(八)

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 ナサカは十四歳になった。今でも時折、家族の夢を見る。そのたびに懐かしさを覚え、離れがたいという気持ちで胸が破裂しそうになる。しかしあのまま深恐谷に暮らし続けることはいずれにしろあり得ないことだった。十三歳を待って遠い集落に嫁ぎ、夫に仕え、子を産み育てる生活が待っていたはずだ。ニガツのような暴力的な夫と暮らすことはたしかに不運だろう。しかしナサカを真に苦しめるのは、あらゆるナパタの女が経験するであろう普遍的な人生を歩めなかった事実――そのことに安堵する自分自身だった。

 この数ヶ月のうちに、また各地からナパタ人の若い女が誘拐されてきた。ナサカと同年代とおぼしき娘の姿もあったが、極力彼女らとの関わりを断った。しかしどうやっても、接触を避けがたい瞬間というものが存在する。

 戦士たちの会合に、住処の洞窟を出て、彼らの暮らす集落まで出かけたときのことだ。まだあどけない娘が、右脚を引きずりながら前方を歩いているのが見えた。誘拐された娘は、皆逃亡できないように片足の腱を斬られるのだ。しかし遠方まで水を探しに行くという重労働が免除されることはない。水甕を担いだ娘は、案の定、ナサカの目の前で転倒しそうになった。

 普段であれば無視するところだったが、その娘が身重だったために、見かねて腕を差し出すはめになった。照りつける日差しが義肢を反射し、娘が眩しそうに目を細める。

「あ……お前は……」

 拉致されて二年、ナサカはメロエの言語ことばにも不自由しなくなっていた。しかし耳を突いたナパタ人特有の音韻には、やはり胸をかきむしられた。

 重い腹ではかがむことも一苦労のようだった。ナサカが落ちた水甕を手渡すと、娘はその中身を見て溜息をこぼした。また長い距離を歩いて水を汲みにいかねばならないことを憂いているのだ。夕食の支度が遅れればメロエ人の主人にも折檻されるのだろう、その程度のことならナサカにも想像がついたが、何も言わなかった。

「お前のこと、他の娘から聞いたよ。まるで男のようにふるまって、本当は私たちと同じナパタの女なのに、助け合おうとしないと」

 娘の言葉にナサカは顔を上げ、その頬を叩いた。

「お前とは違う。今はもうナパタの女ではない」

 声を張り上げることで周囲に、そして自分に対して主張を強めた。

 拳を握りしめ、ナサカは娘に背を向けて歩き始めた。通りがかった既知の戦士に、「男の財産を傷つけるな」と小声で叱責されたが、苛立ちからそれも無視する。身重の娘が自分に向けたまなざしは、しばらく頭から離れなさそうだった。

 盗賊を殺して帰ってきたあの日、あの初潮の日から計算すれば、ちょうど今頃、自分も誰かの子を腕に抱いていてもおかしくなかった。義肢の硬い足裏に砂礫の熱を感じる。もしかしたら、あの娘は自分だったかもしれない。


 義肢に適応し、日常生活にも不自由しなくなった頃、ナサカは他の戦士たちの暮らす集落に居を移したことがあった。しかし生涯妻をもたないことも多い戦士たちのなかで、ナサカは常に問題の種だった。身の危険を感じて不寝番をすることも多く、難癖をつけられてもめ事に、それが流血沙汰にまで発展することも少なくなかった。衝突を繰り返すことで、彼らとの付き合い方、身の置きどころを学んでいったのも事実だが――「女のくせに」「女ごときが」という呪詛が、「女のわりには」というある種の賞賛に変わっていった――最終的には、「私の手足なら私の近いところにいなさい」というフォロガングの言葉で集落を出ることになった。「お前が清貧な戦士たちをまどわすようなことがあってはいけないから」と表向きには公言されたが、それが彼女の本心であるかは知らない。

 以降、ナサカは集落と特権階級が暮らす火山付近の中間地帯にある洞窟に間借りしている。時折、フォロガングが訪れる以外には誰も尋ねてこないさびれた場所だ。

「ああ、お前、帰ったのですね」

洞窟に戻ると、岩に腰かけたフォロガングが、長い枝の先で地面に円を描いていた。「何でいる?」――ナサカは反射的に問いかけた。太陽を避けて生活する彼女は、重要な用件がないかぎりは日中ほとんど姿を現さない。

「用もなければ尋ねてはいけませんか」

 フォロガングは肩をすくめると、地面に書いた複数の円を指差して、「お前、陣地取りはできますか?」と問いかけた。

 その言葉にナサカは目を眇める。メロエ人の子どもたちが地面に描いた円で、大人たちは男女問わず専用の遊戯盤を用いて、陣地取りと称される遊びをすることは知っていた。ナパタ人にも、似た遊びがある。

