電車で美人に席を譲ったら、一緒に暮らすことになった

春風秋雄

大きなキャリーケースを持った美女

好きな作家の新刊が出て、俺は電車の中で夢中になって読んでいた。第1章が終わったところで本から目を離し、ふと俺が座っている前に立っている女性を見上げた。大きなキャリーケースを横に置き、その女性は目をつむって吊革にぶら下がっていた。顔色が悪い。とても辛そうに見えた。俺は立ち上がり、その女性に言った。

「辛そうですね、どうぞ、座って下さい」

女性は目を開け、俺を見た。

「ありがとうございます」

女性はそう言うと、遠慮することなく、俺が座っていた座席に座った。

女性は座るなり、また目をつむってしまった。この電車の行先からして観光ではないだろうから、旅行帰りで家に帰るところかもしれない。

キャリーケースは俺と女性の間に置かれ、俺は前かがみになりながら吊革につかまった。この体勢で本を読むのはつらい。仕方なく俺は本をカバンにしまった。見るとはなしに、女性に目がいく。年は30代だろうか、綺麗な女性だ。あと10分程度で俺が降りる駅に着く。気にはなるが、あまり女性を見ないように窓の外に目を向ける。外は暗く、ところどころに民家の明かりが見えるだけだった。


俺の名前は結城啓太。都心でデザイン事務所を経営している。主に広告代理店との仕事で収益をあげている。6年前に郊外に一戸建て住宅を購入した。通勤に1時間以上はかかるが、妻がどうしても一戸建てが良いというので、頭金を1000万円だけ入れて、ローンを組んだ。ところが、家を購入して2年足らずで妻は家を出て行った。妻もデザイナーでうちの事務所で一緒に働いていたが、仕事関係で知り合った男性からニューヨークへ行って一緒に仕事をしないかと誘われたのだ。その男性は広告代理店のエージェンシーで、海外でも活躍している人だった。その男性は妻のデザインが気に入り、妻を専属のデザイナーとしてパートナーシップを組みたいと言ってきたのだ。その男性と妻は男女の関係ではなかったが、自分の可能性を追求したいという妻は俺と離婚してニューヨークへ行ってしまった。それから4年。俺は今年45歳になるが、広い家に一人で住んでいた。


駅に着き、乗降口へ向かおうとすると、席を譲った女性も立ち上がった。この駅で降りるようだ。駅から出ると、いつの間にか雨が降っていた。タクシー乗り場は長蛇の列になっている。俺は駅前に駐車場を借りており、駅までは車で来ていた。ふと見ると、先ほどの女性がタクシー乗り場の最後尾に並んでうずくまっていた。あの列の長さだと、順番がくるまでに相当待たされるだろう。俺は、女性に近寄った。

「大丈夫ですか?」

女性は驚いたように、ビクンと体を震わせ俺を見た。先ほど席を譲ってもらった人だと気づいたのだろう。少しホッとしたような顔をして

「大丈夫です」

と小さな声で言った。しかし、その顔は全然大丈夫そうに見えなかった。

「もしよろしければ、私は駅まで車で来ていますから、家まで送りましょうか?」

女性は俺を不審な男だと思ったのかもしれない。警戒しながら俺を見ていたが、また下を向きながら言った。

「大丈夫です」

「でも、体調悪そうですし、これだけ並んでいると、タクシーに乗れるまでに30分以上はかかりますよ」

女性は列の先頭の方を見た。ざっと30人近く並んでいる。しかし、女性は何も言わず、うずくまったままだった。こちらは親切で言っているだけなので、嫌がられているのに無理強いする必要はない。俺は「じゃあ、お気をつけて」と言って駐車場へ向かった。タクシー乗り場を離れ、屋根のある場所から雨の中を駐車場まで移動しなければならない。俺は立ち止まりカバンから折りたたみ傘を出した。すると、後からキャリーケースをガラゴロと引きずる音がした。振り返ると、先ほどの女性がこちらに近づいてきた。

