(四)

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 ナサカの意識が浮上したとき、はじめに知覚したのは上下の揺れだった。遅れて、不安定な姿勢のなかで、不自由な両手足を動かそうとして、全身を縄で拘束されていることに気付く。死体のように目の粗い麻袋のなかに詰め込まれた上で、何らかの生物に荷物のようにくくりつけられていることを認識するまで、かなりの時間を要し――理解が及んだ瞬間に、さらなる混乱の渦に落とし込まれた。

 何者かに拉致されたのは間違いなかった。盗賊か、人攫いか。母のような誘拐婚でないことは、足の腱が切断されていることからも明らかだ。故郷やまから、どれほどの距離を移動したのか。いったい、自分はどこへ。

 不安にかかずらうナサカを乗せた生物が、足を止めた。硬い砂を踏む足音が響くと、頭部にかぶせられた袋が取られた。

 苛烈な太陽光が、視界を白く染めた。

 覆面姿の男が、ナサカのくつわを外した。熱い空気を吸い込もうと開いた口に、水袋の吸い口を突っ込まれる。生臭い水を強制的に注ぎこまれながら、ナサカは声を上げようとしたが、すぐ轡を噛まされてしまった。

 再度袋をかぶせられる瞬間、ナサカはその男の腕の皮膚に、無数の小さな突起物があることに気付いた。硬く盛り上がった表皮は蛇の鱗を連想させる。

 あれははんこんではないか、とナサカは考えた。

 瘢痕はナパタ人にはない文化だが、話に聞かされたことがあった。あの野蛮なメロエ人は、かつてはみずからの皮膚を剃刀で裂き、その傷痕で模様をつけからだを飾っていたと。禁じられて久しい風習だ。父の所有する奴隷にさえ、その痕跡を見つけたことはない。

 ナサカを乗せた駱駝が再度歩みはじめる。水を飲まされたということは、現状、最低限の生命線は確保されているようだ。

 人売りが商品の体に傷をつけるとは思えない。盗賊か、あるいは若い娘を必要とする集団か。彼らは本当にメロエ人なのか? ぐるぐると頭のなかで思考を巡らせているうちに、徐々に胃の腑が熱くなりはじめた。水に当たったと気付いたのは吐き気がこらえきれなくなってからだ。不安定な姿勢でいることからの移動の酔いも相まって、彼女は麻袋のなかに数度嘔吐した。吐瀉物を喉に詰まらせ、必死に身をよじらせて吐き出そうとして何度も失敗した。顔を洗うこともできないまま、休憩のたびに少量の水を口にさせられる。覆面姿の男は二人連れで、商人風の格好をしていた。ナサカが何を問いかけても、嘆願しても、答えはない。男同士での会話らしき会話もない。確認できる範囲で何頭かの駱駝を連れている。体感的に気温は徐々に上がっていることから、おそらくは高原のさらに南に向かっていることだけを、おぼろに推測できただけだった。


 乱暴に地面へ投げ出された。全身でその衝動を受け止めたとき、ナサカはほとんど声も発することもできないほどに弱りきり、憔悴していた。

 拉致されてから何日経ったのかも判然としない。二人の男と駱駝によって運ばれた彼女が行きついた先は、乾ききった砂の巌窟だった。砂の吹き溜まりのなかで、ナサカは自分を見下ろす男たちの視線にさらされた。

 獣の硬い鱗を模した、全身の瘢痕――ナパタのように布で身体を覆うことはなく、代わりに身体のあちこちを装飾品で覆っている。

 年代は様々だったが、一様に鍛え抜かれた肉体をしていた。

 メロエ人の男で間違いないようだ。爛々と光るまなざしに憎悪がたぎっていた。

 娘の黒い膚に、誰かの手が触れた。

「――やめて」

 何が起きるのかを漠然とながらも予感する。しかし長旅で衰弱した娘に抵抗する体力はなく、かすれた声を絞り出しただけだった。

「やめてくれ」

 嘆願は届かない。

 指先が砂を掴んだ。もがこうとするナサカの頭を、大きな男の腕が掴んで、引き寄せる。皮脂の強い臭いがした。意識がかき消えそうになるたびに、頭を叩かれ、両手足を引っ張られて揺り動かされた。

 入れ替わり立ち替わり、いろんな男がナサカを蹂躙した。

 朦朧とする意識のなか、ナサカはあの夜と一緒だと思った。

 どんなに悲痛な声を上げ、泣き叫んだとしても、家の者は誰も助けてはくれなかった。ナサカは役割を果たしているだけで、それは当然経験せねばならない通過点で、早いか遅いかくらいの違いしかなかった。

