クワガタムシは○○○○てはいけない
再生
クワガタムシは○○○○てはいけない
カブトムシは捕まえて持ち帰ってよい。
クワガタムシは持ち帰ってはいけない。
多摩の田舎のお姉さまは、どういうわけか、そのような決まりを布いていました。
僕たちが雑木林に虫を捕りに行くと、お姉さまはいつもついて来ます。
「危ないところに入って行かないように見ておく」
というのがお姉さまの言い分でした。
実際、お姉さまは僕たちについて来ても、ただ僕たちが虫を捕るのを見ているだけで、自分では虫を捕りに来ることはありません。お姉さまは鎖骨を通り肩口を結んでまっすぐ布が断ち切られたワンピースを着て、腋が見えない程度に肌を出した格好で、雑木林の長く続く木陰の、僕たちから少し離れたあたりに立っていました。たまにぼくたちがお姉さまの方を振り返ると、いつもにこにこと笑顔を返してくれるのでした。
前の夜にハチミツを溶いたものを塗りつけた木肌にカブトムシやクワガタムシが集まっています。緑色に明るく輝くカナブンもいます。この前の夜の仕込みの時にもお姉さまは、自分の懐中電灯を持って、虫除けを多めに塗っては、僕たちについて来るのでした。
一番人気は大きなカブトムシでしたが、あまり数を見ないクワガタムシも子供たちの目を引きました。僕たちが遊んでいた多摩の森では、クワガタムシはカブトムシに比べるとずいぶん珍しい虫でした。
虫捕り網でエイヤと捕まえて、虫捕り籠に入れます。籠の中でカブトムシやクワガタムシが戦い、ガチャガチャ、ガサゴソと音を立てるのでした。顔を近づけて見ると、カブトムシは頭を上下に振り、クワガタムシは大あごを小刻みに開閉し、それぞれの六つの脚はしきりに後ずさり、前進し、虫篭の枠にしがみついて踏ん張ります。僕たちはその姿を大いに楽しみました。
しかし、クワガタムシは家に帰る前に放さなければなりません。そういう決まりになっているのです。
日が傾き、雑木林の木陰が橙色に変わるころ、お姉さまは
クワガタムシを家に入れてはいけない。
と言うのでした。
ただしそこにはもうひとつのルールがあり、
死んだクワガタムシは家に入れてよい。
とお姉さまは言いました。
でも、死んだクワガタムシなど僕たちは見たことがありませんでした。気付いてみると不思議なのですが、セミはそこらじゅうで死んでいるのに、カブトムシやクワガタムシは人の目にふれるところで死なないようでした。
死んだクワガタムシを持ち帰るには、捕まえた生きているクワガタムシを殺してしまうほかに方法はありそうもなく、そんなことは僕たちはしたくありませんでした。だから仕方なく虫篭の蓋を開き、クワガタムシをつかんで、放り出してやるのでした。
ぽいと放り投げられたクワガタムシは、あるいは自前の羽で飛んで行き、あるいは地面に着地して歩いて行きます。木肌に放されたクワガタムシは、また溶きハチミツを塗ったあたりに向かいます。それを見送ってぼくたちはお姉さまについて行き、それぞれの家へ帰るのでした。
お姉さまの家は村の外れ、森の淵にある西洋風のお屋敷で、建物を囲む鉄の柵は蔦が絡みあい、雫形の大きな葉がそこかしこから垂れているもので、正面の門をくぐると、生木のような色をした壁は全体が彫刻や装飾で飾り付けられ、玄関の前に飛び出した日除けを支える柱には一面に上下に走る溝があり、日除けにふれる辺りには春先のゼンマイのようなものが付いているのでした。
まるで森のようなこのお屋敷は、お姉さまのひいおばあさまが建てられたもので、今ではお姉さまとそのお母さま、お父さまが住んでいるのだといいます。三十人は住めそうなお屋敷に三人しか住んでいないのです。かつてはもっとたくさんの人が住んでいたのだとお姉さまは言いました。庭に生えた木々を切って整える庭師がおり、銀色に輝くキッチンで会食の用意をする料理人がおり、煌びやかな服を衣装箪笥にしまい、釜で風呂を沸かし、お客様へお茶を出す小間使いがいたのだとお姉さまは言いました。
今では一面の芝生になっている庭には、かつて正方形や星形に切り揃えられた低い木々があり、ほとりに松の生えた小さな池があり、秋には赤く色づく紅葉も植わっていたのだいうことです。僕たちはもちろん、お姉さまも庭のそうした姿を見たことがありません。庭はお姉さまのおばあさまが、お姉さまのお母さまを産んでしばらく経ったころに、池を埋め立てて、庭木を切り落としてしまったのだと、お姉さまはおばあさまから聞いたのだと言います。
庭は寂しくなりましたが、お姉さまはひいおばあさまから色々なことを受け継ぎました。ひいおばあさまはお姉さまが五歳のときに亡くなるまでずっと同じこの屋敷に住んでおり、ひまごであるお姉さまへ自分の故郷の川のこと、森のこと、人々の伝えてきた昔話を、話してくれたのでした。
クワガタムシを家に入れてはいけないというのも、ひいおばあさまから教わったことでした。
昔々のこと、クワガタムシは地面の底の地獄の森に棲んでいて、大あごで燃える火をつかんでは食べて暮らしていました。
あるとき地獄の悪魔が、悪い魔法使いに呼ばれて地上に出てくるとき、外套の背中にクワガタムシのつがいがいるのに気付きませんでした。地上に出てきて、地獄に戻るとき、背中にいたクワガタムシを落としてきてしまったのですが、これにも気付きませんでした。
そういうわけでクワガタムシというものが地上に現れたのですが、クワガタムシは火に近い性質を持っていました。
大あごをカチカチと突き合わせると、雷を引き寄せるのです。
もし、家の外にいる人がクワガタムシを持っていれば、クワガタムシは雷を引き寄せて、持っている人を守ってくれるでしょう。
しかし、人が家の中へクワガタムシを持って入れば、家の中のクワガタムシめがけて落ちた稲妻が、家を焼き尽くしてしまうでしょう。
そういうわけで、生きているクワガタムシを家の中に持ち込むのはとても危ないことなのです。
どうしてわざわざクワガタムシだけは持ち帰っていけないと言うのか、誰かが聞いたときに、お姉さまはその昔話を語ったのでした。
所詮はおとぎ話のようなものです。悪魔なんて僕たちは信じてはいませんでした。しかしお姉さまの言葉は耳の奥へ染み渡るようで、そういうものだ、と僕たちは思ったのでした。
もし、クワガタムシを家に入れたいなら、殺さなければならない。そうお姉さまは言いました。例えば、
家に入れる前に腹部を毟り取りなさい。
輪郭だけ残して余分な脚を毟りなさい。
そうすればクワガタムシは死に、雷を呼び寄せることもなく、無事に家の中へ運び込むことができるでしょう。
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