 しかし、ナサカは首を横に振った。

「メロエの遊びは知らない」

「つまらないですね。私も遊び相手がいなかったので知りません」

 フォロガングはひとつの円を六つに割り、じっと眺めてから砂で掻き消した。立ち上がって傘を手に持ち、「外に出ますよ」と宣言する。

「私が卵探しの名人だって知らないでしょう」

 ――今日の彼女はよく喋る、とその後ろ姿を眺めながらナサカは思った。

 ナサカの義肢は常にフォロガングの支配下にある。彼女の呪詛が――あるいは〝祝福〟が――なければ、ナサカは四肢のない女になる。しかしふたりはいつも一緒にいるわけではなかったし、そもそも聖女王とその近親者は、上位神官といった限られた特権階級のみが謁見できる存在だ。あの日、瘢痕分身の儀式にフォロガングが出てきたことさえ異例の話だという。

 聖女王の継承権を持つのは、聖女王の血統に生まれた白子アルビノの女だけ。俗に、白い女と言う。白い女は生まれながらの強力な呪術師とされ、精神や肉体の弱い者であれば、一目見られただけで命を落とすというおそるべき邪視の力を持つと信じられている。それゆえに、人前に出ることが少ない。

 だからこそ、ふたりの関係は特殊だった。そのナサカであっても、フォロガングや現在の聖女王について他人より知っているかと言われれば、首を傾げるほどだったが。

 色鮮やかな青い傘を差し、フォロガングは荒野をゆっくりと進んでゆく。その迷いない足取りは、火山の方角を目指していた。「そっちはお前たちの領域だろう。私は行けない」と文句を言ったものの、白い娘は振り返りさえしない。

「誰かに見つかったとしても、私と一緒にいるのだから大丈夫」

「お前はいいかもしれないが、私が困る」

「私がいいならそれでかまわないでしょう?」

 フォロガングは頑なに言い張った。彼女についてしばらく曠野を進めば、硫黄の堆積した起伏の激しい地面が現れ、あちこちで硫黄臭のする熱泉が噴き出ていた。

「こんなところに卵が?」

「昨日の夜に隠しておいたんです。他の誰にも見つからないように」

 白い噴煙が視界をさえぎる足場の悪い地面を、フォロガングはためらうことなく進んでゆく。そしてある岩場で立ち止まると、その裂け目をまじまじと覗き込んで眉をひそめる。

「蛇にでも食われてしまったんじゃないか」

 最近になって知ったことだが、メロエ人でも基本的に卵は男の食べ物という話だ――――ばちが当たったんだ、と続け、「それとも私を連れ出したい用があったのか」と矢継ぎ早に問いかける。

 フォロガングは無言のまま、岩の亀裂に突っ込んだ腕を動かし続けた。「あっ」と小さな声が漏れたかと思うと、引き上げた手には小さな卵が握られている。

 そそくさとその場に座り直した娘が、爪先で卵の殻の先端を潰して穴をあける。

「お前にも分けてやろうと思いましたが、口答えが多いのでやめておきます」

 こぼれ落ちた未熟な胚をすする彼女に、「そうしておけ」と答える。

「お前の施しなどいるものか」

 そうつけ加えれば、フォロガングは口の端をぎこちなく歪めた。しかし、笑うことはなかった。聖女王の継承者として、感情を露にすることがないよう努めているのだ。

 あたりはかんけつせんから噴き出す湯気で白くけぶり、ほとんど見通しがつかなかった。足もとを見下ろせば、黄色く透ける泉のなかで鳥の死骸が溶け、なかば骨と化していた。

「――最近、テスファイネシュ様の体調がよくありません。今は御子を身ごもまれていますが、臨月を迎えて起き上がることもできないようで」

 耳朶を打つ声に、ナサカは視線だけを動かす。

 テスファイネシュとは、現在の聖女王の名前だ。

 ナサカも名前しか知らないが、なぜ今、この娘は叔母の話題を出したのか。フォロガングは卵をひっくり返してまで余さず中身を飲み干そうとしていて、普段と特段変わったところはない。

「聖女王の衰弱は、メロエの衰退に繋がるとも言われています。いずれ、テスファイネシュ様は聖女王ではなくなるでしょう」

 その言葉の意味するところは明白だ。テスファイネシュ自身にも子はいるとの話だが、聖女王の近親者に《白い女》はフォロガングしかいないと聞いている。

 わざわざ苦手な昼間に外に出てまで、フォロガングは自分に会いに来た。その行動に、ナサカは彼女の不安を嗅ぎ取ってしまった。

「まだもうすこし先の話ですが――」

「お前は」

 フォロガングの声を遮ってまで、ナサカは何か言わねばならないと思った。

「不届きもの」

 そうなじりながらも、フォロガングは先を促す。

 ナサカが伝えようとするであろう言葉を、期待しているふしさえあった。

 しかし、ナサカは続けるはずだった言葉を見失ってしまった。口をつぐんだ女に、フォロガングは黙って赤い瞳を細め、自分の爪ごと卵の殻を噛んだ。何を思ったのか、傘を置いてその場を立つと、長い腰布をたくし上げ、近くにある間歇泉に分け入ろうとする。

