第二部

(一)

(一)


 ナサカは崖の上にたたずんでいた。崖底ではどうどうと音を立てながら急流が走り、背後には巨大なりゆうぜつらんが根を張って、谷底から吹き上げる風にしなっている。視野を覆うのはひび割れた旱の地ではなく、白い霧にかすむ豊かな竹と偽バナナエンセーテの森だ。

 その森のただ中に奇妙に盛り上がった土の小山がある。蟻塚だった。

「お前、まさか」

 声の響いた方向に顔を向ければ、水甕を放り出し、こちらへ走り寄ろうとする女の姿があった。ナサカはまぶしそうに黒い目を細め、「ほんとうに?」と声を詰まらせた養母に対して一度だけうなずいた。

「ああ、ナサカ。一目見てわかったよ。昔からそうだったけれど、お前はどの子よりもヤセビによく似ている……」

 抱擁に応えるために両腕を広げ、ナサカはメコネンの体を抱きしめた。十二歳の頃は同じくらいだった背丈は、とうの昔に追い越していた。

「急にいなくなって、せっかくの結婚を台無しにしてしまった」

 喋りたいことはいくらでもあったはずだったが、最初に口を突いたのは謝罪だった。

 ぎこちなく左胸に手を当て、父母に対する礼を取った彼女に、メコネンは気前よくかぶりを振った。

「男はこの世の山羊よりたくさんいるんだから。たしかにヤセビは怒っていたから、きちんと謝らないといけない。けれども、私はお前が生きていてくれて嬉しい。今はどうしているんだい、これまでどこに……ああ、すっかり女らしくなって……そう、結婚はしているのか、子は」

 ナサカは苦笑し、首を横に振った。

「誘拐されたんだ。ようやく逃げる隙を見つけて、戻ってくることができた」

 その表情には拭いきれないかげがある。羽織っていた山羊毛の外套を脱げば、かつてその四肢をむごたらしく覆っていた剃刀の傷痕はない。代わりに、明らかに生身でないと分かる物質が繋がっている。

 義肢の表面に隈なく書き込まれた刺青を目にして、メコネンは息を飲んだ。

「何という……」

 震える指先で刺青に触れようとして、すぐ体ごとナサカから離れて顔を背ける。「なんと、けがらわしい」養母の囁きに、目を伏せた。

「メロエ人に呪術をかけられ、このような体になってしまった」

 これでは集落に帰れない、と言えば、メコネンは嗚咽を漏らした。

「こんな恐ろしいことがあるなんて! お前はナパタの女なのに!」

 悲痛の滲む女の声に、ナサカは知らず息を詰まらせた。ゆっくりと拳を握り、こわばる体を弛緩させる。

「そう言ってもらえて嬉しい。ここを通りがかったのがメコネンでよかった」

 迷うそぶりを見せながらも、メコネンは最終的にナサカの腕を掴んだ。

「帰ろう、ナサカ」

「追放されてしまうし、父の怒りを買う」

「でもお前は帰ってきたじゃないか。ナサカ、ああ、お前、ほんとうに美しくなって。今だから言えるけど、私はあの結婚には賛成じゃなかったんだ。年が離れすぎているし、乱暴者だと聞いていたから……お前のあとに嫁いだ娘も殺されてしまって。ナパタの呪術師に相談すればいい、きっと何か良い案があるはずだから……」

 自分の腕を掴むメコネンの指をじっと眺め、ナサカは殊勝な顔でうなずく。「集落に行くための、なるべく人目につかない道を教えてほしい」そう教えを乞うた。


 日が暮れてから、ナサカはメコネンの教えられた道をたどって深恐谷みきょうこくの集落に向かった。帰郷するのは、十二歳のころに誘拐されて以来、実に四年ぶりのことだ。長いとは言えず、しかしけっして短くもない時間は、痩せっぽちだった娘に変化をもたらすには十分な期間だった。細いのは変わらないが全身を筋肉がよろい、硬質な輝きを放つ四肢はしなやかに伸びた。闇色の背中を覆う火傷痕と瘢痕が描く蛇は、いまや片手では足りぬほどの数。