「あのー、ここまで連れて行ってもらえませんか」

女性はそう言って、住所が書かれたメモを差し出した。


俺は雨の中を慎重に運転した。渡されたメモの住所をナビに入力すると、所要時間は15分となっていた。助手席に座った女性は窓に頭を預けるようにしてぐったりしている。ナビが目的地到着を告げた。

「着きましたよ。ここでいいんですね?」

女性は目を開け、外を見た。そこには古いマンションが建っていた。

「ありがとうございました。もう大丈夫です」

そう言って車を降りようとしたので、俺は車に積んでいたビニール傘を差し出し、

「これを使って下さい」

と言って女性に傘を持たせた。女性はお礼を言うのも億劫なのか、小さく頷いて傘を受け取った。

女性が車を降りたあと、俺は自宅にナビをセットした。どうやらUターンして引き返した方が早そうだった。俺は少し行った空き地で切り返し、Uターンして女性を降ろした場所に引き返した。すると、女性が傘をさして立ちすくんでいた。俺は車をとめ、窓を開けて声をかけた。

「どうしました」

女性は困り果てた顔をしていた。何かトラブルでもあったのかもしれない。

「とりあえず、乗りませんか?」

女性は大人しくキャリーケースを荷台に積み、助手席に乗って来た。

「どうしたんですか?」

「ここにいるはずの人が、いなかったんです」

女性はそれだけ言うと、目をつむってしまった。かなり辛そうだった。俺は「失礼」と言って、女性のおでこに手を当てた。かなり熱い。これはまずいと思った。俺は車を発車させて、救急診療をやっている病院へ向かった。


病院で受付をし、女性の名前が橋本希代美だとわかった。幸いなことに国民健康保険の保険証を持っていた。年齢は33歳のようだ。住所は香川県の高松市と自分で受診票に記入していた。

検査の結果、大きな病気ではなく、風邪をこじらせただけのようだが、熱も高く、脱水症状がひどかったので、点滴をうつことになった。点滴をしている間に話しかけようとしたが、本人はぐっすり寝ている。俺はどうするべきか悩んだが、ここまで付き添って、女性一人置いて帰るわけにもいかない。とりあえず点滴が終わるのを待った。

点滴が終わり、女性は少し顔色が良くなった。自分で会計を済ませ、病院を出たところで、俺は聞いた。

「あてにしていた人がいなかったんですよね?今日はどこに泊まりますか?ビジネスホテルの空きがあるか聞いてみましょうか?」

女性はどうして良いのか自分でもわからないのだろう。何も答えようとしない。キャリーケースは俺の車に乗せたままだ。仕方なく、俺は言った。

「とりあえず、今日は私のところに泊まりますか?ただし、私は独り住まいです。私に邪な気持ちはありませんが、橋本さんが私のところに泊まるのに抵抗あるならビジネスホテルを探してみます」

女性は弱々しく首を振って言った。

「申し訳ないですが、お宅に泊めてもらえますか」


家に着き、橋本さんを妻が使っていた部屋に案内した。家に帰るまでの車の中で俺は簡単に自己紹介し、離婚して一人暮らしであることも伝えた。妻が使っていた家具類はそのままにしてあったので、妻のベッドに寝てもらった。

俺は買い置きしておいたレトルトのお粥をだして、レンジで温め寝室に持って行った。

「よかったら食べて下さい」

「ありがとうございます」

「私は、明日は仕事なので、朝早く出て行きます。家の中の物は自由に使って下さい。体調が整えばそのまま出て行ってもらってもいいですし、体調が戻らなければ、明日もここにいてもらって構いません。スペアキーはここに置いておきますので、もし出て行かれるのなら郵便受けに入れておいてください。」