 間歇泉は、ものよって酸の濃度がまちまちで、運が悪いと皮膚が溶けかねない。そうでなくとも熱湯である可能性がある。ナサカはとっさに伸ばした腕をフォロガングに掴まれ、泉の方向にむかって引っ張られた。

 もろとも落ちた先は人肌程度のぬるい泉だった。空の色を反射し、硫黄が堆積してひび割れた大地の隙間で煌々と光っていた。

 目の前でけらけらと笑う娘を異様なものをみる目で眺め、ナサカは顔をしかめた。

「お前が笑うところをはじめて見た」

「だって、おかしい。ふたりで落ちてしまうなんて」

「笑うほどのことじゃない」

 浅い泉のなかに座り込んだまま、フォロガングは濡れた髪をかき上げた。日の下で見る彼女はまぶしさを感じるほどに白い。

 目のめるような白を意識させられるたび、ナサカは自分の死んだ母のことを考えずにはいられない。それを見透かした訳でもあるまいに、フォロガングはじっとナサカを見つめると、「お前は誰よりも黒い」とつぶやいた。

「お前の母親は、きっとお前が誇らしかったでしょう。誰よりも美しい闇色の肌を持つことを、祝福せずにいられなかったに違いない」

 フォロガングは心から感嘆の声を漏らした。

 太陽光を照り返す、顔や胴体を覆う艶やかな皮膚を眺めて、「お前の肌は、太陽の下では赤紫を帯びる」と囁く。

 曠野を染める黄昏の色だと続け、彼女は口の端をゆがめた。

 

 陽が落ちてゆく。洞窟に射す光は徐々にかげり、やがて何も見えなくなると、椰子油の明かりだけが砂の地面を照らすようになる。

 ナサカが枝の先で地面に書いた複数の円に、フォロガングが豆がらを均等な数に分けて置いていく。六つの円を二列、たがいの陣地から豆がらを取り合う遊びは、ナサカの故郷では年代を問わず親しまれているものだ。

「他の連中がやるのを見るかぎり、メロエと規則の違いはそこまでない」

 陣地取りの規則ルールを説明したあとにそう付け加えると、フォロガングは心得たとばかりにうなずいた。

「もとは同じですから、似るものなのでしょう」

 古い言い伝えでは、メロエ人とナパタ人は同じ祖先を持つ。あたりまえの事実ではあったが、ふと小骨が胸に刺さるような感覚があり、返答を見失った。

 フォロガングは気付いた様子もなく、はやく遊ぼうとナサカをせかした。

 自分の陣地から輪をひとつ選び、そこに置いた豆がらをすべて取って、隣の輪から順に配ってゆく。輪のなかの豆がらの数が決まった数になればそれはすべて自分のものになる。最終的にものにした豆がらの数が多いほうが勝ちという単純な規則だが、だからこそ奥深く戦略が活きやすい。

 ナサカはこの遊びが特段得意というわけではなかったが、さすがに初心者相手に負けるほどでもないと当初考えた。しかしあっと言う間に自分の陣地から豆がらが消えたのを前に、それが思い違いであったことに気付いた。

「お前、もしかして他人ひとより弱いですね?」

 握った拳を膝の上に置くと、ナサカは「もう一回だ」と言い放った。

 しかし何度対戦したところで結果がくつがえることは一度もなかった。ナサカは意地を張り、フォロガングも顔には出さないがそれなりに楽しんでる様子だった。しまいには額を突き合わせて、試合の経過の検討を始めた。

「お前はそもそも先を読むということを知らないのでは? それとも、両手の指の数以上をかぞえられないのがいけないのかしら。お前に駱駝の管理は任せられそうにないですね」

「失礼なことをいうな。駱駝でも山羊でもいくらでも数えられる」

「それなら豆がらを山羊だと思うことですね」

 指先で干からびた豆がらを突き、フォロガングは肩をすくめた。手のひらで土に描いた円をかき消しながら、「ああ、こんなものでしたか」とわざとらしく呟いた。眉を跳ね上げたナサカに対し、言葉を付け足す。

「皆が楽しそうにやっているから、どんなものかと思っていたんです」

 もう満足しました、とフォロガングは言った。嬉しそうでも、かと言って落胆した様子でもなく、いつも通りの淡々とした口調だった。

 ナサカの目には、フォロガングが本心を押し殺しているように映った。しかし、それが自分の浅はかな思い込みから出た想像でしかないことを、恐れた。

 不自然に落ちた沈黙を気にした風でもなく、フォロガングは赤くなった膚をさすり、「日焼けをしてしまいました」と溜息をこぼした。

「お前はさほどでもないでしょうけれど、私は太陽に当たるだけで、こうして肌がひどく焼けてしまうのです。蜜や乳酪を塗って美しく保とうとしても、すぐに乾いて荒れて、皮が剥けてぼろぼろになって。だからいつも傘を差すのです。それでも両足は痛くなるし、陽の下では満足にものも見れませんが」

