまりの瞬間が、やってくる。
けれどもフォロガングにとって、それはおわりのはじまりであった。
白い女を産みなさい、と母は願った。
しかしフォロガングはその手段を失った。ついぞ選び取ることができずに、無残にも断たれてしまった道を前に、胸のなかの甲虫はのたうち回るばかり。
生きてさえいれば、とテスファイネシュは呪った。
ならば生きねばならない。肉体が損なわれようとも、魂が傷つこうとも、高潔な聖女王として生きつづけねばならない。そして不幸にも、フォロガングは呪術師として誰よりも優れていた。
ゆえに、彼女に安寧はない。
破滅の道を突き進む以外の選択肢が、ない。
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