「見ず知らずの者に、家を自由に使わせていいのですか?」

「取られて困るものは何もないですから。それに、香川県の高松市から来た橋本希代美さん、33歳ということは知っていますから、見ず知らずとは言えませんよ」

俺が笑いかけながらそう言うと、橋本さんは初めて笑った。


翌日、仕事から帰ると橋本さんは食時の用意をして待っていてくれた。

「体調はどうですか?」

「だいぶん良くなりました」

「料理を作ってくれたのですね」

「冷蔵庫にある物を使わせてもらいました」

食事をしながら、ポツリポツリと、橋本さんは事情を話してくれた。

幼い頃に父親を亡くし、母親が水商売をしながら自分を育ててくれたということだ。希代美さんが高校3年生の時に母親が再婚したが、新しい父親が希代美さんを見る目は、女を見る目だったので、身の危険を感じた希代美さんは高校卒業と同時に家を出て、水商売を始めたらしい。男性遍歴はそれなりにあったが、どの男も水商売の女性相手の遊びという感じで、結婚には至らなかったそうだ。ところが、2年前に東京から転勤で来た男性と深い関係になり、結婚の話まで出たそうだ。その男性が転勤で東京へ戻ることになり、東京で一緒に暮らそうと言ってくれた。希代美さんは東京へ行く準備をして、仕事も辞め、アパートも引き払ったが、そこからその男性と連絡がとれなくなった。もらっていた名刺に電話をしたが、まったくの別人が電話に出た。騙されたのだと思ったが、最後の望みで、東京で一緒に住む予定だったマンションの住所を聞いていたので、あの日そこまで行ってみたが、まったく知らない人が住んでいたということだった。

「お金とか取られてないですか?」

「マンションを借りる敷金が足りないというので、20万円だけ出しました」

「ひどいことをする奴がいるものですね」

「見抜けなかった私が馬鹿だったのです」

「それで、どうするのですか?高松に帰るのですか?」

「まだ、何も考えられないです」

「そうですか。うちは、しばらくいてもらっても構いません。どうするかゆっくり決めれば良いですよ」

希代美さんはジッと私を見た。

「離婚してお一人で住んでいるということですが、あの部屋は奥様が戻って来てもいいように、そのまま残していらっしゃるのではないですか?」

「妻は現在ニューヨークにいます。おそらく日本には帰ってこないでしょう。あの部屋は片付けるのが面倒なので、そのままにしておいただけです」

俺は妻との離婚の経緯を説明した。

「寝室は中から鍵が掛けられるようになっていますから、寝るときに心配なら鍵をかけて寝て下さい」

「寝室に鍵が掛けられるのですか?ご夫婦だったんでしょ?」

「私もそうですが、妻も寝室で仕事をすることがあったのです。妻もクリエイターでしたから、自分のデザインを発表前に私にみせたくなかったのでしょう」

「それにしても、夫婦なら…」

希代美さんが言いにくそうに言い淀んだ。

「ああ、この家は6年前に購入したのですが、そのずっと前から妻とはレスでした。ですから、寝室も別々でしたし、お互いの寝室に入ることもなかったのです。それで家を購入するときに妻が鍵をつけるように注文したんです」

「でも結城さんはまだお若いのに…」

どうやら俺の性欲の心配をしてくれているようだ。

「東京は、お金さえ出せば、いくらでも遊べる場所はありますから」


希代美さんとの奇妙な同居生活が始まった。希代美さんは日に日に明るくなってきた。バスに乗って買い物にも行くようになった。掃除、洗濯、炊事と、家事はすべて希代美さんがやってくれた。料理は派手なものは作らないが、どれも味付けがよく美味しかった。

俺は普段は夜7時に事務所を出て、家に帰るのは8時半くらいだったが、希代美さんは俺が帰るまで食べずに待ってくれていた。待たずに先に食べてくれれば良いと言うのだが、頑なに待っていた。お客さんとの会食で食べて帰る日でも、どんなに遅くなっても、お茶漬けなどをすぐ作れるようにして待っていた。

ある日、お客さんとの打ち合わせがキャンセルになり、普段より早く家に帰った。希代美さんはこんなに早く俺が帰ってくるとは思っていなかったのだろう、風呂上りの下着姿のままリビングにいた。俺は「ごめんなさい」と謝って、慌てて自分の部屋に上がった。年甲斐もなく、胸がドキドキしていた。