「知らなかった」

「お前は私について何も知らないのですね」

 椰子油の光に照らされた娘の肢体に、濃い陰影が落ちている。その肉付きの薄いからだを眺めて、ナサカの頭をふとした疑問が過ぎる。

「お前は結婚をしないのか。メロエの女も十四歳を過ぎれば子を産むと聞いた」

 戦士として男社会に身を置くナサカとは違って、フォロガングは身分こそ高貴だが、女としての義務はついて回るはずだ。純粋な疑問というていの裏に、ある種の期待が隠れていた。

「ああ、ナサカ。お前、私が自分と一緒だと思ったでしょう。まさか、そんなはずはあるまい。私はお前じゃないもの」

 フォロガングはあざけるように笑った。

 羞恥に襲われ、ナサカはうなだれた。視線の先に、彼女の身につけた腰布がある。白い綿布には金糸で隈なく刺繍が施され、いつ見ても息を呑むほど美しい。

 不意に白い指先がその裾を掴んだ。

 ゆっくりと布をたくし上げながら、吐息ほどの声量で、「覗いてごらんなさい」とフォロガングが囁きかけた。

 ナサカは弾かれたように頤を上げ、その赤い両目を見すえた。

 その目元を、色のごく薄いそばかすが覆っている。

「私の秘密を教えてやりましょう、ナサカ」

 高圧的な態度だった。

 ナサカは逡巡した。しかし唇を引き結ぶと、言われたとおり、両膝を立てた娘のそこを覗くことにした。

 余すことなく剃毛を済ませた足の間――本来であれば肛門・女陰、下腹と続くはずの場所に、奇妙な亀裂が複数走っている。

 その亀裂を金色の繊細な糸が綴じ合わせている。

 異様な光景だった。はじめは理解できず、ナサカは何度か目をしばたく。そして、慌てて顔を背けた。

「白い女は、白い女を産むべし……」

 フォロガングは虚空を見すえながら、小さな声で囁いた。

「聖女王の教えです。あの憎たらしいテスファイネシュ様と同じように、私にも求められる役割というものがありました。そして、私は人よりも早熟だった」

 聖女王カンダケとなれるのは、白い女だけ。

 そして、聖女王の血統でなくてはいけない。

「お前は体が大きいけれど、女としてのしるしはずいぶん遅かったでしょう。私はその反対でした。結果として、私の肉体は損なわれてしまった。今私が生きて、歩くことができるのは、聖女王が私にまじないをかけてここを縫い合わせたから。夜ごとに痛みます――でも、耐えられないほどではない」

 そう言って、フォロガングは腰布を元通りにした。そっと腕を伸ばすと、ナサカの頬に触れる。彼女の掌は冷たかった。

 目の前にいるのは、自分を誘拐し、四肢を奪ったメロエ人で――――自分に四肢を与え、異なる道を示した女で――渾然一体となった記憶のすべてを覆いつくす勢いで、ナサカは自分の血が燃えるのを感じた。

 膝の上で握った拳が、ひどく震える。

「なぜ、そんな目に遭わなければいけない。お前は何も悪くないだろう」

「いいえ、相手を受け入れられなかった私に責があるのですよ。私の肉体が未熟すぎたのがいけなかった。皆そう言っています――結果として役割を果たせなくなってしまったのは事実ですからね」

 透明な睫毛越しに、焦点のさだまらぬ瞳が絶えず揺れている。

「なぜ。なぜお前の価値が損なわれなくてはいけない」

「ああ、ナサカ。お前は私のことを思い、怒っているのですね」

 そう指摘されてはじめて、ナサカは自分の心に気付いた。

 フォロガングはゆっくりとかぶりを振り、理解できない、と言った。

「ふつう、同情はしても、怒りはしない。自分はそうでなくてよかった、と安堵する程度のもの。やはり十六回も生まれ直すと、人と考えが違ってしまうのかしら。不幸なことですね、ナサカ」

 そうなじりながらも、フォロガングは何かを訴えたくてたまらないようだった。けれども彼女は自分自身のことについて、あまりに無自覚なように見えた――淡々とした声が、それでいて自分を羞じているような態度が、よけいにナサカの胸をえぐる。きっとここでどう言葉をかけたとしても、フォロガングの自尊心をいたずらに損なうだけなのだ。彼女の目を通せば、ナサカの抱える疎外感、そして自分自身の傷は、規範からずれた、本来抱くべきでない、許されざる痛みなのだから……。


 ■


 駝鳥の群れが荒原を走っている。地の拍動のようにとどろく無数の足音に砂埃は巻き起こり、熱砂が飛沫となって肌を打つ。ナサカは数歩先を行くフォロガングの傘を見つめていた。彼女の視線はまっすぐ、火山の麓で大きく口を開けたひとつの穴を目指している。

