○○○クワガタムシは家に入れてよい
ある夏の暮れのことでした。
僕が二匹のクワガタムシをつかまえて虫篭に放り込んでしばらく経つと、突然その片方が、ギイイ、ギイイと甲高い鳴き声をあげて、またしても突然に鳴き止みました。
見ると、雄のコクワガタが、ノコギリクワガタのあごで、胸と頭の境目を断ち切られていたのでした。
クワガタムシがクワガタムシを殺してしまったのです。そんなことを見るのは初めてでした。
ノコギリクワガタは虫篭の中をあちこち這い廻り、暴れたりないという様子で、コクワガタの腹を突きまわしていました。
ふと目の前に人が立ったので見ると、お姉さまがいました。
虫篭を見下ろしています。
「死んだクワガタムシは家に入れてよい」
お姉さまは言います。
「そのコクワガタ、私にもらえるかしら」
僕はうなずきました。
お姉さまは毎日同じようにクワガタムシを放すように言うのですが、村の子供たちは誰も、クワガタムシやカブトムシを持ち帰ることはありませんでした。僕の家ではクワガタムシどころかカブトムシも飼っていませんでした。外にこれだけたくさんの虫がいる多摩では、どの家の大人もわざわざ家の中で虫を飼おうなど思わないのでした。
「まあ! ありがとう」
お姉さまはとびきりの笑顔で言うと、虫篭をあけて手を突っ込み、コクワガタの頭と、切り離された胸と腹をヒョイととりあげました。そしてお姉さまは死んだコクワガタをてのひらで包むようににぎりこみました。
夕方になり、西の空が真っ赤に変わりはじめたころ、お姉さまは僕に言いました。
今日はありがとう。お礼におうちまで来てくれるかしら。
嫌とは言いませんでした。
僕たちは段々と年を食って、虫捕りに行くにも自分より年下の子供を引き連れていくことが増えていくとともに、自分たちよりずっと大人なのにいつも虫捕りについてくるお姉さまが、うっとうしいと感じるようになっていきました。いかにも反抗期らしい心持ではありました。しかしお姉さまはいつでも子供たちを見守るためについてきます。だから、お姉さまがうっとうしい子供たちは、次第に虫捕りから離れていくのでした。
今でもお姉さまはああして虫捕りに行く子供たちを見守っているのでしょうか。多分そうでしょう。
森の淵のお屋敷にふたりで向かいます。虫捕りをしている子供たちから離れると、お姉さまは僕の手を、クワガタムシを持っていない方の手でにぎりました。少し明るくて癖のある茶髪とハチミツのような黄色い目をしたお姉さまは、そんなものがいるのだとしたら、おとぎ話に出てくる森の妖精のようでした。
蔦の形の門を過ぎて、正面の扉を開けると、内側にまた扉があり、そこを開けると左右に階段のある吹き抜けの部屋に出ました。天井や壁は真っ白に塗られ、木でできた部分はまるで琥珀のようにきらきらと光っています。靴を履いたまま右の階段を通って二階へ登り、臙脂色の厚い絨毯の敷かれた廊下を通って、突当りから二番目の部屋の前でお姉さまは止まりました。扉の正面には角と毛の生えた鳥、お姉さまの話にあった地獄の悪魔が鉄の輪を口に咥えていました。
「ここはおじいさまが使っていた部屋なの」
そう言うと、お姉さまは暗い色の木のドアノブをひねって扉を押し開けました。
壁一面に虫が整列しています。
黒いもの、茶色いもの、青いもの、緑のもの、宝石のように光るもの――
カブトムシ、クワガタムシ、バッタ、チョウ、ガ――
大きいものも小さいものも、オスもメスも、多摩の森に住むものはもちろん、金属質の青い巨きな翅のチョウや、大きな目玉模様のある翅と箒のような触覚を持ったガ、小さな緑色の体が七色に光るクワガタムシなど、図鑑でしか見たことのないものまで、ずらりと壁に並んでいるのです。
おじいさまは仕事の傍ら昆虫標本を作ることを趣味にしていたのだとお姉さまは言いました。多摩の森の虫を採っては標本にし、仕事先で訪れた世界中の虫を捕まえて持ち帰りました。
おじいさまのお母さま、つまりお姉さまのひいおばあさまの伝手を頼ってアフリカの西の方へ行ったときには、砂漠にしか住んでいない虫を持ち帰りました。同じようにアフリカの東の方へ行ったときには、熱帯雨林にしか住んでいない虫を持ち帰りました。今のベトナムにあたる地域へ行ったときには、山の上にしか住んでいない虫を持ち帰りました。仕事を引退してからは株で儲けたお金で珍しい虫の標本を買ったこともあり、青い金属の蝶のひとつはおじいさまが壁に架けるところをこの目で見たとお姉さまは言いました。
部屋の壁に沿って、お姉さまの胸ほどの高さのある戸棚が並んでおり、その中には壁に架かりきらない数々の標本のほか、虫を標本にするための道具や、昆虫に関する革張りの本などが収まっているのでした。
僕は壁一面に並んでいる虫の群れを見ました。虫たちは脚の一本一本を針で貫かれ、その針は綿の中へ吸い込まれて、その奥で何かに突き刺さって固定されているようでした。チョウは翅がまっすぐ広げられ、針で押さえられています。虫のなかには、翅が開いているものも、閉じているものもありました。みな死んでいるのでしょう。しかし、あのコクワガタのように残酷にバラバラにされているものは一匹たりともいませんでした。標本とはそういうものだと知らなかった当時の僕でも、何かがずれている、どうしてお姉さまはあんなコクワガタを持ち帰ったのだろう、と思いました。
お姉さまは部屋の隅に立っていました。突当りに向かう扉がひとつありました。お姉さまは扉を押し開けて薄暗い中へ入って行きます。もう片方の手にはコクワガタがにぎられてるはずでした。
ドアノブを押した手がこちらへ振り返って、おいで、と手招きしました。その奥に輝く黄色い目が見えました。僕はその部屋へ入りました。
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