(五)

(五)


 意識を失ったナサカは、気が付くと薄暗い巌窟の奥で寝かされていた。むせるような香煙が漂うなか、椰子油の明かりが無数に灯っている。鉛のように重い身体を起こそうとしたところで、四肢の不自由に気付いた。頭をもたげ、何も覆うものないからだを見れば、両手足が黒い。

 硬質な輝きを放つそれをじっと見つめ――ゆっくりと息を飲む。

「お前には、メロエの戦士になってもらいます」

 そのとき、巌窟の入り口から、ひとりの娘が姿を現した。

 白い裸足で砂を踏み、ゆっくりとした歩調でナサカに近づいてきたのは、まさしくあの曠野で出会ったフォロガングであった。

「――戦士?」

 起き上がれない代わりに、ナサカは片目を眇め、問いを発する。

「ここはどこだ? お前は何者だ? 私は……」

 間近からナサカを見下ろして、フォロガングは真顔で答えた。

「ここはメロエの民が暮らす集落」

「奴隷の住処なのか?」

「私たちは奴隷ではありません。しかし、ナパタの民や《赤き膚の者たち》から攻撃を受けることもまた、ありません」

「メロエが自立して暮らしているのか? そんなことがありうるのか?」

 ゆるりと頭を振る。「ここは聖女王カンダケの呪術によって守られた聖域」ほとんど吐息に近い声量で、フォロガングは囁く。

 ――聖女王カンダケ

 思い返せば、出会ったときもその単語を耳にした。自分は聖女王の継承者である、と。

「お前の村に世襲音楽家は訪れませんでしたか。あれはエグジアブヘルの歴史を語るのでしょう。《赤き膚の者たち》が侵略する前、エグジアブヘルはメロエのくにであったと、まさか、知らないとでも?」

 世襲音楽家は、コラと呼ばれる竪琴の楽に乗せて、歴史や様々な土地の系譜を語る旅人だ。ナサカの集落にも、数年に一度訪れた。

 エグジアブヘルは、《赤き膚の者たち》の支配下にあり、その統治の大部分は現地民のナパタ人に委任され、メロエはその配下で管理される奴隷身分だ。毎年季節になると大規模な奴隷狩りが行われ、エグジアブヘルの内外で取引される。だからフォロガングの話を聞いた当初、ナサカは彼女の言う『集落』が、奴隷狩りを逃れた幸運な場所だと思ったのだが――。

(エグジアブヘルがメロエの支配下にあったのは、まさしく、《赤き膚の者たち》がやってくる前のこと……)

 強力な呪術師集団であったメロエが樹立した神聖王権の存在は、たしかに聞いたことがある。その圧政に苦しむナパタ人の語りに重きを置いたものではあったが。

(ならば、聖女王カンダケとは……)

「何百年も昔に滅びた王権の話を?」

「いかにも。神聖王権はいまだ滅びてはいません。この土地は、歴代の聖女王カンダケが編んだ結界によって秘匿されてきました。今は私の叔母現女王の結界によって守られています」

 フォロガングの言うことが本当ならば、この土地は古の神聖王権が今なお影響力を及ぼす場所で、ナパタなどの他の民からは物理的に隠された場所である、ということのようだ。

「ここにふつうの女はいません。神官、戦士の男、呪術師、そして母たち。次代の戦士をつくるために、憎きナパタの女をさらって母体としているのです。お前もそれに選ばれたようだけれども、非力な女の分際で抗ったので男たちの反感を買い、殺される運命でした。他にナパタの女はいくらでもいて、替えがききますからね。――でも、お前は生きのびました」

 ナサカの両手足に視線を落とし、「もう周囲と話はつけました」と彼女はつけ加えた。

「お前は私のもの。生の猶予は十五年。その十五年を、お前は私のために生き、そして死ぬためだけに使いなさい」

 

 フォロガングは「しばらく養生しなさい」と言うと巌窟に長居することなく去り、入れ替わるようにして、別の若い娘がやってきた。片足のけんを切られた娘は不自由そうにナサカの前に現れ、駱駝の乳を飲ませた。