翌日俺は、希代美さんにはお客さんとの会食と言って、一人で外食をし、風俗へ行った。昨日の希代美さんの下着姿を見て、このままじゃあ希代美さんに対して自制がきかなくなりそうだと思ったからだ。かなり遅い時間に帰ったつもりだったが、希代美さんは寝ずに待っていた。

「先に寝ていれば良かったのに」

「これくらいの時間は、全然平気ですよ。お茶漬けでも食べます?」

「いや、いいよ。もう風呂に入って寝るから」

「あれ?」

「どうした?」

「なんか、ボディーソープの匂いがする」

「そんなことないだろう。もう寝なさい。お休み」

俺は、女房でもないのに、何故慌てているのだろう。


希代美さんの風呂上がりの姿を見て以来、俺は希代美さんを女性として意識し出した。そうすると、食事をしながらの会話もぎこちなくなってきたのが自分でもわかる。すると、それが希代美さんにも伝わったのだろう。ある日希代美さんが聞いてきた。

「私、そろそろここを出た方がいいですか?」

「どうして?」

「なんか、結城さん、私を避けているような気がして」

「そんなことないよ。それより、この先どうするのか決めたの?」

「高松に帰っても仕方ないので、東京で仕事を見つけようと思っているのですけど、私に出来そうな仕事が見つからないので、また水商売かなって思っているところなんです」

テーブルの上には求人雑誌が何冊か積み重ねてあった。

「もう水商売はやめておいた方がいいよ。高松より東京の方が手慣れたお客さんが多いから、希代美さんは人がいいので、また騙されそうな気がするよ」

「やっぱりそうですかね。私にできる仕事があるかなあ。仕事がみつかるまで、ここにいていいですか?」

「それは構わないよ。こうやって家事をしてくれているのは助かっているし」

「では、お言葉に甘えて、もう少しいさせてもらいます」

その日、俺が寝室のベッドで本を読んでいると、ドアをノックする音がした。俺の部屋には鍵はついていない。何かあったかと思い、

「どうぞ」

と返事をすると、希代美さんが部屋に入ってきた。

「どうしました?」

希代美さんは、ベッドの前に正座して座った。そして、俺の顔を見ながら言った。

「結城さんは、我慢しているのではないですか?」

「なにを?」

「この前、ボディーソープの匂いがしたのは、風俗へ行ってきたからではないのですか?」

やはり気づいていたか。

「私が同じ屋根の下にいるから、ムラムラとして風俗へ行くのではないのですか?」

「確かに、風俗へ行きました。でも、それは私にとっては普通のことで、妻と離婚するずっと前から、定期的に行っていたので、今に始まったことではないです。だから希代美さんがここにいることとは関係ありませんよ」

「風俗に行くより、私を抱こうとは思わないんですか?」

「それと、これとは違います。風俗の女性には申し訳ないが、私が風俗へ行くのは性欲の解消のためです。私は希代美さんを性欲解消の対象にしたくありません」

「私は性欲の解消のためでも構いません。これだけ親切にしてもらっているのに、私は結城さんに何もしてあげられないのが心苦しいです」

「そんなことはないです。家事もちゃんとやってもらっていますし、何より、一人暮らしで寂しい生活だったのが、希代美さんが来てからは楽しいです。私は、それだけで充分です」

「私は、魅力ないですか?」

「そんなことはないです。希代美さんは綺麗だし、充分魅力あります。でも、男女のそういう行為は、お互いの気持ちが大切だと思います。私と希代美さんは12歳も年が離れています。そういう関係になるには、あまりにも年が離れすぎています。希代美さんは、これからは自分を大切にして、新しい出会いを待つべきです」