 視界に広がる竹材を組んだ家屋の群れ。離れから漂う炉の煙を、立ち止まって遠い場所から眺めた。

 「ヤセビには機を見計らって言い出そう」――メコネンはそう言ってナサカには離れに来るよう指示したが、彼女が目指したのはその父の住む主屋だった。

しゅうちょうはいるか」

 主屋に立ち入ってすぐ、ナサカは声を発した。ちょうど妻たちが夫に食事を出す時間で、見慣れた養母の顔もあれば、まったく知らない若い妻の姿もあり、闖入者の――それも女の――声に胡乱げな視線が集中した。

「ナサカ、お前」

 メコネンが口にした名に、部屋の中心に座るヤセビが角杯を床に置く。

 外套を脱ぎ捨てたナサカの右腕には、簡素な作りの山刀が握られていた。

 椰子油の明かりが、彼女の四肢を覆う金色の刺青を照らす。それを目にしたヤセビは顔色を変え、鉈とともにその場を立ち上がる。

「メロエの呪紋か……」

 祖父の死後、首長の地位を継ぐために戦士の座を退いてなお、父の体は隆々として逞しいままだ。相対すると、ナパタのなかでもひときわ黒いその膚色や、上背の高さや顔つきが、家族の誰よりも似通っていることが露骨にわかる。

 その男の足もとに、メコネンが「何かの間違いなんだ!」と追いすがろうとした。

「お前だって分かっているだろう、ヤセビ。ナサカはお前とナブケニャの子なんだ。メロエ人の連中に悪い術をかけられちまったんだ。なあ。ナブケニャがあんなに苦労して産んだ子が、こんな――」

 メコネンを突き飛ばし、ヤセビは一歩前に出る。

「副王の死後、エグジアブヘルの均衡が崩れ始めている。奴隷たちが逃げだし、各地の集落が襲撃に遭っている」

「このような深い山にも噂くらいは届くのだな」

「お前は何者か。メロエ人にくみしたか」

 ナサカは黒い目をすがめた。

「私の母の系譜をお前は知っているか」

「質問に答えろ、ナサカ」

「母系譜を謡えぬならば、私は何者でもない。この世を生きる亡霊のようなもの、――私は、聖女王カンダケの無数にある黒い影のひとつでしかない」

 聖女王カンダケの単語に、ヤセビは眉を跳ね上げた。

「呪詛の力に魅入られたか、貴様、ナパタの女でありながら! こんなことになるのなら、あの日――あの男のところに嫁に行き、殺されておけばよかったものを! 忌々しい悪霊憑きめが!」

 降りかかった鉈が受け止めた左腕に食い込んだ。ナサカは迷うことなく右手に持った山刀を振るい、男の喉仏を突き裂いた。

 呼吸困難に陥ろうとする父の表情を間近に見つめ、迷わず山刀を横方向に動かした。ナサカのまなうらをめまぐるしく、過去の情景がよぎる。間歇熱マラリアに罹った自分を夜通し看病した父、養母ははを鞭打つ父、「隣の集落のニガツと結婚するか」と問うた父のまなざし……。

 しかしどれも跡形もなく霧散したとき、血煙が視界を赤く染め上げた。

 女たちの悲鳴が響くなか、ナサカはくずれ落ちた死体を蹴飛ばし、山刀を握り直した。

 竹を格子状に組んだ壁のむこうを、足音ともに複数の人影が過ぎてゆく。

 ――火の気配が間近にあった。


 灰と火の粉が散るなかを、逃げるように蠅が飛び交っていた。ナサカは変色した男の首を、その硬い耳を掴んで、集落の道を歩いていた。彼女の黒く艶めく四肢は、生乾きの血がこびりつき、刺青の大半を覆い隠そうとしていた。

 彼女が歩いていった先には、ひとりの男の姿がある。

 青い瞳をすがめた男の口から、武勇を讃える決まり文句がこぼれる。感情のこもらない声だったが、ナサカはかまわずその首を投げ渡した。

 ナサカが手招いたメロエの戦士たちはすでに集落のあちこちに散り、家屋には火が放たれた。ナパタの男たちが所有する奴隷たちは解放され、山刀を持たされた。

 まもなく、ナサカの故郷は灰燼に帰す。


 ■


 一年前、フォロガングの叔母・テスファイネシュの逝去が伝えられえた。

 叔母をみずから手にかけるという女王殺しの儀式によって、フォロガングは正式に聖女王として認められるに至った。晩年に人生を振り返ったとき、ナサカはその日のことを鮮明に、昨日のように思い返すことができた。