「お前はナパタ人か」

 一見すればメロエ人の女にも見えたが、体に瘢痕がない。予感に駆られたナサカの問いに、娘はうなずいた。

「ここにはどれほどナパタの女がいるんだ」

 指折り数えて、「正確なことはわからない」と彼女は囁く。

「二十人か、三十人か……。よく入れ替わるから、顔を覚えられない」

「みんな誘拐されてきた?」

 そう、と彼女は答える。間を置いて、「妊娠すれば、大事にしてもらえる」とつけ加えた。

「この場所は、何のために? なぜ戦士を育てている?」

「……わからない」

 彼女は頭を振ると、乾いた手のひらで不意にナサカの額に触れた。「赤き膚の女神さまのご加護がありますように」と、ごく小さな声で祈る。


 ■

 

 ナサカが誘拐されたのは、故郷くにの遥か遠く、エグジアブヘルの辺境にある曠野の地だった。戦士の『母』として攫われてきた彼女は、失われた両手足の代替品と引き換えに、戦士そのものになることを要求された。

 初日は苦痛と混乱で、状況を飲み込むことはできなかったが――。

(私はメロエ人に従わないといけないのか? 私を攫い、蹂躙したあの男たちと同じように?)

 熱気に満ちた巌窟のなかで一晩を過ごし、明け方、眠りから覚めたナサカは、巌窟の赤い天井を見上げて考えた。

(そもそも私が手足を失ったのは、連中の暴虐によるものじゃないか……)

 代替品としてフォロガングに与えられた義肢は、まったく動かすことができなかった。ナサカは岩の上に横たえられていたが、四肢が地面と接する感触は当然なく、時折、断端部が熱をもって疼くだけだ。奇妙なことに切断されたことによる痛みはない。

 からだの自由が利かないこと以上にみじめな状況はなく、くわえて男たちに蹂躙された記憶が、絶えず頭のなかで存在感を放っている。いまごろ、集落の家族はどうしているのか。自分が行方不明になったことに気付き、探してくれているのか――希望にすがるよう故郷に思いを馳せたところで、初夜の経験に心がざわつく。もはや自分にとって安全な、安心できる場所はどこにもない気がして、胸が燃え、肺の奥まで焼け爛れて炭になってしまいそうな苦しみに苛まれた。

 岩窟に人の足音が響いたのは、ナサカが眠りから覚めて間もない頃、まだ太陽も昇りきらない時分のことだった。

 特徴的なすり足の音。

 視線を向けた先で、出入り口にかけた一枚の綿布を腕で払って、こちらに歩み寄ろうとする娘の姿があった。フォロガングだ。

 上半身を覆う乳白色のビーズを揺らし、昨日と同じように自分の顔を見下ろせる位置に立った娘を、ナサカは無言で睨みつけた。

「まだ指の一本も動かせない様子ですね」

 フォロガングは表情ひとつ変えず、そう囁いた。

「この手足は、私の支配下にあります。お前が私の支配を受け入れないかぎりは、けっして動くことはありません。つまり、心から服従するということです」

「――服従?」

 ナサカは声を発した。「なぜ?」矢継ぎ早にそう問いかけて、唇を噛む。

「この状況を、私自身が望んだわけじゃない!」

「けれども、お前は私の要求を受け入れたのでしょう」

 フォロガングは息を吸い、「ならば受け入れなければ」と続けた。

「メロエの呪術を施されたならば、どちらにしろあなたはもうナパタ人のなかでは暮らしてはいけないでしょう。事実が露見したならば、排斥される。かといって、他に居場所があるわけでもない。あるいは四肢なきお前を妻として迎え入れる勇敢な男がいるとも思えません」

