(二)

(二)


 ナサカは椰子の樹の下から空を眺めていた。あちこちの家の炉から上る煙が、青い空に筋を描いている。彼女は集落のはずれにある民居の庭先に立ち、周囲には同じ年頃の――――だいたい、七つくらいの――娘たちの姿があった。彼女たちは鍛冶屋の家の前で列を成し、順番を待っている。呼ばれて家に入った娘が外に出てくることはない。

 家のなかからほとばしる悲鳴に、ナサカは肩を揺らした。聞こえる悲鳴は断続的だったが、けっして無くなることはない。呼ばれた娘たちは例外なく泣き叫ぶ。恐怖心から、ナサカは養母に持たされた剃刀を力強く握った。これから自分の身に何が起きるのか、彼女はほとんど理解していなかった。

 今朝がた、畑に行く代わりに連れて来られたのがこの場所だった。鍛冶屋や土器職人はナパタ人のなかでも賎民に次いで地位が低く、集落では暮らせない。その家の前を通りすがるのも良くないことだと教えられていたから、ナサカは驚いた。メコネンはナサカに剃刀だけを渡し、すぐに畑に消えてしまった。同じように集められたナパタ人の娘たちは皆困惑し、自分ではない誰かが呼ばれて鍛冶屋の家に入るのを黙って見送るほかなかった。何か恐ろしいことが起きるという確信がありながら、親に連れて来られた場所を逃げるわけにはいかなかった。

 メコネンは去り際に、訝しがるナサカの肩を掴んで、「これは大事なことだからね」と静かな声で言い聞かせた。「だから逃げてはいけない」と。母の声はともすれば怒りに打ち震えるそれだった。

 うなじをつたった汗が、背筋のくぼみを流れ落ちてゆく。やがて自分の番が来ると、椰子の樹の長い影から出て、ナサカは裸足で土の上を歩いていった。戸をくぐれば鍛冶屋の妻がいて、他にも数人、顔を布で覆った女の姿がみえる。

 まず剃刀を取り上げられた。

 次に、燃える炉の傍に敷かれたこもの上に横たわるよう指示された。

 竹の繊維を編んだ菰に、仰向けに寝そべる。火は間近にあって、その熱をはっきりと感じ取れるほどだった。

 恐怖心から、いつも欠かさず首に巻く革紐を掴もうとした。その両腕を掴まれ、混乱してもがくナサカの上半身に、女のひとりがまたがった。顔を押さえつけられ、視界を封じられる。よすがを求めて引っかいた菰にはすでに無数の小さな穴が空いていて、今にも散り散りに裂けてしまいそうだった。

 

 生まれ持った花が切り落とされたとき、しらず涙があふれた。肉をこそぎ落とされ、潰されるという経験したことのない痛みが、まぼろしを引き連れてくる。黒く明滅する視界のむこうに、巨大な砂嵐をみつけた。曠野に吹き荒れる嵐のむこう側には人影がある――――メコネンの背だ――朝方、自分を置いていった母の後ろ姿だ。必死になって伸ばした指先は空を切るばかり。不快な音の連なりが延々荒地のなかを響いている。それが自分の悲鳴だと理解するまで、かなりの時間を要した。

 ナサカは考えた。なぜ? どうしてこんなことをするのだろう……。汗ばむ娘の体に寄り添ったのは、馴れ親しんだ冷気だ。そうだろうナサカ、どうしてこんな目に遭わないといけない? こんな苦痛を負って、お前、また死んでしまうよ――。声を上げてナサカはおいおいと泣いた。自分の身に何が起きたのか、まだ明確には理解できていなかった。


 一匹の蠅が頭上を飛び回っている。蒸すような熱気の立ちこめるなか、その翅音はおとによってナサカは目を覚ました。屋内に射す西日に照らされて、透明な翅が虹色の艶を帯びていた。ぼんやりとその軌跡を目で追う。狭い室内、暗い床上に敷かれたむしろの上に、何人もの娘が横たえられていた。一瞬、そのほとんどが死体なのではないかと錯覚するほどに、彼女たちの肉体からは力が抜け、静物のようにそこに在った。むせるような血の匂いを覆うように、周囲には視界がかすむほどの香煙が充満している。

 麻布で覆われた下半身を一瞥する。そこに燃えるような痛みがあった。上半身を起こすことはおろか、腕を動かすことすらできなかった。

 まんじりともせず天井の梁を眺めるうちに、夜が来た。メコネンがやってきて、吸飲みから生温い水を与えながら、彼女は養い子の額を撫でた。

「ナパタの女はこうやって一人前として認められるんだよ。痛いだろうけど、我慢おし。そして、誇りに思わなければ」

 ぼそぼそと喋る母の言葉に対し、ナサカは声を発することさえできなかった。

 硬く握りしめた拳に手のひらを重ねると、母は小さくつぶやく。

「お前はナブケニャの遺したたったひとりの子なんだ。お前はナブケニャに似ている。賢く、意固地で、いつも目の前のことに対する疑念にかかずらっている。そういうのは、およし」

 メコネンの大きな手は温かく、かすかに乳酪の甘い匂いが漂った。

「せっかくヤセビに似たんだ。その美しい肌であれば、きっとどんな男もお前のことを気に入って、優しくするだろうよ。難しいことを考えずとも、つらいことや悲しいことは、いくらでもありふれているのだから……」

 なぜ、とナサカは真っ先に疑問を抱いた。なぜ母は、今この瞬間、痛みに耐える娘に対し、なぐさめの言葉ひとつなく、見当違いの話をするだろう。

 血の繋がらない娘にも分け隔てなく接する母が、急に遠い存在に感じられた。

 けるような熱が足の間にわだかまっている。そこに在ったもの、潰されたものに思いを馳せる。同時に、胸の奥に埋めがたい〝何か〟が空くのがわかった。赤子がはじめて自分以外の存在を意識するように、はっきりと、他者と自分が異なる存在であることを知覚した。

「赤き女神さまのご加護がお前にもありますように」

 ナサカが首に巻いた革紐に触れ、メコネンはそう囁いた。遠い異郷の宗教――それは、神に見棄てられた地とも呼ばれるエグジアブヘルに伝道された〝赤き膚の者たち〟の遺物が、土着の精霊信仰と混合したものだった。

 女神と呼ばれるものの存在を、ナサカはいまだに感じたことがない。

 メコネンが去ったあと、火照る自分のからだに寄り添った冷たいそれが、ナサカに優しく囁きかけた。

 ――どうして怒らない?

 怒る? ナサカは心のなかで呟いた。

 ――お前の魂は怒りに震えているじゃないか。

 どうして? とナサカは再度問いかけた。メコネンは、ナパタの女が一人前になるための義務だと言った。同じ年頃の男の子たちが、儀式を受けたあと、こそこそと性器の傷を見せ合っているのをみかけたことがある、とも。きっとそれと同じことなんだろう、そんな漠然とした予感があった。

 ナサカは鼻をすすった。遠く、弦楽器をかき鳴らす音が聞こえた。自分は知らされていなかったが、今夜は祝いごとがあるようだった。

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