第6話 ツキの生い立ち
ローバーの山を降りて東へ向かうと、イナサの村がある。
大きくはないが、小さくもない村。気候や風土に特別恵まれているという訳でもない、どこにでもありそうな村だ。
ツキはこの村で生まれた……らしい。
彼自身は何も知らない。全ては聞いた話だ。
母のフールは早くに両親を亡くし、両親の遺した畑を耕して細々と一人で暮らしていた。近所の村人達も何かと気にかけてくれたので、食べることに困ることもなく。
ただ、一つだけ
イラギは村長ではないのだが、村で一番多くの畑を持ち、実質は彼がイナサの村の権力者だった。
妻も子もあり、じき五十に手が届こうかという男が、自分の娘とさほど変わらない村娘にご執心なのだ。
もっとも、彼が目を付けているのはフールだけではなく、他にも数人いた。
十八になり、フールが女らしさと美しさを兼ね備えるようになると、イラギはますますしつこく言い寄るようになる。
自分のものになれば、畑を耕さずにうまい物をいくらでも食わせてやる、きれいな服や靴も買ってやろう、とエサをちらつかせた。
実際、働くのが嫌いでイラギの女になった娘もいる。
中には何を勘違いしたのか、イラギの権力をかさにかぶって高飛車なふるまいをするようになった娘もいて、村人から陰で失笑されていたりもした。
生活は楽とは言えないものだったが、フールはイラギの誘いに決して乗ろうとはしない。心に決めた男性がいるのではなかったが、妾になってまで自分を偽ろうとは思わなかった。
しかし、その気持ちが一つのきっかけで揺らぐ。
みごもったのだ。
相手は、どこの男か知らない。名前は聞かなかった。旅をしていて村を通りかかった、というだけの男だ。
陽が沈みかけた頃に現れ、宿もない村で途方に暮れていた彼を、フールは自分の家へ招き入れた。
なぜそんなことをしたか、自分でもわからない。ただ、彼と共に過ごしたい、と強く思った。
彼の方もフールに吸い寄せられるように家へ入り、二人で夜を過ごした。
お腹にいるのは、間違いなく彼の子だ。喜びと同時に、大きな不安がのしかかる。
今は自分一人が食べるだけで精一杯だ。お腹が大きくなってくれば、畑仕事もかなりきつくなる。
それ以前に、ちゃんと産み月までこの子に栄養を与えてやれるだろうか。生まれれば、それはそれで大変だ。無事に育てられるか、という不安も出て来る。
着せる服は手に入るだろうか。子どもはすぐに大きくなるが、その
子どもができたことは素直に嬉しかったが、生まれるまでと生まれてからのことを考えると、今のままではダメだ。二人で生活することは、困難を極める。
そんなフールの頭に浮かんだのが、イラギ。
フールはあの男を好きではない。はっきり言えば、嫌いだ。
しかし、あの男の言うとおりにすれば、この子は生きられる。
子どものために、フールは苦しい決断をした。この子さえいれば我慢できる、と。
何も知らないイラギは、いつものようにフールを口説きに現れ、フールが承知するとすぐに獣の本性を現わした。
それからは地獄のような時間が何度も訪れたが、子どものことを思えば耐えられる。
幸いなことに、イラギは釣った魚にも、とりあえずのエサはくれるタイプだった。
二人でいる時間さえ我慢すれば、精神的には叫びたくなるような苦痛でも、フールの生活はかなり楽になる。それだけはありがたい。
やがて、お腹のふくらみが目立つようになってくると、イラギはフールの元へ通って来るのをやめた。
しかし、フールに手をつけたことは村人みんなが知っているので、生活が再び苦しくなることはない。
自分は女を何人も囲って、だが全員を裕福に暮らせるようにしてやってる、と無言の自慢をするためだ。それだけの財力がある、と知らしめたいのである。だから、釣った魚でもエサがもらえたのだ。
イラギの虚栄心のおかげで、フールはどうにか臨月を迎えられた。