 曠野のただなかに、その穴は突如現れる。地を垂直に掘った、直方体の形をした巨大な穴だ。底には凝灰岩を組んだ建造物がそびえ、その内部にたどり着くには長い隧道すいどうを進まねばならなかった。

 地下から吹き上げる風は、硫黄の匂いを帯びている。

 〝秘密〟を共有した夜の去り際、フォロガングはナサカに告げた。「お前に見せてやりたいものがある」――斯くて翌日、ナサカが連れて行かれたのは、聖殿の最深部、聖女王の居所であった。

 暗い隧道は地上ほどではないが蒸し暑かった。人の往来はなく、稀に白い綿布を身巻いた神官とすれ違うだけ。そのたびに奇異なものを見る目つきがナサカに向けられたが、フォロガングを前に誰も何も言わず、黙って顔を伏せて道を空けた。

 しばらくして、嗅ぎ慣れない悪臭がナサカの鼻を突くようになった。

 何か硬いものを踏み、足裏で砕ける感触がした。ふと視界の端をかすめたものに気付き、見れば遺骸ミイラの腕がある――人ひとり分の道だけを確保して、通路の両脇に大量の遺骸が積み上げられていた。それがこわれ、くずれ落ちては地面に散乱しているのだった。

 悪臭は、遺体の処理がまちまちなのが原因らしい。体内に遺された内臓が腐り、視界がかすむほどの臭気を放っていた。

「これはいにしえの代からのむくろです。長く生き、高い階梯かいていまでたどりついた神官であれば自分の墓を建造するほどの富と名誉を得られますが……」

 メロエ人は王族、賎民せんみん、そのいずれにも属さない者たちという区別のほかに、男社会でのみ通用する階梯制度がある。年齢や職業、王権への貢献度で決まる流動的な序列で、権威や発言力だけでなく、身体装飾の規則、妻帯の有無や養育できる子の性別や数などを定める。

「そうでないものは、このように」

 フォロガングが行く手をさえぎる遺骸の指先に触れると、砂のように崩れ落ちていった。

 隧道の奥へ進むほどに、遺体を避けて歩くことが難しくなる。もはや道の全面に堆積しているといっても過言ではない状態になると、それらを押し潰しながら進むはめになった。それでもここは墓所ではなく、〝道〟なのだ。

「こんなところに聖女王が?」

 心のつぶやきが漏れたナサカを振り返り、フォロガングはうなずく。

「そう言ったでしょう」

「死者の町を歩かされている気がしてきた」

 ナサカの故郷では、死者は蟻塚やその周辺に葬った。死は生の延長線上に存在し、死んだ人間はこの世界のどこかにある死者の町に一定期間とどまる。時が経つと、どこか別の場所へ行くのだという。

 メロエ人の死生観はそれとは異なる。遺体は乾燥させて保持する。死人はこの世の終わりに蘇ると信じられ、またこの世に戻ってくるときのために、肉体を遺す。この世の終わりに、神によって裁かれ、神の国へ行く権利が決められる。けれども生きているときに、特別この世で貢献できたものは、その権利を最初から与えられるという話だ。その特権は、聖女王やその近親者、神官――そして、聖女王のために死んだ戦士たちのものだ。

 隧道の底に辿りつくと、開けた場所に出た。椰子油の灯りが煌々と燃えるその場所に、遺体ミイラの山はなかった。突き当たりに石造りの巨大な扉があり、その前に、ひとりの男が立っていた。

 上背のある男だ。その広い背には、無数のはんこんが――何匹もの蛇が刻まれている。戦士の男たちには通過儀礼ののちにも武勇の証として瘢痕を刻む者がいるが、彼ほど立派な瘢痕を持つ男は見たことがなく、ナサカは面を食らった。

「エベデメレク」

 フォロガングの呼び声に、男が振り返った。

 美しい闇色の肌をしている。樹脂で固めた髪に剃り上げた頭頂部は既婚者の証だ。メロエ人の妻を持つということで、戦士のなかでは高い身分に当たる。

 彼は腕に何かを抱いていた。それが赤子だと気付くまで、わずかに時間を要した。

「フォロガング。来たのか」

 エベデメレクが彼女の名を呼んだことで、ナサカは彼が一介の戦士でない事実をようやく飲み込んだ。おそらくは聖女王の近親者だ。その彼が抱いているのは、はだの真っ白な赤ん坊だ――まだへその緒がついた赤子で、頭部が異様なまでに膨らんでいる。

