第22話 ディード侯爵家次男ニース

 ニースが、ドリータ伯爵家の娘ミラベルと婚約したのは、十歳のときだ。

 兄は同じ侯爵家の令嬢と婚約し、姉は、第二王子クレートの婚約者候補である。

 それなのになぜ、伯爵家の令嬢と結婚しなければならないのか。

 子どもながらに、自分が軽視されているようで、嫌だった。

 そんなニースに、姉のリエッタは笑いながら言った。

「貴族の次男なんてそんなものよ。ニースには、その程度の価値しかないのよ」

 二歳年上の姉は、第二王子のクレートに気に入られ、もしかしたら婚約者に選ばれるかもしれない。

 そのため、家では嫡男である兄よりも大切にされていた。

 だからか、姉は一番年下のニースを馬鹿にするような発言をすることがある。

「いいじゃない。ドリータ伯爵家は成金だけれど、裕福よ。婿入りすれば、あなたの将来も安泰なんだから」

 そう言って、姉はくすくすと笑う。

(まだ婚約者に選ばれたわけでもないくせに)

 その度に、そう言いたくなる。

 だがそんなことを口にすれば、姉だけではなく両親からもきつく叱られることはわかっていた。

 ニースは何も言えずに姉のもとから去り、そのまま父親に訴えた。

「伯爵家の娘との婚約なんて嫌です。こんな婚約、断ってください」

「……何を言っている」

 父は苦い顔をして、ニースを見た。

「これはもう決定していることだ。拒否することは許さない」

「でも、どうして僕だけ」

 せめて、同じ侯爵家から選んでほしい。

 まだ政治的な情勢などわからないニースにとっては、爵位がすべてだった。

 自分だけ、爵位が下の令嬢と婚約するのが嫌でたまらなかった。

 だが父は、ニースの訴えを退けた。

 姉が嫌だと言えば、すぐに聞いてやるくせに、ニースの訴えはことごとく拒否された。

 そんなこともあって、ニースは顔合わせをする前から、婚約者になるドリータ伯爵家のミラベルを嫌っていた。

 実際に会ってみれば、ミラベルは綺麗な黒髪の美少女だった。

 大人びた顔立ちに、しぐさも洗練されていて、我儘放題の姉よりも上品に見えたくらいだ。

 けれど姉の言っていた、成金の伯爵家という言葉が頭から離れなかった。

 だからニースは、この婚約が不満だと言って、彼女を罵倒した。

 顔を合わせたばかりの婚約者からの暴言に、ミラベルも泣きもせず、むしろ呆れたような表情でこちらを見つめていた。

(何だ、その顔は……)

 侯爵家の自分に拒絶されたら、伯爵家のミラベルは泣いて縋るはずだと思っていた。

 それどころか父に、ミラベルに謝罪しなければ家から追い出すと叱られ、ニースの方が謝ることになってしまった。

 伯爵家の娘に頭を下げるのは、かなりの屈辱だった。

 そんなこともあり、婚約は継続されたが、冷めきった関係が続いた。

 交流も贈り物も最低限に留めたが、ミラベルがそれに不満を言ったことはない。

 むしろニースに、関心がないように思える。

 学園に入学しても、他の生徒たちのように婚約者と一緒に登下校することも、昼食を一緒に食べることもない。

(もし誘ってきたら、断ってやる)