 儀式を終えた日の夜、フォロガングは聖女王の居所を出て、戦士の集落に姿を現した。戦士の集落は、女や賎民のを除き、常時千人近い男たちが暮らす。その彼らが一堂に会し、新たな聖女王を出迎えた。

 広場には無数にかがり火が焚かれ、遠く、硫黄火山の青い炎が地平線に滲んでいた。複数の神官を引き連れて現れた、白い女。宝貝の首飾り、半身を覆う駝鳥の卵を幾重にもつらねた胸飾り、真鍮の腕輪。金糸で緻密な刺繍がほこどされた腰布。前女王は男に負けず劣らず背が高かったが、対照的にずいぶん小柄で、屈強な男たちを前にするとそのもろさばかりが際立つ女。

 硫黄の匂いを帯びた風が荒野を駆け抜け、り編んだ白い髪を揺らす。

 火の熱を浴びた肌には珠のような汗が浮かび、瘢痕によって硬く隆起した皮膚の間を流れてゆく。フォロガングの顔はふだんよりもずっと青ざめて、唇には色がない。生気が感じられず、ひどく疲弊している様子だった。

「夜もひるも厄災がこの地をおおうであろう」

 男たちの今にも破裂しそうな沈黙を前に、フォロガングはたった一言を発した。そして、力尽きた。神官に脇を支えられてなお立ち上がれず、息は一向に整わない。

「われらの震怒はしもととなり……ナパタの口に塵をつけ、首を灰に埋める」

 油の爆ぜるかすかな音しか響かない空間であっても、ほとんど聴き取れないほどの声量だったが――それでも、誰もが一言一句聞き漏らさぬよう、その囁きに耳を澄ました。

 方々で男たちが得物をかかげ、ナパタ人を呪う口汚い言葉を発し、同時に、フォロガングのことを讃えた。

 ――厄災。

 途方のない年月をかけて編まれたであろう、あの白い屍の山が作る呪詛が、ついに効力を発揮したのか。この段階になっても、ナサカははっきりとした確信を持てなかった。

 群衆のなかから、フォロガングのことを見つめることしか。

 青い光の走る夜空に、男たちの声が木霊する。それに混ざって、あの日、フォロガングの漏らした一言が、寄せては返す波のように頭で反響する。

 あの日ほど、フォロガングががんぜない女に見えたことはなかった。

 一筋の涙を流し、助けてくれと魂の叫びを響かせた女を、かき抱くことさえせず、ただ眺めていた。どうしてやればいいのか分からなかった。

 この難儀な娘を救うことなど、自分にはできまいと卑屈になっていた。

 しかしその瞬間、ナサカにはわかってしまった。その赤い瞳は光にさえ潰されてしまうのだと、何も見えない闇のなかに、彼女をただひとり置き去りにしてしまったのだと。

 それが真実か、あるいはただの思い込みなのか、知る由もなかった。だが、ひどく打ちのめされた。群衆の目の前でついに意識を失った女を運ばれているのを、拳を握りしめて眺めることしかできない自分を、呪った。

 その夜から間もなくして――エグジアブヘルに災厄が降った。

 生涯を通じ、テスファイネシュは保守的な立場から聖殿の維持に努めた聖女王であった。結界の範囲を広げて遊牧民を保護し、白子狩りを最小限にとどめて余力を交易の保護と食糧の略奪に回し、一度も飢饉を起こさなかった。これは彼女の前代である祖母王から受け継がれた方針だったが、これが彼女と宮殿の溝を深めた――そう伝え聞いた。

 メロエ人の悲願とは、過去の栄光を取り戻すことだ。聖殿に生まれ育つ者にとって、復讐こそが共通認識であると、ナサカでさえ知っている。復讐のために歴代の聖女王は呪詛を編みつづけ、途方もない年月を重ねた末、テスファイネシュの代に厄災の原形いしずえが生まれたのだという。厄災による反動を引き受けられる呪術師は、白い女として生まれついた聖女王しかいない。その聖女王が引き鉄を弾かなければ、いずれきたる日は永遠に訪れず、その義務と権利を有しながらも、テスファイネシュはそれを実行しなかった。

