第一部

(一)

(一)


 六年後――北部高原、峡谷九つのナパタ人集落のうちの一つ・深恐谷みきょうこく


 ナサカにとってもっとも古い記憶のひとつは、父の畑にほど近い森のなかを、水甕を担ぎながら歩いているときのものだ。谷を下った先にある川から、異母兄弟たちと一緒に水を汲んだ帰り道のことだ。きょうだいの姿ははるか彼方に消え、間歇熱マラリアから命からがら生還したばかりの、まだ体力の回復しきっていない娘には、到底追いつけない距離が開いていた。

 足もとの泥を覆う苔は夜露にしっとりと潤み、少女のかかとを優しく受けとめる。水甕の重さに耐えかねたナサカはそれを担ぎ直そうと足を止めた。ちょうど火焔木の根元で、頭上をみれば重なり合う樹葉とともに、鮮烈な赤色をした花が鈴なりに咲いている。風がそれを震わせると、釣鐘のかたちをした花びらの内側からぱらぱらと水が滴り落ちた。水滴は彼女の黒褐色の肌の上にすべり落ち、細い手足に刻まれた無数の溝を伝った。引っ掻き傷にも似たそれは、本来はなめらかであろう皮膚を跡形もなくしてしまうほどに両手足を覆っていた。

 小さな頭にしっかりと水甕を固定しなおし、ナサカはふたたび歩き出そうとした。その矢先、足もとで蠢く影を見つけた。

 蛇だ。黒い鱗に覆われた複数匹の蛇が、草叢のなかで睦み合っている。絡みもつれあい、かすかに金属質の音を立ててたがいの表皮をずるずると擦る細長い獣。わけもわからず、しかし吸い寄せられるように見つめた。どれほど時間が経ったのか――どこからか火のついたように泣き喚く赤子の声に気付くと弾かれたようにおとがいを上げ、その場から駈け出した。

 赤子の声は途中でまったく聞こえなくなってしまった。代わりに煙の気配があった。必死になって獣道を突き進んだ娘が目にしたのは、森林の開けた場所で燃えさかる蟻塚だった。

「お前はまた他の子とはぐれてしまったのかい」

 蟻塚の前に立ち尽くす女がひとり。ナサカの養母であるメコネンだった。こんもりと盛り上がった土の山からは黒い煙がもうもうと沸き起こり、ナサカは足もとで逃げまどう無数の小蟻を見て、それ以上彼女に近寄ろうと思わなかった。

 メコネンは蟻塚の一点を凝視しながら、「アベバが子を産んだのを知っているだろう」と囁きかけた。

「だけどみんな話題にしないだろう。双子だったんだ」

 アベバとは、ナサカの父の第三妻の名だった。メコネンが第一妻、ナサカの産みの母が第二妻だったが、死んで久しい。父ヤセビの所有する妻のなかでもっとも若いその娘は肥立ちが悪く、子を産んで以来臥せってばかりだと聞く。

 数日前に生まれた子の泣き声を、ナサカも耳にした。きっと珠のように愛らしいであろう双子がいったいどうしたのかと目をしばたく娘に対し、メコネンは頭を振る。

「双子は悪魔の子なんだよ」

 ナパタの女らしい長身を持つメコネンは、昔は村落一の美女と謳われたとも聞く。夫であるヤセビに対しても物怖じせず、時に忌憚のない発言をするひとで、その彼女が暗い表情をするのはめずらしい。

 しかしそれ以上のことをメコネンは語らず、土に汚れた手をはたくと、「そういえば」と声色を明るく変えて喋った。

「お前ももう産まれて六年だ。このあいだ熱病に罹ったときはどうなることかと思ったけど、ヤセビが懸命に看病した甲斐があって、すっかり元気になったね。やはりどんな病弱な子も、六年生きればその先も生きのびるという話は本当なんだ」

 首長の何人目かの娘であるナサカは、実の母が死者の町に行ってしまったため、現在は第一妻であるメコネンのもとで養育されていた。ナサカに同腹から生まれたきょうだいはおらず、母の命と引き換えに生まれた、唯ひとりの子であった。

 ナサカは同じ母から十六回生まれた。十五回の死産と夭折を繰り返し、十六回目の今、はじめて六歳まで生きのびた。ナサカには生まれる前から――はじめて母の子宮に宿ったときから――悪霊に憑かれている。悪霊は母親の子宮を好み、何度でもその場所に帰ろうとする習性をもつ。その母を失ったことで、ナサカははじめて生きのびることができたのだ。

