第10話 サザーリア公爵家令嬢ソレーヌ 2

 感情が昂ぶり、涙を零す。

 もちろん演技だが、そうしたことによって周囲の騒めきが会場中に広がっていく。

 聞こえてくる声はすべて、婚約者の目の前で不誠実な行為をしていたふたりに向けられたものだ。

 貴族同士の結婚は、ほとんどが政略結婚である。

 だから、互いに愛人を持つことも珍しくない。

 それなのにニース達に非難の目が向けられているのは、ニースとミラベルの結婚が政治的に重要であることを、誰もが知っているからだ。

 たしかに、ニースの姉は第二王子クレートの婚約者候補である。

 だが、まだ候補でしかないのだ。

 第二王子クレートが切望しているにも関わらず婚約が許可されないのは、ディード侯爵家が事業の失敗によって傾いているからだ。

 それを解決するために必要だったのが、ニースとミラベルの結婚である。

 ニースはその重要性を理解せずに、私情に走った。

 しかもそれを、政敵の婚約者であるソレーヌに指摘されるという失態を犯したのだ。

 その軽率さがニースの立場の低下に繋がり、周囲から批判の目で見られている。

 これで立場は完全に逆転した。

 悲恋に引き裂かれた運命の恋人同士ではなく、婚約者がいるにも関わらず、他の女性と抱き合っていた愚かな者達。

 しかも、そのせいでドリータ伯爵家の娘が失踪したのだ。

(ミラベル、聞いているかしら?)

 そう思いながら、ソレーヌはメイド達の控え室がある方向をちらりと見つめる。

「ソレーヌ。ここは王城だ。そのような騒ぎを起こしてはならない」

 あらかじめ決めていたように、兄のリオがそう言ってソレーヌを窘める。

「でもお兄様。このふたりのせいで、ミラベルが……」

「ああ、ディード侯爵家の次男か」

 兄のリオが前に出てきた途端、興味深そうにこちらを見つめていた人達が慌てて視線を逸らした。

「このふたりが、ミラベルの失踪に関わっていたのか?」

 兄の登場にニースの顔が強張り、その背後に隠れていたエミリアも息を呑んでいる。

「あ、あなたには関係のないことです」

 それでも敵対関係だという認識があるようで、ニースがそう反撃する。

 だが声は震えて小さく、むしろ何も言わない方が威厳を保てたのではないかと思うような有様だ。

「関係ない、か。私の大切な妹を泣かせておいて、そんな世迷言を」

 目を細めた兄の声が、鋭利な刃のように冷たくなった。

 ニースは真っ青な顔で震えるだけ。

 エミリアに至っては、今にも倒れてしまいそうだ。

 このふたりは、これからどうするだろう。

 ソレーヌは、静かに事の成り行きを見守る。

 ミラベルは悪役になりたくないと言っていたが、どちらが正しいかなんて、互いの立場で簡単に変わってしまうものだ。

 今までは、裕福なドリータ伯爵家を妬む者が多く、ミラベルは悪意の標的になりやすかったかもしれない。

 でも今は、もうその立場は入れ替わっている。

 ニースは、ディード侯爵家の悲願を己の欲望で無駄にした愚か者で、ミラベルはそんなニースの幸せを願って身を引いた、健気な令嬢である。

 もう後は、ニースとエミリアも純愛だったことにするしかない。

 でもミラベルを傷つけてしまったのは事実なので、ふたりで貴族の位を捨てて、ひっそりと市政で暮らす。

 そうするしかないだろう。

「も、申し訳ございません」

 言葉が出ないニースに代わり、震える声でそう言ったのはエミリアだった。

「私達だけ幸せになるなんて、そんなことはできません。ミラベル様には、本当に申し訳なく思っています。私は身を引きます。もう二度と、ニース様には近付きません。どうかお許しください」

 声の震えは演技ではなく、本物のようだ。

「エ、エミリア?」

 動揺したニースが彼女の名前を呼ぶが、エミリアは静かに首を振る。

「私達が間違っていたのよ。ごめんなさい、ニース。もう会いません」

 そう言うと、もう身を翻して逃げ出していた。

 そのあまりの素早さに、ソレーヌだけではなく、兄もその後ろ姿を見送るしかなかったようだ。

 どうやらエミリアはニースを捨て、保身に走ったようだ。

(やっぱりね)

 互いにすべてを捨てまで愛し合っていないのは、ソレーヌにもよくわかっていた。

 ニースは、エミリアとの恋を楽しみながらも、ミラベルと結婚しようと思っていただろう。

 またエミリアも、ニースを愛しているというよりは、ミラベルよりも上に立ちたくて、彼に近付いた。

 美人で裕福なミラベルを、羨ましいと思う令嬢は昔からたくさんいた。

「待ってくれ、エミリア!」

 ニースが慌てて彼女を追う。

 彼もまた、ここでエミリアに逃げられてしまったら、ひとりで破滅してしまうことを理解したのだろう。

 ニースはエミリアを道連れにしようとして、エミリアは巻き添えになるまいと逃げようとしている。

 それはもう、悲劇によって引き裂かれようとしている、運命の恋人同士にはとても見えない。

 エミリアの逃げ足は速かったが、ニースも必死だった。ホールの入り口で彼女の腕を掴み、引き寄せる。

「離して! 私を巻き込まないで!」

 そんなニースに、エミリアは叫ぶようにそう言ったのが聞こえた。もう大人しくて健気な女性を演じる余裕もないようだ。

「ひとりで逃げようというのか? そんなことはさせない。そもそもお前が私を誘わなかったら、こんなことには……」

「そんなの嘘よ。私はあなたに脅されて、一緒にいたの」

「何だと?」

 エミリアの嘘に、必死に追い縋っていたニースも、顔色を変えた。

「このっ……」

 派手な音が響き渡り、エミリアが吹っ飛ばされて倒れ込んだ。

 ニースが彼女に手を上げてしまったようだ。

 さすがにこれ以上、王城で騒ぎを起こすわけにはいかない。

「お兄様」

 ソレーヌは動揺したように装って、涙を溜めた瞳で兄を見上げる。

 リオはひどく冷たい瞳をしてふたりを見ていたが、妹の声にわずかに笑みを浮かべた。

「大丈夫だ。あとは警備兵に任せておこう」

 そう言って警備兵を呼ぶと、彼らはすぐにニースとエミリアを引き立てて、会場の外に連れ出していく。

 ふたりは何か喚いていたが、すぐにその声も遠くなった。

「……ソレーヌ。少し休ませてもらおう。歩けるか?」

「ええ、お兄様……」

 リオに支えられてソレーヌが退出すると、静かだったホールは途端に騒がしくなった。

 残された者達は婚約者以外の女性と親密に付き合い、婚約者を失踪に追いやったニース。そんなことまでしておきながら、自分だけさっさと逃げようとしたエミリアのことを口々に罵っている。

 この件は、ニースの姉リエッタの婚約にも大きく影響するに違いない。

 悲願の王家との婚姻を台無しにしてしまったニースを、彼の家族はどう扱うのだろう。

 エミリアにしても、こんなに大勢の前で婚約者のいる男性と付き合っていたことが判明したら、今後まともな結婚をすることは難しい。

 しかも自分は脅されていたのだと言って、ひとりだけ逃げようとしたのだ。

(すべて、自業自得だけど)

 兄に連れられてホールを去る瞬間、ソレーヌは冷たく微笑んだ。

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