 フォロガングはその方針を継がず、女王殺しの当日、厄災を起こした。

 そして異変が起きた。〝赤き膚の者たち〟と呼ばれる各地の副王が一斉に死に絶えた。生きながら肉体が腐り果て、精神は均衡を失い、狂乱のなか死んでいったという。ナパタ人の首長チーフ同士による強固な繋がりがエグジアブヘルの体制を引き継いだが、肉体が腐り落ち発狂する不治の病はナパタ人を中心に感染を広げ、半年が経過する頃には壊滅する地域が生まれ、感染を恐れた各集落は分断され、孤立した。

 その頃、ナサカはエベデメレクが率いる集団に身を置かされていた。遊撃隊として各地を回り、与えられた指示をこなすだけの日々だ。フォロガングとは、彼女が即位して以来、話すことはおろか――遠目にその姿を見ることさえ、あの夜以来なかった。

 聖女王になるとは世俗と切り離されることだ、とエベデメレクは言った。

 お前はもう、永遠にフォロガングと会えないとも。

 今、あの女がどう生きているのか、ナサカは伝聞でしか知り得ない。

 彼女の呪詛がつむいだ黒い義肢だけが、ともに在った。


「祝杯だ」

 雷鳴のとどろきが心腑しんぷの鼓動を早める。戦士の男たちが見守るなか、ナサカは角杯に注がれた椰子酒を一息にあおった。喉を通った椰子酒は発酵が進み、酸味が強くなりすぎていた。足の早い酒なので長時間の運搬には向かないとナサカは思うが、メロエの男たちはこればかり飲んでいる。今日略奪した品のなかには蜂蜜酒タッジの樽もあったが、それを口にするのもはばかられた。

 洞窟のなかにはメロエ人の戦士たちが詰めている。厄災を機に聖殿を出された彼らは、複数の隊に分かれて各地の襲撃を行っている。ナサカが配属されたのは、前女王の息子・エベデメレクが率いる遊撃隊だった。重要な任務を負っているというが、それを知るのはエベデメレクとその側近だけで、ナサカ含め末端の戦士には知らされない。

「よくぞ首長チーフを殺した。故郷を皆殺しにできるのはお前がメロエ人に帰化することのできたというほんとうの証になるだろう。我々はお前を血の分けた男兄弟のように思う」

 祝杯を注いだ張本人であるエベデメレクに、ナサカは目を伏せた。

「私は男じゃない」

 洞窟は狭く、輪になって座す戦士たちの距離は肌が接する程度に近い。隙あらば自分に触れようとする手を払いのけることはとうの昔に諦めた。以前、「それくらい許してやれ」というエベデメレクの言があったからだ。

「とうに女としての領分は忘れ去ったと思ったが」

「お前は女の割礼の痛みを知らん。あの痛みが否応なしに女であることを意識させる。男のそれとはわけが違うんだ」

「ここで貴様が股を開いて傷をみせびらかしてもかまわんぞ」

「お前らは割礼の傷を自慢し合うが、女にとっては屈辱の証拠だ。お前、まさか妻に対しても同じ物言いをするのか?」

 周囲から飛んできた「弁の立つ女は嫌われるぞ」という言葉に、「雄弁であればこそ戦士」とナサカは返した。

 エベデメレクは肩を竦めてナサカの前から去っていった。

「今夜お前は誰と寝るのか賭けをしているぞ」

 隣の男が冗談めかした口調で言う。彼が指差した先には陣取り遊びに興じる男たちの姿があり、酒が回りはじめたのか、ずいぶん盛り上がっている様子だった。ナサカは無言で角杯の底に残った椰子酒を舐めた。女は男より飲酒量が多くてはいけない、と念じながら。

 『こんなもの』は喉に刺さった魚のもろい小骨のようなもの、たいしたことではない、と自分に言い聞かせた。この場所に身を置くようになって数年、ナサカは相応のふるまい方を身につけた。戦士らしく、しかし自分が女であることを忘れてはいけない。顰蹙ひんしゅくを買うからだ。怒りは常に心の底で煮えたぎっていたが、それを表出するのは得策ではない。怒りを表明できるのは、戦士としての矜持や名誉を傷つけられたと明確に示せる場合だけだ。そうでなければ周囲の賛同を得られない。ナサカにとって、もはや怒りとは自分ひとりの感情ではなかった。