 フォロガングの下半身は長い綿布に覆われ、白い生地には金色の糸で見事な刺繍が施されている。蛇と太陽を意味する抽象模様は、義肢の刺青とも共通する意匠だ。

 ナパタ人とメロエ人の呪術はまったく異なることを、自身の体験から、ナサカははっきりと認識させられていた。

 ナパタ人における呪術とは、旱魃をはじめとする身の回りのことについて先祖霊や精霊から助言を受け取ること、あるいは病気の治療に役立てるものにすぎない。対するメロエ人の呪術は、災禍を起こす。他者を呪い、生死を操る、異能というべき力。それはメロエ人が持つ特殊な刺繍技術とともに発展し、継承されてきたものだという。かれらが刺繍という手段を好むのは、一針一針縫うことで呪詛に思いを籠めやすいからであり、意味を持つのは呪紋しゆもんと呼ばれる独自の意匠だ。メロエ人の呪術で用いられる呪紋はナパタ人の間では忌まれ、排斥の対象となった。ナサカの義肢の刺青は、詳しい者が見たならば、一目でそれと分かる代物だった。

 一方で、四肢のない状況で暮らすことがどれほど困難かは、フォロガングの指摘するとおり、想像にかたくない。無事にニガツの花嫁となったところで、あの暴力的な男に、どのように扱われるか。

 口ごもるナサカに対し、フォロガングは「ああ」と平坦な声を発した。

「そういえば、お前の名を聞いていなかった」

 思い出したようにそう言ったフォロガングに、ナサカは無言で片目をすがめた。すると彼女は口の端をゆがめると、ゆるりと頭を振る。

「お前は腰布も巻いていなかったと聞きました。まだ初潮さえ迎えていない娘とわかりながら、男たちがお前を弄んだ理由がわかりますか?」

 

 ナサカの世話は、例のナパタ人の女がしてくれるようだった。昨日は比較的饒舌だった彼女も、余計なことを喋るなと叱られたのか、その日は何を聞いても沈黙を貫いた。

 同胞に介助されて与えられる食事は、昨晩と同じ駱駝の乳だけ。高地で育ち、メロエの文化を知らないナサカには、革袋を絞って与えられる濃厚な乳は奇妙な代物だ。頭は動かすことができたので、拒もうとすれば拒めたはずだが、そうしなかった。

 ナパタの女が去ると、ナサカは巌窟に放置された。時折、出入り口の前をメロエの戦士らしき男や、他の女が通り過ぎて行くこともあったが、ナサカの存在に気が付く者はいなかった。自分のいる洞穴が外部から『目隠し』されていると知ったのは、翌日のやはり明け方に、フォロガングがふらりと自分のもとを訪れたときだった。

「あそこに布がかけられているでしょう」

 出入り口にかけられた白い綿布を振り返り、フォロガングは囁いた。

「外からは洞窟の中にいるお前は見えませんし、そもそも洞窟の存在すら言われなければわからなくなってしまうのです。これは簡易的なもので、集落そのものを秘匿する呪いはより強固です。砂の下に呪物を埋めていますから」

 滔々と喋る娘に、ナサカは黒い目をすがめた。「なぜそれを私に喋るんだ? ナパタの民に知らされるとは思わないのか」その言葉に、フォロガングは頭を振る。

「お前は私の支配下にあります。私の意に沿わぬことはしません」

「なぜそう言い切れる?」

「そのときはお前を殺すから」

 小さな声だったが、確信にあふれていた。

 フォロガングはしゃがみ、下半身の布で包んでいたものを取り出そうとした。するところころと丸いものが地面を転がり落ちた。卵だ。砂に受け止められて二人の間に落ちたそれを、フォロガングはなかなか拾えなかった。見当違いの方向に手を伸ばした彼女に、ナサカは違和感を覚えた。幾度となく白い指先が空を切って、やっと卵を掴んだ。

「お前、目が見えないのか?」

 口を突いた疑問に、フォロガングは「いいえ」と首を振る。

「まったく見えないわけではありません。しかし太陽や火の近くは、私にはあまりに眩しすぎる」

 フォロガングが卵の殻を潰すと、指の合間から透明な液体が滴り落ちた。赤く透ける血管や内蔵、嘴といった、まだ雛の形にさだまりきる前のものが薄い皮膜に覆われたまま、白い掌の上に落ちた。