「あとは継体けいたい石さえ見つかれば。なあお前、ほんとうに心当たりはないのかい?」

 メコネンの問いに、ナサカは首を振った。わからない、とちいさな声で続けて。

 悪霊は執念深いいきものだとされる。ナサカはいまだに悪霊とともに暮らしていて、いつ死の運命に引きずり戻されるかもわからない。悪霊との縁を断つには、この世のどこかに悪霊が隠したという霊界と現世を繋ぐ石を見つける必要があったが、その場所は悪霊と悪霊憑きの子以外の誰も知らないとされていた。


 ヤセビの暮らす主屋とは別に、彼の妻たちはそれぞれ別の離れを与えられている。異母兄弟たちとともに離れの寝室で眠っていたナサカは、あるときふと目を覚ました。耳に人の声が届いたからだった。

 子宮にいた頃からナサカと暮らす、悪霊のぼそぼそとした囁き声。乾いたマットの上で身を丸める娘の背に、冷たいものが寄り添う。

 しかし両手の拳を握りしめ、息を詰めた理由は、慣れ親しんだ悪霊の存在を感じ取ったからではない。隣の部屋から、言い争う男女の声が聞こえたからだ。メコネンとヤセビの声であることはすぐに察せられ、不意に今朝方の養母ははの横顔が脳裏を過ぎった。

 何か尋常でないことが起きていると直感する。ナサカはほとんど何も考えずに寝室を飛び出す。竹の繊維を編んだ薄い仕切りを隔てたその向こう、蟻塚の土を敷いた炉の灯りが見える。手を上げる父の姿に、矢も楯もたまらずメコネンに駆け寄った。母の厚みのある腰にしがみついて、ナサカは叫んだ。

「ナサカ!」

 メコネンの声。次の瞬間、ナサカは突き飛ばされていた。わけもわからず身を起こした彼女の視界に、母がしたたかに殴られるのが映る。よろめき、うつ伏せに倒れ込んだ女を踏み越え、ヤセビが身動きのできない娘の腕を掴もうとした。

「自分の子も殺せない臆病者が!」

 そのとき、メコネンの喉から、引き絞られるようにしてその声は飛び出した。

 水を打ったような静寂が広がる。「何だと」ヤセビは低くかすれた声で呻った。

「俺のことを臆病者と言ったか。誰が、どの口で!」

 ずいぶん後になってから知ったことだったが、その日、メコネンはアベバの生きた双子を捨ててこいとヤセビに命令されていたのだった。そして彼女は夫に従い、ナパタの伝統に則って芭蕉エンセーテの葉に双子をくるみ、火をつけた蟻塚で蒸し焼きにして殺した。

 もっとも若く美しい第三妻の体調が優れず、ヤセビは自分の『役割』を果たすため、連日メコネンのもとに通っているところだった。しかしその夜のメコネンは夫を拒もうとした。夫に絶対服従しなければならないナパタの女にとっては、最大限の抵抗だった。

 自分をかばうように身を起こした養母を見上げ、ナサカは黒々とした目を見開く。女の正面で枝むちを振りかぶる父の姿が見え、次の瞬間、乾いた皮膚に打ちつける枝の音が周囲に反響した。

 もだえ苦しむメコネンの姿に、ナサカは意気地をなくした。母の背に血の珠が浮かび上がり、炎に照らされてぬらりと輝くと、いくつもの筋となって黒い膚の上を流れ落ちる。足首を持って引きずり回される女の絶叫が聞こえるやいなや、その場から逃げ出してしまった。

 離れの外に向かえば、明るい月が庭を照らしていた。草叢の上でうずくまったナサカは、両手で自分の顔面を揉むと、やがて小さな嗚咽を漏らした。自分があの場に飛び出さなければ、母はあそこまで反抗的な発言をしなかったに違いない――そう理解しつつある聡い娘をなだめようと、誰かが声を発した。

