(六)
(六)
旱天だった。
赤い大地は涯てまでひび割れ、吹き上げる風は容赦なくナサカの全身を
荒原のはるか遠くにそびえ立つ奇妙な赤い樹を眺めて、気を逸らしていた。
まだ成長のさなかにあることを窺わせる娘の背で、一本の剃刀がするすると動いてゆく。すべらかな黒い皮膚を裂き、斑に傷を刻む。温かい血が流れ、汗や埃と混じり合いながら地面にしたたり落ちる。
メロエ人の隠し集落――彼らはそこを『聖殿』と呼ぶ――に拉致されてから半年が経過し、ナサカは十三歳になった。ナパタ・メロエの双方で成人とされる年齢だ。メロエ人ではこの年になると、男女ともに〝瘢痕分身〟の通過儀礼を受ける。エグジアブヘルの広域で忌まれ禁じられて久しい風習が、聖殿では今なお受け継がれている。
鱗のように残る傷痕を身体装飾として見立てる一方で、儀式そのものにも意味がある。麻酔もなければ、酩酊作用を引き起こす
『私は顔色ひとつ変えませんでした』
フォロガングはナサカにそう言った。背中に刻むのが一般的とされるが、特権階級である彼女はそのかぎりではない。全身の複数箇所に、真新しい、薄い紅色に染まった瘢痕があった。
彼女と同じ儀式を受けるにあたり、ふつう女性であれば一匹の蛇の図案を刻むところ、ナサカは他の戦士と、戦士となるべく育てられた少年たちと同様、交差する二匹の蛇の図案が選ばれた。
『私の手足となるならば、そのくらいの痛みは容易に耐えられなければ。それに皆、お前に興味があるのですよ。悪意と同程度に』
フォロガングの言葉はしつこく耳に残った。ナサカが青い火山を望む洞窟を出て、フォロガングを除いたメロエ人の前に姿を現したのは、今日の儀式が初めてだった。それまでは世話役のナパタ人の女としか交流がなかった。
儀式の場所となった曠野には、十三歳を迎えた少年たちの姿がある。見届け人として同族の男たちも複数つどっていたが、女はナサカと、儀式を執り行う鍛冶屋の老婆だけだ。放射状に広がる陽射しが、血を流す少年たちの背を照らしている。
フォロガングが指摘したとおり、ナパタ人の自分がこの儀式を耐え通せなければ、未来永劫メロエ人のなかで認められることはない――両手足をもぎとられ、ふたたび曠野の隅に放置されるかもしれないという恐怖が、ナサカの口を硬く閉ざした。くわえて、顔こそ覚えていないが、今この場所に、あの日自分を蹂躙した男がいるかもしれない。周囲から突きつけられるまなざしの地獄のただ中にいると、平静を装う以外、どんな表情も態度もとれなかった。
針で皮膚を突き通され、剃刀で薄く肉をこそぎ落とされる。ナサカは歯を食いしばりながら、その苦痛を耐え通した。そして――。
ふと、視界の端に、煌めく金を見た。中天に昇った太陽のもとを、傘を差した白い娘が歩いている。その紫がかった赤い瞳は、たしかにナサカを見ていた。
その手には、火を載せた器がひとつ。
硫黄は幻想的な死の匂いを漂わせながら、青く燃える。
周囲のメロエ人の者たちが、一人残らず跪いてゆく光景に、ナサカはわけもなく高揚感を抱いた。フォロガングはすり足でゆっくりと近寄ってきて、火の器を掲げた。
「少年たちよ、よくぞこの儀式を耐え抜きました。テスファイネシュ様に代わって、私がお前たちの勇気を称賛します。これでお前たちも一人前のメロエ人。そして、メロエ人の戦士です。今後、戦士として望むいかような戦いにも、怖気づくことはなく、あらゆる痛みや困難も耐え通せることでしょう」
フォロガングの抑揚に欠けた声は、ナサカには遠く、そして白々しく響いたことだった。むせるような血と金属の匂いのなか、硫黄の火をたずさえた女のまなざしはあまりに平坦だ。
「ここは神に見棄てられた神の
フォロガングの発言は、成人の祝いと言うよりは、この共同体に少年たちを縛りつけるための罠にちかしかった。言葉にこめられた呪詛に知らず肌が粟立つほど。
弾かれたように顔を上げたナサカは、不意に四肢が重くなり、その場にくずれ落ちた。フォロガングと目が合う。鏡のように自分の表情を映す赤色の、魂を抜かれそうなほど邪悪な。
「ナパタの女には火を降らせましょう。この青い炎はメロエの
ナサカはとっさに何かを言おうとしたが、声が出なかった。
猶予はなく、硫黄の火は容赦なく彼女の上に降りかかった。
■
メコネンは、寝物語が好きな