 フォロガングはふらりとエベデメレクに歩み寄った。

 腕のなかの赤ん坊の顔を覗きこむが笑みひとつ浮かべず、淡々と問いかける。

「テスファイネシュ様はご覧になられましたか」

「いいや。母は奥で休んでいる」

 断片的な会話から推測するに、エベデメレクはテスファイネシュの息子で、彼が抱いているのは自身の生まれたばかりのきょうだいのようだ。

「これでは育つ見込みがありません。それに、男では意味がない。けれども白子であるならば、まだ――救いが」

「礎にするつもりか」

 ええ、ええ、とフォロガングは何度かうなずいた。エベデメレクの腕のなかで呼吸する赤子に両手を伸ばす。

 そして、赤子の首をぎゅっと絞めた。

「――なぜ」

 ナサカの頭のなかで砂嵐のように、蟻塚で焼き殺された双子の異母兄弟が過ぎった。

「なぜその赤子を殺した? 生まれて間もない、まだ何の罪も犯していない子どもだろう?」

 腕のなかで事切れた弟と、エベデメレクは無言で額と額を合わせた。せっかく産まれた子が間引かれた現実を、ナサカは理解することができなかった。

「私の言うことを聞きなさい」

 フォロガングは多くを語らず、冷たく言い放っただけだった。なおも食らいつこうとした瞬間、手足が不意に重みを増し、ナサカはその場に這いつくばった。

「私はテスファイネシュ様と謁見しますので」

 背を向け、「お前はエベデメレクについて行きなさい」と指示される。冷たい石床に額をこすりつける姿勢で、ナサカは奥歯を噛みしめた。


 赤子を抱いたエベデメレクが、来た方角とは異なる隧道を進んでゆく。やがてたどり着いた場所には数人の神官が待機しており、そのうちのひとりが恭しく亡骸を受け取った。エベデメレクがその男についていこうとするので、ナサカも渋々従う。

 遠くに明かりが見えた。硫黄の匂いが徐々に強くなり、皮膚の表面に感じる気温も上昇してゆく。神官は途中で姿を消したが、エベデメレクについて化粧タイルを敷いた細い階段を降りてゆくと、広々とした空間に行き着いた。そこが地底だった。

 周囲を見渡し――息を呑む。

 空間を形作る黒い岩壁には隙間なく石黄の顔料が塗られ、あまりに緻密な――――目をらそうとして「強い呪詛だから、直視しないほうがいい」と前方のエベデメレクに言われて視線を逸らしたが――メロエ人の呪紋しゆもんが刻まれている。その天井からは道中の比ではない数の亡骸ミイラが吊り下げられ、かつ地面が見えぬほどうずたかく積まれ、折り重なっている。

 そのなかの誰ひとり、黒い膚・黒い毛髪の者はいない。

 性別や年齢の区別はあれど、いずれも色彩の欠如した、白子アルビノの者たちであった。

「あの子どもは育ちようがなかった。しかし生きのびることはできずとも、別の使い方があった。白子には強力な霊力が宿る。ゆえに、呪術のもっとも強力な道具になるのだ」

 振り返ったエベデメレクに視線をむけ、ナサカは唾を飲んだ。

 全身から汗が噴出する。不吉な言葉に、恐るべき想像をかき立てられる。

「……フォロガングは、地中に呪物を埋めていると言った」

「聖殿の結界の話か? あれも確かに白子の骨を埋めている。毎年、継ぎ足しながら」

「これは違うというのか。ならば、これは、」

「いずれ来たる災いの日のためのいしずえ

 ナサカの言葉をさえぎり、「お前はまだ白子狩りに加わったことがないと聞いた」と告げる。「意図的に外されているな」とも。

「戦士となるべく育てられた少年たちは、外に出てはじめて、メロエ人を見舞う悲境の運命を知る。そして戦士としての自覚を新たにする。だが、お前は所詮ナパタの女。メロエ人の戦士としては、真に認められんよ」

 エベデメレクとは初対面だったが、彼はナサカのことをよく知っているようだった。フォロガングから話を聞いていたのかもしれない、とそのときは自分を納得させた。それ以上に、告げられた内容に頭をかき回され、混乱した。

 指先が火照る。

 やがて来たる厄災が降る日とは――メロエ人における神話のひとつではなかったのか。

 椰子酒がたった半日で十分に発酵するように、この場所で育てられたメロエ人の子どもたちは、成人の通過儀礼を経て、ナパタ人への憎悪を深く、そして確かなものにする。成人することで戦士や神官の地位を得て、大人と同じ階梯かいてい身分に所属するようになると、そこで最初に教えられるのがメロエ人迫害の歴史だ。子らは大人となり、このくにを支える人材となり、メロエ人としての過去の栄光を再現しながら、何十世代にまたがり、いずれ来たる日を待つようになる。その日のことを、けっして訪れようのない日、苦渋を舐める日々を慰めるための物語だと、ナサカは理解していたというのに。

 礎と呼ばれたこの場所は、ふつうの人と比べてはるかに頑強な自分でさえ、長く居続けることに苦痛を感じた。首のまわりに何かがまとわりついて、呼吸が難しい。眩暈と吐き気に立っているとのがやっとな空間に置かれて、ナサカは「いずれ来たる日」がただの物語だとは断言できなくなってしまった。