 よくやったね、と言い放った母の顔が脳裏を過ぎった。自分を育て慈しんだ母から放たれた言葉に、あのとき、ナサカは。蜂蜜酒タッジの匂いを思い出す。父は喜んだと聞いた。ニガツもナサカの純潔を確認して満足した。たぶん、だれも悪いことはしていない。それなのに。

 岩窟の隅に放り出されたナサカが、幾度目かの覚醒を迎えたとき、男たちの会話が耳に入った。彼らの言語ことばはほとんど理解できなかったが、いくつか聞き取れる単語もあった。

 母親。

 ナサカを母親にする。

 そのときに芽生えた明確な怒りと嫌悪を、ナサカはきっと一生憶えているだろう。長い間、けっして離すまいと握りしめていた剃刀の破片は、彼女の水仕事で荒れた掌をすっかり切り裂いていた。その拳を開こうと決心したのは、もうどうなってもいい、という強い衝動に突き動かされたからだった。弱弱しく空を切ったかと思った刃は、彼女と交合しようとした男の額に当たった。わずかに傷をつけただけだったが、血が垂れた。陽光がそれを反射して煌めいた。男が動きを止め、周囲が息を飲み、時が永遠に止まったかのように思えた。

 次の瞬間、ナサカは殴り飛ばされていた。あらゆる暴力を与えられた。彼女が意識を繋ぎとめられていたのは、誰かが持ち出した鉈が眼前に突き付けられ、それが右腕を切断するまでのことだった。


 ■


 遠くに、奇妙なものが見えた。

 あれが蜃気楼というものだろうか、とナサカは思う。

 赤い砂でできた異様な樹か。おそるべき妖魔か。

 それが砂漠の蟻塚であることを、彼女はまだ知らない。


 気が付けば、ナサカは四肢を切断された状態で、低木の下に放置されていた。見渡すかぎりの曠野あれのが広がり、照りつける陽射しの苛烈さは故郷の比ではない。なぜ自分が生きているのか――それはきっと、十五回生まれ直すほどの、生命への強い執着によるものなのだろう。

 そして、目の前にはひとりの少女がたたずんでいる。名をフォロガングという。顔つきの美醜を差し置いて、その異様なまでの白さが相手に強烈な印象を与える。一度見たならば、きっと一生忘れない。白子アルビノの娘だ。

 彼女は金糸で刺繍された青い傘を、ナサカに差しかけていた。

「お前には悪霊が憑いていますね。霊界と現世を行き来しては、何度も母親の子宮に戻ろうとする、性質たちの悪い子どもの霊。お前はいったいどれほど自分の母親をお産で苦しめたのですか? 想像するだけでおそろしい、何という親不孝、おそるべき忌み子。しかし、その生死の呪いがゆえに、お前は生き延びることができるのですから、運命とは奇妙なもの……」

 抑揚のない声で語り、フォロガングは透き通る睫毛を伏せた。そして傘を持たないほうの腕を上げたとき、不意に黒い靄がナサカの体内から引きずり出され、周囲に立ち込めた。

 靄は徐々に濃くなり、闇と見まがうほどになると、硬質な音を立てて砕け散った。見れば、黒曜石に似た物質が砂礫の上に落ちている。それはナサカの血に触れるなり、どろりと光を通さぬ液に溶け――四肢の断端に吸い込まれていった。

 途端、視界が弾けた。身体の内側から焼かれるような激しい熱を感じた。それは彼女の血に溶け込み、沸騰しながら心臓を巡り、全身に行きわたってゆく。手足の傷口が黒く染まり、その上から黒曜石の輝きを放つ塊が盛り上がり、徐々に手足を形づくる。その間、絶えず聞こえるものがあった。フォロガングの歌だ。ナサカには理解できない言語の旋律は、村落を訪れては古の歴史を語ってゆく世襲音楽家グリオの歌に似て、より素朴に響く。

「お前は悪霊とひとつになる。お前の手足は悪霊の手足。巡る血は霊界の水。とこしえに生死を循環するお前らを、私の呪いで現世に繋ぎとめる」

 傘の影の下で、フォロガングは無表情に囁いた。

「この呪いは十五年あまりに渡って継続します。私の呪いが弱まれば、お前らはふたたび生死の輪に投げ出される。死ぬということです」

 ナサカの肌よりもなお深い漆黒の手足に、じわりと金色の紋様が浮かび上がった。

 それがまじないの刻印だった。


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