第23話 理由

(……あぁ)

 アステールの心が、ささくれ立つ。さらにそのささくれを剥がされたような痛みが。思い出したかのように、今さら胸に走った。痛みを感じる必要などない。そう唱えても、消えないものがズキズキと鳴いた。

(近づいてきていた人影とは、この方のことだったか)

「スバル様……!!」

 ユノーがその名を呼ぶ。

 スバルは、アステールの見たことのない顔をしていた。

 風にそよぐ黒髪は黒と金のオッドアイを隠し、表情が読めない。しかし時折覗く双眸は、ひどく冷たい温度を帯びていた。唇はただ閉ざされ、無言での威圧を放っている。凛々しい佇まいも、今この時ばかりは内なる激しい怒りを抑えている武装に過ぎなかった。

「聞こえなかったか? 膝を付けと言っている」

 真っ直ぐ響く声に操られたかのように、三人が膝を付く。

 スバルはアステールの前に立つ。その身で彼女を守るように。

「……お前たち。アステール嬢に手を出して、ただで済むと思っているのか?」

 そして口でも、表した。令嬢を守るような姿勢を。

(まだそんな振る舞いをするのか)

 アステールを守るような言動を。

 こちらはもう、スバルの化けの皮が剥がれた姿──星の巫女としての力を狙う彼に、気付いているというのに。

 男たちの行動は勝手であったとして、その目的は同一であると、知っているというのに。

 ユノーが顔を上げる。苦い顔だった。

「私たちは、スバル様のためを思って……!!」

 幾度となくアステールの前で繰り返されてきた動機。

 しかしそれは、冷めた目で一瞥をされるだけだった。

「……お前たちは、何も分かっていない」

 そう吐き捨て、こちらを振り返る。

 まだ冷たさの余韻は残っているが、アステールの前では見慣れた、柔らかみが多少浮かべられている。

「行きましょう、アステール様。すぐに私の仲間が駆け付けます。人質になった護衛の方のことも、どうかご安心を」

 手を差し出される。

 脳裏に、キースの手が過った。

 手を取ることは出来ない。

 またどうせ思いは裏切られる。

 傷つきたくない。

 甘い関係など、要らない。

 アステールは視線を逸らした。その返答にスバルは微かに悲しげな顔をすると、ゆっくり手を下ろした。

「……せめて移動して、話をしませんか? 貴女と話がしたい」

「私には、話すことなどありません」

「今日一日、私に頂く約束だったでしょう? どうか今日最後の時間だと思って」

 それを言われてしまうと、何も言い返すことが出来なかった。

 確かに約束は約束だ。今さら再び求婚されるとも考えられない。アステールは頷く。

 そうして二人はこの場を離れた。スバルに付いていくその距離に、数歩分の距離を置いて。


***


 移動した先は、レアディスを訪れて最初にやって来た丘の上だった。

 つい数時間前に来た時とは何もかもが違う。空の色も、アステールの心持ちも。空は日が傾きかけ、橙色の絵の具を零したような風景が頭上を覆っている。夕の風は涼しく、アステールの纏うドレスの裾を優しく揺らした。自分は未だにレアディスの正装のまま。先程「着替えたい」と伝えたところ、「差し上げます」と返された。

「今日、付き合ってくださった感謝と、巻き込んでしまったことへのお詫びに」と。

 二人は無言で、丘から見える景色を眺める。初見で感嘆に息を吐いたはずの美しい景色は、心を癒やすに足りなかった。ただ視線が上滑りしていくように、その美しさが頭に入ってこない。別のことで頭がいっぱいで。

 それはスバルも同様のようだった。唇を引き結んだ横顔。何か考え込んでいるような、心ここにあらずといったような表情だ。

「……アステール嬢」

「噓でしたのね」

 彼が何かを言いかける前に、咄嗟に言葉を重ねる。

 自分でもなぜそんなに逸るのか、分からないままに。

「『星の巫女の力など不要』と言ったこと。求婚の言葉も。……全て偽りでしたのね」

「それは違います!」

「何が違いますの? 貴方の狙いも結局星の力。信頼に値しない人間だと分かりましたわ。今後一切、私と、アステール星と関わらないで欲しいです」

「……私が星の力を狙っている、という情報は、あの男たちから聞いたのですか?」

「そうですが」

「不思議ですね? 貴女は今日会ったばかりの、それも自分を誘拐した男たちの言うことをあっさりと信じるのですか」

 口を噤んだ。

 スバルの声色は微かに冷たい色を帯びている。犯罪者よりも、自分が信用に値しないと言われたのだから、当然だ……彼が怒っていると、顔を見ずとも分かる。

「僕のことがまだ信頼出来ないのは分かります。突然の求婚で、貴女を戸惑わせたことも理解しております。……けれどそれは、あの男たちを真っ先に信用する理由にはならない。違いますか?」

「……」

「僕はこうして貴女を助けに来た」

「……ならば」

 声が震える。崩れる、と、思う。自分が被ってきた仮面、作り上げてきた虚像、固めてきた「アステール・スピカ」。その全てが崩れ、柔い中身が溢れ出てきてしまう……とろとろと。卵の黄身のように。そんな不安がアステールを襲う。

 不安と焦燥に任せ、アステールは声を絞り出した。

「ならばなぜ、あの男たちの口から『婚約が星の力を手に入れるため』なんて言葉が出てくるのです。噂の無いところに煙は立たないと言います。貴方はなぜ、私に求婚などしたのか」

 震えを堪えた言葉に温度はなく、人々に「塩対応」と呼ばれるだけの素っ気なさがそこにはあった。

 しかしその時、唐突に理解した。

 アステールがなぜ男たちの言葉を信用するのか。悪い予感に、悪い情報にばかり心を寄せてしまうのか。

(怖いからだ)

 甘い予感に期待して、信じて、また裏切られることを恐れているからだ。ならば最初から悪い未来を想像して、「あぁやはりそうだったのだ」と息を吐き捨てる方が痛みが少なくて済む。多少の落胆で、終わることが出来る。アステールは甘くない関係を望んでいる。完全なる塩辛さを受け止める勇気などないから。

 逆に言えばそれほどに。アステールは、スバルを信じたいと思うようになっていた。なって、しまっていた。

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