45.英雄の救恤(Ⅴ)
──商業都市リシア北東区画 通称、スラム街。
満月が地表を照らす夜。闇の龍が人々を睥睨する時間。
大通りに面したそこは、未だに人の活気で溢れていた。
「え、エギンヴァラファミリーの奴らをやりやがったって……!?」「大丈夫なのか!? 報復とかされたりしないのか……!?」
「お、俺は知らねぇぞっ! 炊き出しがあるって聞いて来ただけなんだからな!」「もうやだよぉ……」
「バァカ、お前らあの人のことを知らねえのかよ! あの人はなぁ、このスラムの────!」
***
「……」
「はあぁ、疲れたもう……。絶対後で文句言ってやるんだから……!」
喧噪から少し離れた場所。
襤褸切れのような外套を纏った少女と、古風な魔女帽子を被った少女が、建物の壁に背を預け佇んでいた。
先ほどまで切羽詰まった状況であったのだが、今は弛緩しきっていた。
襲われた難民たちは皆一命を取り留めたのだ。
「……人命救助に文句を言うな、バレッタ。暴漢に襲われた者たちは皆、命を落とさずに済んだ。それで良いじゃないか」
「それはそれ、これはこれよ……!」
杖にもたれ掛かって全身で疲労をアピールする少女に、隣に立つ少女は苦笑交じりに視線を向けた。
彼女たちは友人と呼ぶには少々遠い関係だが、世間話をする以上の仲ではあった。
「亭主が渡してきたポーションがなければ助からない者もいた。……あのポーションは、確実にランクⅣ以上の上級品だろう」
「そうね……腕が千切れてたのも、くっ付いてたし」
「……こんなスラムでは、まず手に入らないほどの品だ。あの人は、それを惜しげもなく使った」
「お金には困ってないんでしょ……。アタシにだって、金貨百枚以上はするものをポンと渡してくるくらいよ」
「……そうだな。あの人は、そういう人だ」
襤褸切れの外套を纏った少女は、背にしていた建物──寂れた風体の宿屋を見上げた。
『白足の黒猫亭』──彼女たちが宿泊しているスラムの宿屋である。
名前は明らかに偽名、来歴も不明。怪しいにもほどがある男が宿の主人をしている。
──彼について判明しているのは、女性に対して非常に甘いこと。
金には困っておらず、宿の経営には無頓着なこと。
見たこともない聞いたこともない、異国の料理を多種多様に作れること。
そして、腕っ節が非常に強いということ……。
「バレッタ、君は……どう思う?」
「どうって……何がよ」
少女はあまりにも言葉足らずな質問を投げかけていた自らに少し顔を赤め、咳払いをしてから続けた。
「亭主の強さだ。さっきの戦闘、君も見ていただろう?」
「そりゃあ、いやでも目に入るわよ……。どう思うって言われても、相変わらず訳わかんないことする奴だったとしか思えないわ……」
「……君から見ても、亭主が何をしたのか、分からないか?」
「見たままを説明するならできるけどね……」
つい、と人差し指で戦闘があった場所を指して、魔女帽子を被った少女はそらんじるように答えた。
「どこからともなく剣を取り出して、何の動作も挟まず射出……。奴らの中心地点に突き刺さった剣から冷気が広がり、瞬く間に周囲の人間ごと凍り付かせた……。そして、いつの間にか手元に引き戻していた剣で、相手を一閃……以上よ」
「………………」
その解説を聞いて、外套を纏った少女は押し黙った。
未だ中身が入ったままの氷像の後処理に四苦八苦している男たちを遠目に見遣りながら、難しい表情を続け……やがて言葉を絞り出すように紡いだ。
「つまり……亭主は虚空から物を取り出して自由に飛ばしたり、剣から数十人相手を一瞬で凍らせるような冷気を放つことができる」
それは、魔女帽子を被った少女が述べたように、見た通りの光景をただ言葉にして述べているだけに過ぎなかった。
しかし言葉に表しただけでも、外套を纏った少女にとっては只事ではなかったのだ。
「私は、徒手空拳で戦う亭主の姿は何度も目にしていた。それだけでも、相当の手練れだと分かってはいた。……だが、あんな風に戦う姿を見たことはなかったんだ」
「……」
「バレッタ、君は……亭主があれほどまでに強いことを、知っていたのか?」
「……そうね。こんな場所であれだけ自由に生きていられるんだから……突き抜けた強さがないと、話になんないってことよ……」
魔女帽子を被った少女は、質問に対して直接的に答えた訳ではない。
だが、その返答を肯定として受け取った外套を纏った少女は、自身の心にちくりと棘が刺さるのを感じた。
なぜその言葉に胸が痛んだのかは、少女には分からなかった。
「……あの人は、何なのだろうな」
「何って……。変態で、変人よ」
「……確かにそうだが、そうではなく」
襤褸切れの外套を纏った少女は、身を乗り出して隣の少女に顔を近付けた。
フードからはみだした銀色の髪が、月明かりを受けて淡く光っている。