「これを食べなさい。そして、早く歩けるようになりなさい」

 ナサカは黒い目をすがめる。

「――いらない」

「お前は悪霊憑きの女。何度となく生まれ直して、お前の魂はもう二度と生命の循環の輪には戻りたくないと願っている。ゆえに生きることに執心せずにいられない、それがお前の本質。だからこの命みなぎる卵も食べたくてたまらない」

 確信に満ち満ちたフォロガングの言葉に、ナサカは気分を害した。しかし、彼女の指摘は事実だった。

 拉致されて一週間近い時が経過していたが、その間、ナサカは固形物を口にしていなかった。常に空腹だった。しかも目の前にあるのは卵だ。

 ナパタ人においては、卵は男の食べ物だと決められている。父や男兄弟が美味そうに食べるのが羨ましく、幼い頃、おこりに罹った際に一度養母にねだってみた記憶が頭を過ぎる。やはり与えてはもらえなかったが。

 本来奴隷であるはずのメロエ人から、施しを受けるのか。彼らに屈し、迎合するつもりなのか。ナパタ人としての自尊心がナサカに囁きかけたが、卵が魅惑的な存在であるという事実は変わらなかった。彼女がもっと成熟したナパタの女であったなら――あるいは首長ヤセビの勇敢な息子であったなら、拒む意思も持てたかもしれない。

 逡巡した末に、乾いた唇を開いた。フォロガングは黙って卵の中身を口のなかに滑り落とした。舌で受け止めれば、それはまだ温かかった。死にもりの卵ではなく、生きた卵だったのだ。もう間もなくすれば孵化し、親鳥に育てられるはずだった雛なのだ。ナサカは肉の塊を噛みしめた。濡れた羽毛と皮が千切れ、軟らかい骨が砕け、内蔵が破裂して血が溢れる。たまらなく美味いと感じた。父たちはいつもこんなに美味いものを食べていたのかと思った。

 無我夢中で雛を飲み干すと、全身の血潮が沸き立った。息苦しさを覚え、ナサカは懸命に短い呼吸を繋ぐ。目じりと一滴の涙がこぼれ落ちた。

 フォロガングは赤い目を瞬くと、首を傾げ、「お前、もしかしてもうひとつ卵を食べたいのですか?」と呟いた。「ぜいたくな娘」とも。


 それから毎朝、太陽が昇る前にフォロガングは洞窟を訪れ、一体どこから入手してくるのか、かならず新鮮な卵を持参した。そしてとある日、出入り口にかけられた綿布を手で取ると、外の風景を彼女に見せた。

 強い硫黄臭が鼻をついた。暁闇のむこう、視界に広がったのは青々と燃える山だった。

 砂礫に横たわる立つナサカの全身を、熱い風がなぶる。

「ここは遙か彼方にある海よりも標高の低い、酷暑の土地。私や叔母は、火山のふもとで暮らしています。お前はその近くにいるということ。戦士たちやナパタの女どもは、より火山からは離れた場所を居住地としています」

 白い瞼を伏せ、地面を見つめながら、フォロガングは説明した。聖女王とその近親者、彼らに次いでメロエ人で発言力を持つ高位の神官たちがもっとも火山に近い場所に住み、そこに近接して戦士の集落がある。さらに結界の周縁地域には、牛・駱駝とともに暮らすもっとも原始的な遊牧社会が。規模はまちまちだが、数千の人が結界とその境界付近で暮らし、生活圏を異にする集団が互いに行き来してひとつの共同体を築いているという。

 規模としてはナサカの暮らす深恐谷のはるか上を行き、峡谷九つの人口を併せたとしても足りるかどうか。メロエ人のこれほどまでに大きな所帯が、エグジアブヘルのなかで秘匿されているとは――想像を絶する話だった。