〝可哀想に〟

 幼い子どもの声。振り返れば、夜闇に黒い煙が渦を巻いていた。

 煙はするりと動いて、膝を抱える娘に抱きつく。ひんやりと冷たい感触がほてった肌を撫でさすり、可哀想に、ともう一度くり返した。

「メコネンがかわいそう」

 ナサカは小さな声で返した。黒い睫毛が涙を弾く。悪霊はしがみつくように彼女の胴体に巻き付くと、そう、気の毒な女だ、と返した。

「アベバの赤ちゃんはどこにいっちゃったの?」

 メコネンが蟻塚で燃やしたんだよ、と悪霊は答えた。

〝死人は蟻塚に葬られるのを知っているだろうう〟

 するりと上半身を這いのぼるとナサカの耳にそう囁き入れ、やはり小さな声で、悲しい出来事だ、とつぶやいた。

 いつからかナサカの前に姿を現すようになった彼は、幼い娘の心に寄り添うことに長けていた。ナパタの女として生きるならば、自覚してはならない、知らず暗渠のなかにしまっておかねばならないものまで、たやすく引きずり出してしまうのだ。

 お前は、と悪霊が囁いた。「お前は?」おうむ返しにしたところで、悪霊はかき消え、また見えない存在に戻ってしまった。


 翌朝、炉で麺麭めんぽうを焼くメコネンの傍に寄ると、ナサカはすかさず頬を叩かれた。それから我に返ったように、母は義理の娘の体を抱きしめた。

 ヤセビの暮らす主屋に食事を運んでゆくメコネンを見送り、他のきょうだいたちと一緒になって麺麭をかじった。粉に挽いた玉蜀黍とうもろこしを発酵させてから薄い生地にして焼いたもので、すり潰した豆と一緒に食べる。食欲がなくナサカはしばらく麺麭の生地に浮いた気泡を眺めていたが、きょうだいたちに急かされるがまま口に詰め込んだ。朝の食事が終われば、男は男の畑に、女は女の畑に行き、子供はその手伝いをしなければいけないと決まっていた。

 その頃は主要作物である玉蜀黍の収穫を間近に控えた頃で、集落全体に緊張感が漂っていた。他のきょうだいたちと家屋を出たところで、金属の鐘をいて回る触れ役の姿が目に入る。彼の告げた内容はこうだ。

 メロエ人の奴隷が逃げ出した、と。

 エグジアブヘルは八つの土地に分割され、それぞれが副王と呼ばれる〝赤き膚の者たち〟によって統治されている。赤き膚の者たちは、ごく僅かな数しかエグジアブヘルに居住していない――遠い海のむこうからやってきた彼らのほとんどは、この土地の水と空気に順応できないからだという。ゆえに副王は領地をさらに細分化した上で、土着のナパタ人を首長チーフに任命して複数の集落を管理させた。首長は副王から与えられた土地と開墾した土地の双方を所有できるが、前者には決まった数の奴隷が割り当てられる。この奴隷と首長の間には、強制労働契約が成立し、生涯に渡って――また複数の世代に跨がって――未来永劫解消されることがない。この奴隷によってヤセビは広大な氾濫原に農園を築き、貢納を受け取っていた。この奴隷こそがメロエ人であり、エグジアブヘルの旧支配者たちだった。

 当時のナサカにとって、彼らの存在は意識の外にあるものだった。奴隷たちはナパタ人の集落外で暮らし、男たちによって管理されていた。彼らの作物を口にすることはあれども、自分の父がどれほどの数の奴隷を所有しているのか、どんなふうな容姿をしているのかさえ、まだ幼い彼女の目には映らないものだった。

 その後広場に集まった男たちで合議の場がもたれた。逃げた奴隷は数人という話だったが、野放しにはせず、すぐに山の捜索が始まった。ナサカが畑で採った芋をきょうだいたちとともに持ち帰り、それを納屋に仕舞う作業を終えるころには、広場には捕まえられた脱走者がすべて集められていた。

 日没を間近に控え、村の中心で焚かれた炎は勢いよく燃え盛って、空は怖いくらいの赤色に染まっていた。集まったひとの隙間を縫って、輪の最前列に飛び出したナサカは、篝火の前に立たされた男女をものめずらしげに眺めた。一様にはだが黒く、母やきょうだいたちが時おり語るほど小柄には見えず、しかし全員痩せこけ、眼球だけが白く爛々と輝いている。

「メロエ人に見つめられてはいけないよ、お前。体を悪くしてしまうからね」

 背後から伸びた村人の手がナサカの両目を覆う。その指の隙間から、ナサカは奴隷の姿を見つめつづけた。これから何が起こるのかと不思議に思った矢先、首にひんやりと冷たいものが巻きついた。黒い靄が囁く。みせしめだよ、と。

 悪霊の言葉を裏付けるように、鉈を携えたヤセビが篝火の背後から歩いているのが見え、ナサカは「あ」と小さな声を漏らした。

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