フォロガングは、ナサカを自分が何者であるか知らない、と言った。ナサカは明白であろうと考えた。自分は悪霊憑きの娘だ。何百に切り刻まれても再び母の腹の中に蘇り、お産で苦しめ、最後にはその命を奪った。ヤセビは彼女の話を語って聞かせるとき、「せめて男であったなら」とつぶやいたことがあった。
男であったなら、死んだナブケニャも浮かばれただろう。永久に失われてしまった女を思い、父は悔しがった。ナサカはうなだれ、小さな声で謝るしかなかった。メコネンからは、ナブケニャが自分と似た白子を欲しがったと聞かされた。やはりナサカは心から申し訳ないと思った。なぜ自分が生まれてきてしまったのか、その理由がわからず、そのことばかりにかかずらってきた。
遠くから、女の声が聞こえた。ささめくような、かすかな歌声。耳になじみ深い旋律に、世話役のナパタの女が歌っているのだろうかとナサカは思った。目を閉じていれば、どこからか太鼓や竪琴の楽の音さえも響いてきそうで、懐かしさで胸がいっぱいになった。しかし目を開くと、自分がいる場所は、竹を編んだ揺り
フォロガングの手で背中を焼かれたあと、彼女とともに荒地を歩いて帰ったところまでは覚えている。そのあとの記憶がなく、歌の聞こえる方向へと視線をやれば、岩の上に座る白い娘の姿があった。
「私の乳母はナパタの女でした」
フォロガングが口にしたその僅かな言葉で、ナサカの心の中で腑に落ちたものがある。
メロエ人が何百年も昔に滅びたはずの神聖王権をひそかに守りつづけていることには、理由がある。いつの日か取り戻すという確固たる目的があるのだ。
《赤き膚の者たち》による侵略で、ナパタとメロエの隷属関係は逆転した。彼らにとってのひずみを正したのが――聖殿なのだ。
フォロガングは手のなかで綿糸を巻き付けた棒を転がしながら、「お前の夢を覗き見していました」と静かな声で続けた。
「お前は肉体を切り刻まれ、もう二度と生まれてこないでほしいと願われながら、またこの世に生まれてきてしまった。ふつう、人は一度の生で終わりなのに、お前は十六回も生まれ直したのです。そして生まれ直すための母を失ったがために、お前はついに生死の循環という閉じた輪のさいごを巡りはじめた。それも、過去生のあらゆる悲しみと呪いを引きずって」
淡々と語りながら、ふと白い瞼を上げる。色の薄い、粉を吹いたようなそばかすがその目元を覆っているのに、ナサカははじめて気が付いた。
フォロガングは小さく息をつくと、「これはあなたにとっては憎らしいメロエの教えですが」囁くように言葉を続ける。
「死後の世界には、赤い湖があるという。その湖を渡った先には、神の国がある。その湖を渡ろうとする者は、人間も獣も、すべて石となる。渡るには、相応の資格が必要です」
背中の灼けるような痛みに耐えながら、その言葉に耳を傾ける。フォロガングの声は、抑揚に欠ける分、ナサカの心をむやみに刺激しない。
「許された者だけが、神の国の一員となることができるのです。この地でより多くの試練を乗り越えた者だけが、赤い湖を渡り、至福の地に至る」
ゆったりとした歩調で近寄ってきて、白い娘はナサカの横にひざまずいた。危なっかしい手つきで上半身を抱き起こすと、その膝上にナサカの頭を載せた。
耳元に唇を寄せ、小さな声で囁きかける。
「お前ほどの業を背負って生まれてきたものを、私は見たことがない」
形のよい頭を撫でる指先は皮が厚く硬く、ゆえに冷たい。
「お前は苦しみを負うために生まれてきたようなもの。巡りの最後を、私に預けなさい。そうすれば、かならずやお前は至福の国を許されるでしょう」
フォロガングの言葉は、ナサカという存在そのものを肯定する響きを帯びていた。ナパタの女としての価値観に順応することのできない心の在りよう、一方で規範を疑い抜けるほどの確固たる自我の欠如を見抜いた上で、甘く囁きかけ、絡めとろうとするものだ。
生まれてきたことを後悔する娘に、生きるための物語を与える。自分の意のままに歩ませるためだけに。
――これは呪いだ、とナサカは思った。
しかし、これ以上ない祝福でもあった。この物語さえ握りしめていれば、ナサカは否定されない。女として足りずとも、ナパタ人として不十分でも――このフォロガングという女が、ナサカの存在を力強く肯定してくれるのだ。
黙って目を閉じる。まなうらに、血の色が映る。
荒涼とした風が吹き、砂埃が渦を巻く音が響いた。
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