「岩塩をエグジアブヘルの外部に売り、生活の糧を得ています。呪術のための綿布や糸なども、そこから。この土地では、綿花の栽培は不能ですから」

 淡々と続けるフォロガングを前に、ナサカは言葉を失った。

 統治者、神官、兵士。そして食糧供給を担う人民をかねそなえたこの場所は――小規模で、たとえどこかで機能不全を起こしていようとも――あきらかにナパタや《赤き膚の者たち》の法の外に存在する、メロエ人のくにに違いなかった。

「なぜ私の命を救い、戦士にしようとしている?」

 乾いた喉から声を絞り出して問う。フォロガングはナサカを一瞥した。

「お前は、お前を育んだ一族の系譜をうたうことができますか」

 質問には答えず、突拍子のないことを言い出す。逡巡し、「父系譜ふけいふであれば」と返した。

「祖先となる女の名を連ねた母系譜ぼけいふを知りませんか。両親の系譜を謡えないということは、お前は自分がどこからやってきたのかを知らないということ。おのれという存在を立証するものが欠けているということです」

 この土地エグジアブヘルに、文字を持つ土着の民族は存在しない。物語や歴史は父母から子へ、子から孫へ、口伝によって受け継がれる。

 系譜もまた、独自の節をつけて歌とともに継承されるものだ。父系譜は父方の男の系譜、母系譜は母方の女の系譜。エグジアブヘルに生まれた者は誰もが両親のそれを聞いて育ち、知らず暗誦できるようになる。ナサカもまた、父系譜であれば容易に歌うことができた。

 しかし母系譜は知らない。実母のナブケニャが異郷の出身者であり、近親者も集落にいなかったため、誰もナサカが継ぐべき歌を教えなかった。

「私はもちろん父母の系譜を謡うことができます。自分が何者であるか、知っているということ。お前が浮世離れした存在なのは、自分が何者であるか知らないから」

「母系譜を謡えずとも、私はここにいる」

「けれどもナサカ、お前は自分がどこから来たのか知らない。だから自己が不安定なのです。私の一族は、白い女を――白い血を求めて連綿と続いてきました。私はその探求の果てに生まれたことで、果たすべき役割を受け入れることができる」

 白い血。

 フォロガングは流暢にナパタの言語ことばを操ったが、その単語は異郷の響きを帯びていた。

「けれども私のもとにいれば、お前は自分が何者か定義することができる。私の支配下にある、義肢を持った戦士として。きっとそれは、お前がみずからの肉体と精神を差し出すはずだった運命よりも魅惑的なもののはず。――お前にとってはね」

 抑揚なく喋る娘の声に、嫌悪感が滲んだ。まるでフォロガング自身が、この状況を心から歓迎していないかのような。

 戦士たちの眸にぎらつく光を思い起こす。メロエ人はナパタ人を憎悪している。

(なぜお前は、私を戦士にしようとする? なぜ私を見殺しにしなかった?)

 二度目の問いは、暁闇のなかに音もなく消える。

 青い光を浴び、フォロガングの肌が透けるように輝いている。彼女は生え揃った睫毛を上げ、焦点のさだまらぬ目でナサカを見つめた。

「お前は誰にも征服されたくない性質たちに見えますね。私の傍にいれば、私以外の誰にも征服されることもありません。あらゆる穢れの血を浴び、傷と痛みを負うことを厭わなければ、私はお前に他のどんな女にもない特権を与えることができます」

「お前は私を騙そうとしているのか?」

 ナサカの問いに、フォロガングは沈黙した。戸惑っている様子だった。

「私はお前を助けようとしている。まぎれもない事実です」

「なぜ私を助ける必要が? お前らは私たちナパタを憎悪しているように見える。ならば、私の命を救うのは仲間に対する裏切り行為じゃないか」

 フォロガングはかぶりを振って、「ああ」と小さな吐息をこぼした。

さかしい娘。私は、お前のような女がだいきらい……」

 うそぶき、フォロガングは言葉を続けた。

「お前を助けたのは、お前にそれだけの価値があるから。十六回も生まれ直すほどの命に対する執念、生への渇望。それは、戦士としてもっとも恵まれた才能。不自由な私の、何よりも自由な手足にふさわしい。私はお前という存在を肯定しているのですよ」