「亭主の正体だ。あの通り、尋常な強さじゃないだろう。冒険者ギルドでも、あんな装備やアビリティを持った者など見たことがない。それが、なぜこんなところで──」
「なんでこんなところで、ぼろっちい宿屋を開いてるのかって……? アンタがそれを聞くの? 貴族剣士サマ」
「っ」
魔女帽子を被った少女からじとりとした視線を受けて、外套を纏った少女は僅かに身を引いた。
襤褸切れの外套の中身は、整った美貌と気品が溢れる少女であることを、この宿に泊まっている者は皆知っている。
スラムなどという汚らしい場所に、何の護衛も付けずに居ていいような存在でないことも……。
「こんなところに居る時点で、誰だって大なり小なり事情があるに決まってるわ……。そういうのを承知の上でお互いに詮索しないのが、ここのルールってヤツなんじゃないの……」
「私、は……」
「アタシにはどうでもいいことだけどね……。まぁ、アンタが聞いてみたら教えてくれるんじゃないの……? アレに相当入れ込まれてるみたいだし……迫ったら案外コロッと漏らしちゃうかもよ……」
「そっ、そんなことはしない! 私は別にっ、あの人に好まれてなんか……!」
外套を纏った少女は顔を真っ赤にしながら、もにょもにょと言葉尻を弱めていった。
それを横目で見遣りながら、魔女帽子を少女は小さくため息を吐いたのだった。
「ホントに男の趣味が悪いわね……。あんな得体の知れないヤツの、どこがいいんだか」
「……あの人は、善人だ。君もそれが分かってるから、こんなところにいるのだろう?」
「……そう、ね。少なくとも、悪い人ではないことは確かだわ」
その言葉を皮切りに、魔女帽子を被った少女は瞼を閉じて黙り込んだ。
これ以上話をするつもりはないという意思表示なのだろう。それくらいは察せられた。
この奇妙な宿屋の宿泊者同士という決して近くはない関係だが、付き合いはそれなりにあるのだから。
横に立つ少女から視線を外し、大通りの方に目を向けた。
視線の先にいるのは、件の宿屋の亭主だ。
最近どこぞから連れてきた少女を背負い、忙しなく動き回っている。
──何で助けたのかって? そりゃあ君が俺のタイプど真ん中だからさ。
──その様子だと行く当てもないんだろう。この部屋を使うといい。
──お礼? 金銭なんざいらないさ。君が俺に靡いてくれるっていうのなら大歓迎だけどね。
──君は何かを成そうと日々頑張っている。そんな健気な女の子だってことは知ってるよ。
──自分でも馬鹿な事をしたと思ってるだろ。気持ちは分かるが、そんな無茶をするんじゃない。
「──……」
少女には、目的があった。
汚らわしいスラムに身を隠さなければならないほどに、彼女には果たさねばならない使命があった。
由緒正しい家柄を捨て、自らの力だけで使命を成し遂げると決意し、少女はこの地へとやってきた。
その行動の結果として……自らがどれだけ浅慮で世間知らずであったかを、その身で思い知る事になった。
この宿の亭主に助けられていなければ、使命を成し遂げる以前に自らの命が終わっていたことだろう。
その後も何かと亭主の世話になりっぱなしだった。
衣食住はおろか、身の回りの細やかな物事さえも手助けされて……。
流石に少女の抱えていた使命にまでは関わらせられなかったが、それでも与えられたものはあまりに多く、大きく、重い。
その恩義に、少女は未だに何も報いられていない。
使命の達成に身をやつす傍らで、ずっとその事実に思い悩んでいた。
そうして……黒猫亭に身を寄せて日々を過ごしている内に、少女の使命は失敗に終わった。
その結果は目の前の事実にも繋がっている。
──戦火に焼かれた王都から逃げ出してきた民たち。
食うものにも困り、明日をも知れぬような生活を続けていくしかなくなってしまった人々。
少女の抱えていた問題は、たかだか小娘一人の力が及ぶものではなかったのだ。
けれど少女は愚直に、使命が失敗した後も彼らをどうにか助けようと必死に考えて……。
しかし、身分を捨て冒険者として稼いだ金銭と伝手だけでは、全員を助けられるはずもなかった。
けれど、男はあっという間にその全員を救ってみせた。
(最初から貴方に全てを話して、助けを求めていたら……こんなことにならず、済んでいたのかもしれないな……)
脳裏に浮かんだ考えは振り払うこともできず、今後も少女の心を苛み続けるだろう。
何か一つでも違えば、きっと多くの命を救えていたのだろうから。
少女は、男の背中をずっと見ていた。その背中があまりにも眩しかったから。
そして、彼がとても遠くに在ると感じてしまった。
「……バレッタ。亭主がまた何かするらしい。手伝いにいこう」
「えぇぇ……」
襤褸切れの外套を纏った少女は、魔女帽子を被った少女の手を取って駆け出した。
内に秘めた感情には、蓋をして。
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