しかし、フールは村医者のキュラスに、早産だということにしてほしい、と頼んだ。そうしなければ、計算が合わなくなってイラギの子ではないとばれてしまうから。
この子は表面上、イラギの子ということになっている。違うとわかれば、フールはともかく、この子がイラギに殺されかねない。
ただでさえ、最近イラギの様子がおかしい、と村でも噂になっているのだ。
本妻であるラタナにいきなり抱き付いてよその女の名前を叫んだり、何もない空間を見て魔物が現れたと言っては斧を振り上げ、テーブルやイスを叩き壊したりしているらしい。
しばらくイラギと会っていないフールには、それが本当のことかわからない。
だが、自分のものだと思っている女が別の男の子どもを産んだと知れば、荒れ狂うに違いない。
本当の父親は、黒髪に青の瞳。イラギは黒髪に黒の瞳。
子どもは、黒髪に緑の瞳を持って生まれた。
青なら言い訳のしようもないが、緑ならフールに似たのだと言い張れる。
生まれた子どもを見て、フールは心底ほっとした。
自分の腕の中で眠る息子は、彼の面影を宿している。鼻や口元がそっくりだ。
名前もあえて聞かなかった、一夜限りの恋人。その彼に、再び会えた気がする。
しかし、フールのささやかな幸せは長く続かない。
息子が生まれて半月後、イラギが亡くなったのだ。
何やら訳のわからないことを叫び、口から泡を吹いて倒れた、と聞いた。そのまま息を引き取ったらしい。
噂では、イラギは数ヶ月前に大きな宝石を手に入れたらしく、本当はそれがいわく付きの代物だったのではないか、ということだった。
真相は闇の中だが、その石を磨いているイラギが魔物じみた叫び声を上げ始めた、とも言われている。その宝石とやらがとても怪しい、と村人達は言い合った。
宝石など、フールはどうでもいい。問題はこれからの生活だ。
イラギがいなくなれば、生活の保障はなくなってしまう。
いや、それよりも。
イラギが亡くなったことで、本妻のラタナがどう動くかだ。
夫が生きている間は黙っていたが、次々と村の女に手を出すところを
実はとんでもなく嫉妬深い女だ、とも言われている。今までイラギがやった物を全て返せ、などと言い出しかねなかった。
フールの他にも「イラギの子」を生んだ女は数人いる。真実はどうでも、ラタナはその子達を認めないだろう。村を出て行け、と言われるかも知れない。
それだけならいいが……。
イラギの子を産んだ別の女がフールの所へ来て「あたし達、かなりやばいかもよ」と言って去って行った。
どの程度やばいかはともかく、これからの暮らしはかなりつらいものになるだろう。あれだけ我慢し続けたのに、と思いつつ、フールも覚悟を決めた。
お互いの思惑がどうであれ、フールはイラギをだましていたのだから。その
それから二日後。
フールにやばいかもと言った女が、村から消えていることに気付いた。さりげなく村人に聞いたが、誰もが口を閉ざして答えようとしない。
ごまかすふりさえしない村人達を見て、フールは彼女が「消された」のだと直感した。
彼女はイラギに囲われて調子にのっている、と周りで噂されていたが、それはラタナも思っていただろう。だから、最初にいなくなったのかも知れない。
青ざめて家へ戻ったフールの元に、村医者のキュラスが現れた。フールが早産ではないことを悟られたかも知れない、と言うのだ。
あの腹の大きさで早産のはずがないだろう、とラタナはキュラスに詰め寄ったらしい。フールは細いので大きく見えただけだ、とキュラスは反論したが、ラタナは納得しなかった。
あれは絶対イラギの子じゃない、イラギの子だと言って財産を狙ってるんだ、と怒鳴りながら去って行ったと言う。
フールはイラギの財産など、狙っていない。だまして生活費を得ようとした点を責められれば、それについては認めるしかないものの、大金がほしい訳じゃなかった。この子と二人で、何とか生きて行ければよかったのだ。
キュラスの話を聞いて、フールは村を出る決心をした。ここにいたら、遅かれ早かれラタナに何かされてしまう。