 フォロガングが見せたいと言ったのは、この場のことだったのか。

 彼女の姿は見えないのに、「お前にはその覚悟があるか」と問いかけられているような緊張感を抱く。息苦しさに耐えかね、顔を上げると、至近距離にエベデメレクの瞳があった。

「俺にも母やフォロガングと同じようにまじないの力がある。物理的な干渉はできないが、夢に未来の予兆を視る。お前は数年前、夢で視た顔と同じだ。まさかナパタの女とは思わなかったし、誰にも言ったことはないが――」

 俺は呪術師ではないからな、とかぶりを振ったエベデメレクの肌は、母親聖女王とは異なり黒い。しかしその両目だけは、白子のように色が薄い。鮮烈な青色だった。

「お前はきっと王権に必要な存在なのだ。ゆえにお前はここにたどり着き、フォロガングはお前の命を救った」

 この場に居ながら、彼はまったく気分や体調を害した様子がない。

 ナサカの額には脂汗が浮かび、両足は震えているというのに。

「――フォロガングをたすけるといい。メロエのなかでもっとも呪い、呪われた女を」

 

 ■


 メロエの戦士たちは数人が組み合わさってそれぞれの集団を形成し、与えられた任務を遂行する。隊商の護衛もあれば、稀に国境から流入する異民族・聖殿の噂を聞き付けてやってくるナパタ人の排除、時に遠方から嘆願に訪れ、要求を押し通そうとする同胞メロエを排除することもある。聖殿の外部での略奪や誘拐なども、彼らの仕事だ。

 聖殿の領域は常に一定の人数で運営され、内部で産まれた子であろうとも、女だったり不適格とみなされれば外に捨てられる。食糧供給が略奪と周辺部で伝統的な遊牧社会を築くメロエの集団によって賄われているからであり、歴史的に飢饉と戦ってきた経緯があるためだ。

 エベデメレクに指摘されたように、ナサカが白子狩りに出されたことはなかった。ナサカがナパタの女であればこそ、重要な任務に関わらせる訳にはいかない、という戦士たちの所属するなかでもより上流にある階梯身分の者たちの考えがあるからだろう。

 ナパタ人の女としても、また異民族であるメロエ人のなかにおいても、ナサカは常に周縁に立たされているという自覚があった。その自意識は常に彼女のなかでくすぶっている。

 結局、あの後フォロガングと会う機会はなかった。聖女王の居所から帰り着いた夜は寝つけず、まんじりともせず住処の洞窟で夜を明かした。

 ナサカの頭のなかでは、繰り返し、彼女が赤子の首を絞める光景が流れていた。

 フォロガングとの心的距離が近しいとは、けっして言えない。ナサカは本心から彼女のことを理解できない存在と認識していた――けれども彼女に感情がないとは、どうしても思えなかった。

 心がなければ、彼女は自分の命を救うことも、自分と関わることもしなかったはずだ。

 フォロガングはメロエ人のなかでももっとも高貴な人物のひとりで、ナサカは、いくら稀な悪霊憑きとはいえ、彼女の憎むナパタ人の一介の女なのだから。

 ふたりの繋がりを必要としているのは、ナサカのほうではなく、フォロガングなのだ。彼女がナサカという存在に何かを見出し、あるいは見出そうとしなければ成立しない関係なのだ。その考えに至って、ナサカは身動きができなくなった。

 あの邪悪な、他者から憎まれて何とも思わないような娘。

 その白い横顔が、頭に焼き付いて離れない。


 また暫く隊商の護衛として外に出され、ナサカが聖殿に戻ったのは、あの日から二週間以上が経過してからだった。

 日没を迎えようとする曠野には太陽の光が放射状に広がり、大小様々な間歇泉をマゼンタ色に染め上げる。硫黄の匂いがたちこめるなか、あちこちで熱水を噴出させる泉を横目に、ナサカはその場所を歩いていた。

 岩の上に、死んだ小鳥が落ちている。溶けた骨、わずかに残った羽毛。足もとに置いたその死骸を観察しようと、傘を差したフォロガングが硫黄が凝結した岩畳の上にこぢんまりと座っている。

「エベデメレクは、お前のことを気に入ったようですね」

 歩み寄ろうとするナサカには目もくれず、フォロガングがつぶやいた。

「結婚すればいい」

 硬く張り詰めた声。想像もしていなかった発言に、ナサカは眉をひそめた。

「私が言えば可能でしょう。あれは、メロエの男らしからぬ寡黙さが玉に瑕ですが……それを差し引いたとしても立派な男です。ただ、ようやく第一妻を娶ったところなので、正式な婚儀を挙げるにはもうすこし時間が必要でしょう。あれの妻はとても気の強い女だから、機嫌を損ねてしまう」

