第23話 ピエット子爵令嬢エミリア
こんなはずではなかった。
ピエット子爵令嬢のエミリアは、周囲の声を拒絶するように耳を塞いで、目を閉じていた。
ここは王城内にある客間のひとつのようだが、部屋の前には警備兵がいて、エミリアを見張っている。
隣の部屋からはニースの怒鳴り声が聞こえてきて、先ほどのことを思い出してびくりと身体が震えた。
ニースに殴られた頬が、じくじくと痛む。きっと赤く腫れあがっていることだろう。
(どうしてこんなことになったの? わたしはただあの女の悔しそうな顔が見られたら、それでよかったのに……)
エミリアの生家であるピエット子爵家は、あまり裕福な貴族ではなかった。
そんな家に、エミリアはいつも不満を抱えていた。
もっと綺麗なドレスが欲しい。
誰もが羨ましがるような宝石が欲しい。
贅沢がしたい。
けれどエミリアの家にそんな余裕はない。それどころか、家を継ぐ長男以外は、どうにか自分で生きていく術を探さなくてはならなかった。
次兄は、早々に騎士団に入団していた。
一応、子爵家出身の貴族なので、実戦に出るような騎士団ではなく、王都の警備などを担う騎士団に入れたようだ。入団が決まるとすぐに家を出て騎士団の寮に入った次兄とは、ここ数年顔を合わせていない。
二歳年上の姉は、王城で開催された夜会で知り合った男爵家の嫡男と、一年前に結婚していた。向こうの男爵家もあまり裕福ではなく、生活は今までと同じように苦しいようだ。
それでも生きていく場所が見つかったと、姉は安堵していた。
嫡男の妻になったからには、姉も男爵夫人だ。
(男爵夫人だなんてつまらないわ。それに、うちと同じくらいの貧乏な貴族だなんて)
姉は喜んでいたが、エミリアはそんな姉の選択が不満だった。
もっと上位貴族に見初められたい。
すべての貴族の子息、令嬢が通う学園は、結婚相手を探すには便利だった。
姉と似たような考えの下位貴族はたくさんいて、皆、同じような階級で婚約者を見つけていた。
でもエミリアは、姉のような結婚はしたくない。
どうせならもっと爵位の高い、貧乏ではない貴族がいい。
そんなときに出逢ったのが、ディード侯爵家の次男であるニースだった。
ニースの家は侯爵家だが、あまり裕福ではない。
それだけなら、彼に近寄るつもりはなかった。
しかし彼の婚約者であるミラベルの父は、あのドリータ伯爵だ。
ドリータ伯爵家は領地に大きな港があり、さらに宝石が採れる鉱山も所有している。爵位は伯爵家だが、公爵家に勝るとも劣らない資産を持っているらしい。
そのミラベルのことを、学園で同じクラスになったときからずっと、エミリアは妬んでいた。
まるで裕福であることを見せびらかすように、夜会ではいつも綺麗なドレスを着ている。
たとえ着飾らなくとも華やかな美貌も、羨ましくて仕方がない。
だから、婚約者を奪ってやろうと思ってニースに近寄ったのだ。
ニースもミラベルとは政略結婚で、互いに愛情を抱いているわけではないと言っていた。
彼の好みになるように、おとなしく控えめな女性を演じた。
それでも、愛の言葉は情熱的に。
だがニースは、ミラベルとの婚約を解消するつもりはない様子だった。
彼女と結婚すれば、あのドリータ伯爵家を継げるのだから、それも無理はない。
だからせめて、あの女の評判を落としてやりたかった。
真実の愛で結ばれたふたりを引き裂き、虐げる悪女。
裕福なドリータ伯爵を妬んでいる者も多いので、噂は瞬く間に広がるだろう。
上手くいけば、ニースの愛人になって贅沢に暮らせるかもしれない。
ミラベルは形だけの妻で、ニースが本当に愛しているのは自分なのだ。
そう思うと、常に彼女に感じていた劣等感から解放されたかのような高揚感を覚えた。
これですべてが、うまくいくはずだったのに。
まさかミラベルが、失踪してしまうほどニースを愛しているとは思わなかった。
庭園でニースと抱き合っていたとき、ミラベルが見ていたことには気が付いていた。
どんなに裕福でも美しくても、彼女の婚約者が愛しているのはエミリアなのだ。
そう思って、わざと見せつけるように愛を囁いた。
けれど彼女は、そのまま姿を消してしまった。
婚約者がいながら、エミリアを抱きしめていたニースのために。
(こんなことになるなんて、思わなかった……)
好きだった恋愛小説のように、悲恋のヒロインを演じていた。
ミラベルは悪役令嬢で、ニースに愛されている自分に嫉妬して、つらく当たる役だと思い込んでいた。
それなのに、ミラベルと親しい王太子の婚約者が出てきて、友人に出したという彼女の置き手紙をニースに付きつけたときから、立場が逆転していた。
ミラベルこそが悲恋のヒロインで、いつのまにかエミリアは、そんな彼女の前に立ちふさがる悪役令嬢の役になっていた。
(そんなこと、あり得ない。私はヒロインになりたかったのに……)
さらに王太子の婚約者、ソレーヌの兄であるリオに目を付けられてしまった。
彼は冷酷で恐ろしく、敵を排除するためには手段は選ばないと言われている。間近で見たリオは、冷たく研ぎ澄まされた氷のような瞳をしていた。
水を被ったときのように、背筋がぞわりとしたことを覚えている。
彼は、けっして関わってはいけない男だ。
もうニースは諦めて、早めに撤退したほうがいい。
そう思って逃げ出そうとしたのに、逆上したニースに殴られ、さらに王城で騒ぎを起こしたとして、警備兵に連行されてしまった。
このままお咎めなく、返してもらえるとは思わない。
隣の部屋にいるニースは、まだ暴れているようだ。
エミリアは咄嗟に、ニースに殴られた頬に手を添えた。
殴られたときは、意識が遠ざかるほど痛かったが、エミリアが殴られたことは、会場中の人間が見ていたはずだ。すべてをニースの責任にして、彼に脅されていたことにすれば、何とか切り抜けられるかもしれない。
足音が近づいてきた。
今度はエミリアの取り調べをするつもりかもしれない。
エミリアは部屋の隅に座り、怯えたか弱い令嬢を演じる。
今度は失敗するわけにはいかなかった。
けれどエミリアの命運は、婚約者のいる男性に近付いたときから尽きていたのだろう。
失踪していたミラベルが、事故に巻き込まれて亡くなってしまったらしい。
ニースもまた、ディード侯爵家を追い出され、身分もはく奪されてしまった。
こんな騒ぎを起こしたエミリアを、家族は修道院に送ることにしたようだ。
しかも貴族の女性のためのものではなく、寂れた地方にある修道院である。
きっとここで、一生を終えるのだろう。
エミリアは狭くて暗い自分の部屋で、こんなはずではなかったのに、ともう一度小さく呟いた。
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