自分はともかく、この子に罪はない。守らなければ。
暗くなってから、フールは子どもを抱いて家を抜け出した。その直後、自分の家に火が放たれたのを見て、背筋が凍る。
ラタナは本気だ。本当に殺されるところだったのだ。
家から悲鳴や赤ん坊の泣き声がなければ、火を放った人間もおかしいと思うだろう。
そのまま、フールは森へ向かって走り出す。
恐らく、火を放ったのはラタナの取り巻きの男達だ。フールがいないと気付けば、追って来るに違いない。
フールは必死に走った。腕の中で眠る我が子を守るために、とにかく走った。
家を出る時はイラギが買ってくれた靴をはいていたが、逃げる間に脱げてしまっている。そんなことには気付かず、気付いてもそんなことに構っている余裕はなかった。
子どもが目を覚ましたことがわかると、声を出す前に乳房をふくませる。その間だけは、フールも少しだけ休んでおいた。一息つけるのは、その時だけだ。
そんなことを何度か繰り返し、一晩走って森を抜けるとローバーの山へ入る。山へ入ってどこまで逃げ切れるかなど、何も考えてなかったし、何も考えられなかった。
とにかく、村から遠ざかることだけ。子どもの命を守ることだけを考えていた。
そんな彼女の前に、白い翼を持つ男が現れる。
フールは最初、魔物が現れたのかと思った。村を出たことのないフールは、
しかし、フールの足下を見た男が「どうした、大丈夫か?」と尋ねてくるのを聞き、相手が追っ手でも敵でもないことを悟って一気に緊張が
勝手に涙があふれて止まらない。優しい言葉をかけてもらったのが嬉しかった、というのもある。
この時、フールと出会ったのがフウの父リョウだった。たまたま、狩りで村から山裾の方へ降りていたのだ。
物音がしてフールが怯えたように振り返るのを見て、彼女が追われていると悟ったリョウは、彼女を抱いてモザの村へと戻る。
リョウは、すでにこの村に住み着いていたネマジの所へフールを連れて行った。白翼人ばかりの所より、人間がそばにいる方がフールも少しは安心するだろう、という配慮だ。
丸一日、フールが死んだように眠っている間、フウを産んで間もない頃だったリョウの妻キョウが子どもの世話をしてくれた。
どんな薬を使ったのか、傷だらけだった足はずいぶん癒えている。
フールから事情を聞いて、リョウや他の村人達もここにいればいい、と言ってくれた。人間二人が増えたところで、モザの村が飽和状態になる訳でもない。
ふもとの人間も、ここまでは滅多に来ないだろう。実際、そう簡単に来ることのできない場所である。
しかし、フールは子どもだけをここに置いてくれるよう、頼んだ。
ふもとの人間は滅多に来ない。だが、もし来たら。
ここの村人達に迷惑をかけてしまう。フールについてはごまかしようもないが、子どもだけならネマジの親類の子だ、と言い張ることも可能だ。
子どもの面倒をみるのは構わないが、フールはどこへ行くのかと尋ねられ、彼女はとにかくどこかへ逃げると言った。
幸いなのは、ラタナや取り巻きの男達は子どもの顔を見ていない、ということ。
つまりフールを目指して追っているから、彼女がこの村から離れた場所で見付かった時に子どもが捜し出される可能性は低い。
危険だと言ってみんなが止めたが、フールは夜のうちに姿を消してしまう。その際、置いて行かれた子どもは産着ではなく、毛布にくるまれて眠っていた。
せめて、子どもの匂いがする物を持っていたかったのだろう。
モザの村人達は、そう言い合った。
しかし、そうではなかったことを後で知らされる。
三日後、谷底を流れる川の岸辺にフールが倒れているのを、リョウが見付けた。その周囲には人間の男が数人。彼女を追っていた者達だろうというのは、すぐに察しがついた。
遠目からでも、フールの命がもう消えている、ということも。
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