 フォロガングの発言は当を得ていたというわけだ、とナサカは思う。

 女であればこそ、男にはなれない。その代償はいかほどか。

 宴が収束する前に、ナサカは洞窟を離れた。一団は、谷底に野営している。遠巻きにまだ炎の影が見えたが、小雨季の風向きは決まっている。火の手が及ぶ可能性は低いだろうと推測された。

 雷鳴は徐々に近づいてくるようだった。霧雨のけぶる暗い空を見上げれば、時折銀色の光が雲間を走る。肌に触れる空気は冴え冴えと冷たく、雨の滴は乾いた肌を潤す。岩畳を歩けば、義肢がかつかつと硬い音を立てる。浅瀬に踏み入ると、身をかがめて川の流れを掌で受け止めた。小石が溜まったところで引き上げ、雷光にかざしてみるが、めぼしいものはない。

 かつて、悪霊はナサカの継体石が谷底にあると言った。あの発言が事実かは、今となっては知るよしもない。彼はナサカの肉体の一部になってしまい、継体石が見つかれば、おのずとふたつの繋がりも断たれる。そうすれば自分は死の運命に引きずり戻されるだろう。

 ふいに足音が聞こえ、ナサカは背後を振り返った。

 間近に迫った男の喉もとに山刀の先端を突きつける。エベデメレクは肩をすくめ、「別に襲おうとしたわけではない」と溜息をついた。

「お前を手籠めにできたならと思わなくもないが」

「冗談でも言っていいことと悪いことがある」

「冗談ではない。聖女王のお気に入りに手を出して、怒りを買いたくないだけだ」

 ナサカは眉を跳ね上げ、押し黙った。

 この男は自分に対する関心が尽きない。エベデメレクが〝戦士の女〟を面白がっているだけなのは火を見るよりも明らかで、仮にも聖女王の血統に属する男の部隊に組み込まれたのも彼の一存だった。

「怒りを買うのは私のほうだ」

 雨音にかき消されるくらいの声量で呟きを落とし、得物を下ろした。

「メロエの戦士となるためには親殺しも厭わぬとは、おそれいった。静かなようで、お前の豪胆さにはいつも驚かされる。――賞賛しているんだ」

 ナサカは顔にかかる雨雫を腕でぬぐっただけで、返答しなかった。

「俺の身の回りには恐ろしい女がふたりもいる。フォロガングも親を殺した。苦労して自分を産んだ母親、親代わりとなった叔母……」

 フォロガングが前女王を殺したのは知っていたが、実母までをも手にかけていたのは初耳だった。エベデメレクによって語られた事実にこみ上げるものがあり、ナサカは声を詰まらせた。

 悪霊憑きの自分をあれほどなじりながら――。

「何も感じなかったわけじゃない」

 そう口に出して、失敗した、と即座にナサカは思った。感情が昂ぶりかけていた。かぶりを振って、ゆるく吐息を落とすと、「お前にフォロガングの気持ちがわかるとは思えない」とつぶやいた。

「お前にわかるのか?」

 雷光が天を裂き、周囲を明るく照らし上げる。

「両親のことは尊敬していた。ナパタ人に対する情も、ないわけじゃない」

「ならばなぜ、お前はメロエ人のなかでうまくやろうと苦心する」

「私の手足はフォロガングのものだ。忠誠を示せなければ、私は死の運命に引き戻される。そのためには、手段を選んではいられない」

「嘘ではないだろうが、つまらん答えだ」

「お前の好奇心を満たすためだけに、なぜ私の本心をくれてやらなければいけない。私には沈黙を選ぶ権利があるはずだろう、違うか」

 エベデメレクは片目を細めた。

「口を閉ざし心を封じるからお前は孤独なままなのだ」

「真に仲間に入れるつもりがないくせに、よく平然と言えるものだな」

「難儀な女だ、お前は。いや……難儀な女であればこそ、戦士の人生を選ぶのか。ふつうの女のように暮らせないのは、辛いことだな」

 その言葉には否定も肯定もない。雨脚が強まってきたのに、「戻るぞ」とエベデメレクが言う。ナサカは首を振った。

 遠ざかっていく足音に耳を澄ましながら、ナサカは知らず詰めていた息を吐いた。川の流れに逆らって浅瀬を歩きながら、遠くに見える火の残照に目を凝らす。

 唇を開き、喉を震わせる。

 音をともなった瞬間に雨にかき消されてゆくそれは、ナサカの父系譜であった。

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