 そう思っていたのに、ミラベルはニースに声すらかけようとしなかった。

 この頃にはニースにも、十二歳の頃から婚約者候補だった姉が、どうしてまだ正式に選ばれないのか。

 兄の婚約が途中で解消され、他の令嬢と婚約したのはなぜなのか、理解できるようになっていた。

 ディード侯爵家は経済的に困窮していて、そのためには裕福なドリータ伯爵家との縁談がどうしても必要だったのだ。

 兄の最初の婚約者は、ディード侯爵家が困窮していることを理由に、向こうから解消を求めてきたようだ。当然のように兄は荒れて、一時期はその令嬢の悪口ばかり言っていた。

 そんなこともあり、父にとっても姉にとっても、ニースの婚約はかなり重要なものである。

 それなのに自分を馬鹿にした姉や、理由も説明せずに命令だけを告げた父への反発で、ニースはますますミラベルを無視するようになっていく。

 エミリアと知り合い、彼女との恋愛にのめり込んだのも、姉や父にとって重要な婚約を軽視する自分に、酔っていたのかもしれない。

 しかもミラベルもまた、ニースへの当てつけのように、ディード侯爵家の政敵であるサザーリア公爵家のソレーヌと親しくしていた。

 ソレーヌは第一王子ロランドの婚約者で、姉が一番嫌っている令嬢だ。

 彼女が婚約したばかりの頃、かなり嫌がらせをしたと聞いている。

 そんなソレーヌとミラベルが親しくしているものだから、ニースは何度も父に呼び出され、ミラベルとの関係は良好なのか聞かれた。

 どうせ結婚することは決まっているのだから、関係が良好かどうかなんて、どうでも良いことだ。

 もし結婚しても、エミリアと別れるつもりなどなかった。

 形だけの妻にして、相手にしないと決めていた。

 そして、ニースとエミリアの真実の愛だという噂を流して、ミラベルを、愛し合っているふたりを引き裂く悪女として貶める予定だった。

 それなのに。

 ミラベルは、エミリアとニースの密会を目撃したあと、姿を消してしまった。

 彼女の置き手紙には、ミラベルがニースを愛していたこと。

 エミリアと幸せになってほしいから、自分は身を引くと書かれていたらしい。

(嘘だ)

 あんなに冷めた目で見ていたミラベルが、自分を愛しているはずがない。

 ニースの企みに気が付き、自分が悪役になる前に、この婚約から逃げ出したのだ。

 ソレーヌに涙ながらに詰め寄られ、ニースはどうしたらいいのか必死に考えていた。

 こうなったらエミリアとの恋だけは真実であったと、美談にするしかない。

 それしか方法はないのに、エミリアはひとりだけさっさと逃げようとした。カッとして思わず手を上げてしまい、ますます追い詰められてしまった。

 我を忘れて暴れたせいで地下牢に入れられ、ようやく解放されたが、父は家に戻ることを許さなかった。

「この婚約が家にとってどんなに大切なものか、お前にもわかっていたはずだ」

 屋敷に入ることさえ許されず、門前払いされたニースに、父は馬車の中から苦々しい顔で言った。

「それをお前は、軽視し続けた」

「そんなこと、父上は何も説明してくれませんでした」

 反発してそう言ったが、父はますます呆れたような顔をするだけだ。

「すべてを説明しなければ、何もできないのか? 必ずミラベル嬢を探し出せ。そうでなければ、お前はもうこの家には必要ない」

「……」

 手がかりもないのに、どう探せというのか。

 だがここに居座っていても、姉に罵倒されるだけだ。

 ミラベルとニースの婚約が破談になりそうだと聞いて、第二王子のクレートは、他の婚約者を探し始めたという。

 十二歳の頃から、自分は王家に嫁ぐのだと信じていた姉は、半狂乱になっていた。

 ドリータ伯爵家からの支援がなければ、ディード侯爵家も没落するしかないだろう。

 自分の些細な反発が、姉の人生を破滅させ、ディード侯爵家を潰してしまうかもしれない。

 ニースはそんな現実から逃げるように、王都を飛び出した。

 ミラベルさえ見つかれば。

 彼女と結婚することさえできれば、すべては元に戻る。ミラベルは本当に自分を愛していて、迎えに来るのを待っているのかもしれない。

 そんなことを考えながら、ニースはひたすら歩いていく。

 辿り着いたある町で、ミラベルと思われる女性が事故に巻き込まれて亡くなったと聞くまでは、まだ挽回できると信じていた。

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