 小鳥にたかる数匹の蠅を視線で追いながら、フォロガングは淡々と言った。

「何の話をしている?」

 言葉を選びかねたすえに、ナサカはそれだけを問うた。

 フォロガングはゆっくりとおとがいを上げ、不思議そうに目をみはる。

「ああ、ナサカ。まさか、お前は子を産みたくないのですか」

 紫がかった赤い瞳には、今にも吸い込まれてしまいそうな引力がある。

「女の価値を知らないのですか。子を産み育てる以外に、他にどんな女の仕事が? お前は呪術師でもなければ、戦士としても半端者。私はお前の心配をしているのですよ、ナサカ。白子の礎を前に、おそれをなしたでしょう。加担できないと思ったでしょう。だったら、別の道を探さねば。お前がメロエ人のなかでやっていくためには、メロエ人の立派な男とつがい、その子を産めばいい。簡単なことです。戦士として生きていくよりはずっと穏やかな生活が送れる」

 私の手足となれ、とフォロガングは言ったのではなかったか。目の前の娘に聞こえぬよう、ナサカは口の中で恨み言を吐いた。

「だから私をあの場に呼んだのか」

 逆光のなか、娘の表情はさだかでない。「そう」と小さな声でうなずき、彼女は白い髪を耳にかき上げた。

「エベデメレクは美しい肌をした女が好き。それに、お前は四肢を失っても生きのびたほど。どんな苦痛にも、当然お産にだって耐えられるでしょう。私はお前のことを思っているのですよ。お前があんまりにも憐れな女だから、情がわいてしまって、だから、こんな風に」

 大股で歩み寄って、ナサカは彼女の右肩を掴んだ。

「ふざけるな」

 一喝する。

 胸の上部に燃えるような熱がわだかまり、息が詰まってしかたなかった。

「私がどんな思いで生きてきたのか、お前にはわからないのか! メロエの男たちの欲望にまなざされながら、それでも必死に今の身分にすがりつく私の心を考えたことがないのか! お前が、お前こそが指し示した道だろう、フォロガング! それを今になって手のひらを返すのか、そうまでして私を侮辱したいのか!」

 至近距離で、赤い眼球が左右に揺れる。焦点の定まる位置を探している。その瞬間――ナサカにはわかってしまった。

 フォロガングがひた隠しにしようとする感情を。その思いを傾ける先を。

「お前に生殖器がないから……私がそれにかかずらって苦しんでいることが口惜しいから……だから、いたずらに私を傷つけようとする。そんなに私がうらやましいのか、フォロガング! 不幸なことだ。両手足のない、母を殺してまで生まれてきた私に嫉妬しているのか、お前は!」

 衝動のままに、ナサカは声をひり出す。

 これまでけっして口にするはずのなかった呪詛によって、娘の心を踏み荒らそうとした。

 フォロガングは声を失い、「ああ」と嘆息をこぼした。

「そうだ。お前がうらやましい、ナサカ。お前が憎らしい、ナサカ」

 今更その事実に思い当たったというように、白い娘は瞠目する。自分の胸のあたりを探って、上半身を覆う駝鳥の卵のビーズを握りしめようとした。力が入りすぎて、ぷつんと糸が切れた。割れたビーズのかけらが指先からこぼれ落ち、岩の上に散乱する。

「お前は私にないものを持っているのに、何を苦しむことがあるのか。なぜ私は、お前なんぞをうらやましいと感じてしまうのか。誰にも抱いたことのない感情を、よりによって、お前なんかに抱いてしまうのか……」

 フォロガングはすがる何かを求めているようだった。震える指先がビーズを拾おうとして、虚空をさまよう。

「これ以上、ひとりになど……」

 はらわたを振り絞ってこぼれ落ちた、血の入り混じった囁きが、間歇泉の白い靄に消える。

 そこではたと気がついたかのように、娘の手が、ナサカの黒い腕におそるおそると伸びた。

 硬質な感触を冷たい指先でたどり――「見つけた」とでもいうように、しっかりと掴んだ。

「ナサカ」

 フォロガングはナサカを呼んだ。

「私を……」

 けぶるような睫毛がゆっくりと動くと、まなじりを一筋の涙が伝った。

「私を救ってくれ、ナサカ!」

 はっきりとそう叫んだ。ともすれば幻聴なのかと疑うほど、その声は透き通って、一切の不純物がなかった。

 日の残照が、白い娘の産毛すら透明に輝かせる。やがてそれが深い陰影に溶けて見えなくなるまで――ナサカはフォロガングをみつめつづけた。

 心臓を回った霊界の血が熱く沸騰し、うら若き娘の全身を循環する。


 こんなにもみじめで、かなしく、きよらかな魂があるものかと思った。

 今この瞬間を、永遠に忘れることはない。ナサカは確信する。


 そして事実、フォロガングという血の雨を浴び続けた聖女王を本心を見せたのは、この瞬間ときだけだった。後に二十七年間の人生を振り返り、ナサカはそう回想することになる。


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