 ナサカはひるんだ。

「それは……私を誘惑しようとしているだけだ」

「いいえ。女であるならば、結婚し、子を産み育て、夫を支える生き方を選ばねばなりません。選ばないということは、女として当然享受すべき権利や賞賛を捨てるということ。女でなくなるということです。当然、男になれるはずもない。多くの者がお前を軽蔑し、あなどり、批難し、呪うでしょう。誰もお前の存在を心から受け入れることはない」

 ナサカは頤を上げ、静かに燃える山を眺めた。義肢の接合部が激しい熱を生む。脂汗が頭頂部を伝い、まばたきに散った。

 フォロガングは、ナサカの抱く疎外感を見透かしていた。

 瞠目すれば、まなうらに青い火の残照がこびりつく。

 頭のなかを、過去の情景がめまぐるしく駆け抜けていった。

 けっしてむごい境遇に置かれてきたわけではない。ナサカは自分の人生を振り返って、そう断言することができた。養母のもとで育てられ、首長ヤセビの保護下では何ひとつ不自由しない。表立って特異な生い立ちを批難されることもなかった。疎外感を抱く原因は、いつだって自分の心にある。

 ナパタの女として生きるために与えられる役割や義務を享受し、こなしてゆくことができないと思った。父の命令で夫となるべき男としとねを共にして、ナサカは自分が損なわれ、傷つけられたと思った。そこに怒りや憎悪を抱いてしまった。この感情を押し殺したままナパタの女として生活を送ることを想像するだけで、絶望に瀕した。なぜそんなことをしなくてはいけないのか、と爪で胸をかきむしりそうになる。それを養母や周囲の女に漏らしたなら、「最初はみんな不安だよ」と教え諭されるだろう。「いつかは慣れて、それが普通になる」とも。縄で縛られ、柱にくくりつけられて奪われるのはあれが最初で最後かもしれない。従順であることを示せば、あの男は意外にも優しいところをみせるかもしれない。

 そうやって自分を納得させようとするたびに、首のまわりに何かがまとわりつく。

 息苦しいという思いで頭がいっぱいになり、どうして苦痛の摩耗する瞬間を待って生きなければならないのかと、叫び出したい衝動に駆られる。

(どうして、ふつうの女になれない)

 ――その疑念にかかずらうあまり、ふつうの女のふりができない。

 ナサカは声を詰まらせた。

「……私は、生まれてこなければよかったと思っている」

 産毛すらも青く透ける娘を見上げ、ぼそぼそと喋りはじめた。

「そうすれば、苦しまなかった。生まれたこと自体が間違いだった。母は私のような子が生まれることを望んでいなかった。けれども、生まれてしまった。ここまで、生きのびてしまった……」

 年を重ねるほどに、ナサカは自分の欠落を自覚してゆく。それでも、不器用なりに生きていくことはできるはずだった。女とて、誰もが同じ心を持つ訳ではない。

 しかしナサカは誘拐され、酷暑の土地にまで連れて来られてしまった。

 凄惨な暴力を浴びたすえに、まったく別の選択肢を得てしまった。

 先のみえない泥河を泳ぐはてに掴んだ流木は、自分をどこへ連れてゆくのか――。

深恐谷みきようこく・首長ヤセビの十番目の娘……ナサカ」

 フォロガングは両目を細め、「ナサカ」と小さな声で復唱した。

「ナサカ。死んだお前の母親の代わりに、私がお前の生を祝福しましょう」

 

 以来、ナサカの手足はぎこちなくだが、機能を取り戻しはじめた。最初は指の一本を動かすのにも、神経をやすりで研がれるような苦痛が伴い、歩こうとして痛みで失神することもあった。しかし、暴虐によって手足を失った状態で生きることのほうがよっぽど許し難いという衝動に突き動かされ、けっして諦めなかった。月日は容赦なく流れてゆく。ナサカが歩けるようになる頃には、彼女が誘拐されてから数カ月が経過しようとしていた。


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