聖なるもの

黒田八束

序幕

 木陰から病葉を眺めていた。黒く炭化した梢にわずか一枚だけ残り、黄色く透ける葉脈を太陽光がくしけずる。それは時折気まぐれに吹く熱風になぶられては頼りなさげに揺れた。極端に海抜の低い灼熱の地に生物の気配はなく、無音だけが広がっていた。

 地面に敷かれた砂礫がいくら潤いを欲しようとも、その極度の乾燥のために、ナサカからあふれる血を吸うものはない。背中の下にわだかまる血は四方へと広がりつづけ、いつか巨大な湖にさえなるかもしれないという途方もない夢想を抱かせた。しかしいまや彼女の命とは、不可逆的に落ちゆく砂時計のそれと同然だった。四肢をもぎとられ、砂漠の片隅に放り捨てられた女がかろうじて意識を保ち、息をしているのは、彼女が母親の産道を十五回くぐり、十五回の死を経験し、それでもなおまた母親の胎内に宿り、この世に生まれ落ちてきたという、飽くなき生命への執着のために過ぎなかった。

 旱天のもと、空は抜けるように青く、宙には無音の砂埃が舞う。陽の光は徐々に耐えられないほどにまぶしく感じられ、ついに目を閉じようとしたナサカの顔に、ふと影が差した。夜が訪れたわけでも、空が曇ったわけでもなかった。忽然と現れ、金糸の傘を差し出した娘がいたからだ。

「お前を助けてやりましょうか」

 傘の持ち主は白子の娘だった。見上げた先の葉脈だけが残された病葉に重なって、紫がかった赤色の眸が青い空を背に見えた。彼女の視線はきよらかな光を帯び、これまで誰にも言葉を妨げられたことがないというふうに、ひどく落ち着いた口調で喋ってみせた。

「それともここで死ぬことを望みますか」

 砂礫の上に広がる血を裸足で踏みしめ、傘の下で喘ぐ自分を凝視する娘に対し、ナサカは言葉の代わりに黙ってまばたきをした。

 白い娘はうなずいた。

「それならば、お前は私の手足となりなさい。私の名はフォロガング。メロエ人の――聖女王カンダケとなるもの」

 微笑さえ浮かばないその表情にナサカはおそれを抱いた。



 エグジアブヘルとは神のくにであり、東西を巨大な地溝帯によって分断された土地である。地溝にまたがって北に急峻が連なる高原や氾濫原が、南には乾燥した砂漠や曠野が形成される。古来複数の部族が居住し、無頭制社会を中心に生活を営んだ。岩塩交易によって繁栄した最古の民族・メロエによって南部に樹立された神聖王権が数百年に渡り勢力を誇ったが、〝赤き膚の者たち〟と呼ばれるエグジアブヘルの外部から侵入した異民族によって打ち倒された。赤き膚の者たちは途方のない涯の地からやってきたと伝えられる、不老不死の者たちであった。かれらはエグジアブヘルを地溝帯に沿って複数に分割すると、各地に副王だけを残し、去っていった。統治の大部分はメロエ人でない現地民に委ねられた――選ばれたのは北部高原に定住し、農耕を営んだナパタ人だった。

 ナパタ人は、もとを辿ればメロエ人と同じ母系集団を祖先に持つ者たちと伝えられる。神聖王権が勃興する以前、異能を持つ世襲制の神官組織を中心とする階梯身分から複数の氏族が分離し、新天地を求めて長い時をかけ、南から北に大移動した。そこでナパタを自称したのがはじまりである。彼らはメロエの神聖王権に反発し、戦乱ののち、奴隷としてエグジアブヘルの内外で取引され、メロエ人の王権に富をもたらした。

 しかし侵略によってメロエ人とナパタ人の地位は逆転する。以降四百年間の長きに渡り、わずかな数の赤き膚の者たち、そして大多数のナパタ人によって支配されたエグジアブヘルにおいて、メロエ人は度重なる迫害を経験するようになる。



 視界の端で煌めくものがあり、よく見ればそれは朝露に濡れた蝗の翅だった。鬱蒼と茂る叢のなか、赤みを帯びたからだをした昆虫が無数に潜んでいる。

 一呼吸の間に、強風に煽られたそれらは空を覆い尽くすまでになった。

 真昼のはずが周囲は薄暗くなり、それまで火焔木のつぼみを水鉄砲にして遊んでいた第一妻の子どもたちが、歓声とともに庭に散らばった。細い腕を伸ばして無我夢中で掴み取った虫をかごのなかに集める。風のなかを懸命にもがく蝗が、前脚や翅を折られながら四方に砕け散る瞬間を、ナブケニャは竜舌蘭の樹の下から眺めていた。

 暴風のなかで重なりもつれあう無数の翅音。視線を足もとに下ろせば、地を這う何十匹もの蝗にまぎれて、その死骸が複数転がっていた。身を屈め、腕を伸ばしかけたところで、ナブケニャは右腕に抱えたものの重みを思い出した。

 何故いまこの瞬間、たったひとときでも、その存在を忘れることができたのかとナブケニャは思った。瞬きのうちに、馴れ親しんだ納屋と飛び回る蝗のすがたが消え、冴え冴えと冷たい風が頬を打った。彼女の指先は硬く剃刀をにぎりしめ、氾濫原の鏡のような水面を覗き込んでいた。

 水面が太陽光を反射してひどくまぶしく感じられた。彼女は泥濘の上に屈み込み、そっと両腕を伸ばしていた。水溜まりの上に置いた芭蕉エンセーテの葉にむかって。

 背後には、夫と氾濫原の畔に住む呪術師がたたずんでいる。

 ――ナブケニャが十度目の死産を経験したのは、乾季の終わりのことだった。

 彼女の妊娠がわかったのは小雨季の終わり、畑に植え付けたばかりの種芋が嵐によって粗方流されてしまった年のことだった。

 彼女は谷間に暮らすナパタ人の複数ある集落のうちのひとつ、そこの首長の息子・ヤセビの第二妻で、それが十五回目の妊娠だった。ヤセビと第一妻の間には十二人の息子と娘が、めとられたばかりの若い第三妻のもとには、つい先日珠のように可愛らしい男の子が産まれた。けれどもナブケニャはいずれも死産か、無事に生まれたとしても、六歳までに全員がおこりで逝ってしまい、育てるべき子がなかった。

 妊娠がわかってから暫くして、蝗が空を暗く埋め尽くした日の朝に、夫によく似た漆黒の肌の子が産まれてきたが、やはり息をしていなかった。ヤセビは数日経って、産後間もないナブケニャを驢馬に乗せると、谷間を流れる細い川を下った先の洞穴に住む呪術師を尋ねた。

 呪術師は彼女と、芭蕉の葉に包まれた赤子の遺体を見て、その子には悪霊が憑いている、と告げたのだった。

「その子を供養してはいけない。その悪霊は母親のお腹を恋しがっていて、何度もこちらの世界と行き来しようとする。もう二度と同じ子宮に戻ろうとしないように、その子を切り刻み、川に捨てなさい」

 時間をかけて呪術師のことばを飲み込み、ナブケニャは声を震わせた。

「悪霊であろうとも、我が子には変わりがない。なぜ埋葬することさえできないのか」

 ナパタの女にとって、幼少期にほどこされるしるしのために、性行為や出産は多大な苦痛と困難を伴うものだ。その一方で、子を産み育てる以外の生活は、彼女たちには受け入れがたい発想だ。わが子は何にも代えがたい宝なのだ。

「その悪霊は供物を持って霊界に帰る。子が死ねば死ぬほど、お前たちは次の子を願い、盛大に供物をささげるだろう。それがいけないのだ。悪霊を断つためには、ここに戻ってきたことを後悔するほど、無惨な目に遭わせなければ」

 ナブケニャは手渡された剃刀を握りしめる。何としても自分の血を継ぐ子を産み、立派に育てなければならないという宿業が彼女を決意させる。

 ヤセビの助力を断り、つい先日まで自分のからだの一部であった子を、湿地の泥の上に横たえた。乾いた芭蕉の葉に水が滲みこむ。太陽光のもとで、乳酪を擦り込んだかのように、子の黒い肌が青く艶めく。きつく編み込んだ髪の隙間を伝った汗が額を流れ、白い睫毛が弾く。しかしまばたきもせず、ナブケニャは剃刀をふりかざした。


 ふたたび小雨季が来るころ、ナブケニャは十六回目の妊娠をした。月日を経て、彼女は女の子を出産した。

 母親の命と引き換えに生まれた子はナサカと名付けられた。父親に似た美しい漆黒の肌をしていたが、生まれながらにして両手足に夥しい傷痕があった。

 ナサカは悪霊憑きの娘であった。

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