希代美さんは、悲しそうな顔をして部屋を出て行った。


希代美さんが同居してから1か月が過ぎた。希代美さんは駅前の喫茶店で1日5時間のアルバイトを始めた。少しずつお金を貯めてマンションを借りて独り立ちすると言っている。求人誌を見ながら就活を始めたが、ことごとく履歴書審査で落ちていた。高卒で、それ以降の職歴が水商売しかないので、まともな企業は採用してくれなかった。それでも久しぶりに外で働くことで、希代美さんは活き活きとしている。希代美さんが働き出したことで、家事の分担を決めた。といってもほとんどの家事は希代美さんが受け持つが、ゴミ出しの缶類やビン類の分別ゴミは場所が離れているので、俺が朝通勤時に車で持っていくことにした。それ以外にも、週に1回の風呂掃除は俺が担当することにした。取り決めをした翌日、家に帰ると、缶類とビン類のゴミ箱の上に『結城さんの担当』と書かれたポップが張られていた。そのデザインはとてもセンスが良かった。風呂場に行くと、入り口の扉に、俺のキャラクターと思われる絵が描かれ、吹き出しで『週に1回、ボクが掃除するよ!』と書かれていた。俺は、そのキャラクターに目が止まった。すごい。フリーハンドでこれだけのセンスの絵が描けるなんて。

「希代美さんは、昔から絵とかマンガを描いていたの?」

「絵は好きで、小さい頃から書いていましたよ。風呂場の絵、結城さんですよ」

「ああいう絵は、他にも書けるの?」

「学生時代から、友達のキャラクターの絵は書いていました」

「何か、他に描いたものない?見せてよ」

「あったかなあ」

希代美さんは自分の部屋に行って色々漁ったようで、しばらくしてから大き目な手帳を持って戻って来た。

「これはクラブで働いていた時の、お客さんメモ。お客さんの顔を絵で書いていたんです」

すごい数のキャラクターが書かれていた。統一性はあるが、その人物の特徴が描かれている。コメント欄には独自のキャラクターが描かれ、お客さんの印象をキャラクターがしゃべっていた。

俺は、カバンから一枚の資料を出した。

「この資料を読んで、その内容をイメージしたキャラクターの絵をかいてみてくれないかな」

それは、ある企業が出したコンペの課題だった。企業イメージのキャラクターを募集しており、この仕事が取れたら大きな取引になるので、うちの事務所もコンペに参加する予定だったが、社内で良いキャラクターがなかなか出てこなかった。

希代美さんは、資料を一読したあと、サラサラと絵を描き始めた。出来上がった絵を見て、俺は確信した。間違いなく希代美さんは、キャラクターデザインの才能がある。

「この絵、もらってもいい?」

「いいですけど、そんな絵、何に使うのですか?」

「それは今度ゆっくり話すよ」

俺は自分の部屋に籠って、その絵を急いでデーター化した。


希代美さんがデザインしたキャラクターはコンペで採用された。今後その企業のCM、ポスター、ノベリティグッズなどに、希代美さんがデザインしたキャラクターが使われることになった。

「こんなに頂いていいんですか?」

俺がキャラクター制作に対する当然の報酬を渡すと、希代美さんは目を剝いて驚いた。

「それから、うちの事務所の専属デザイナーとして雇用したいんですが、いかがでしょう?」

「結城さんの事務所で働けるのですか?嬉しいです」

「これで、無事に自立できますね」

俺がそう言うと、希代美さんは一瞬固まって、寂しそうな顔をした。


その夜、また寝室のドアがノックされた。

「どうぞ」

入ってきた希代美さんは悲壮な顔をしていた。

「私、ここを出て行かなければいけないですか?」

「でも、いつまでもここにいても仕方ないでしょ?」

「私、ずっとここにいたいです」

俺は返答に窮した。

「以前結城さんは、男女のそういう行為は、お互いの気持ちが大切だと言いましたよね?」

「ええ、言いました」

「あれから結城さん、何度か風俗へ行きましたよね?」

俺は何と返事していいのかわからなかった。

「別に、風俗に行くことを責めているんじゃあないんです。私、結城さんが風俗へ行ったのに気が付くと、とても辛いんです」

「ええ?どうして?」

「風俗の女性に嫉妬しているんです。私は結城さんとキスもしたことないのに、風俗の女性は結城さんとキスしている。私は結城さんの裸に触れたことがないのに、風俗の女性は結城さんの素肌に触れている。そう思うと、嫉妬で胸を搔きむしりたくなるくらい、苦しくなるんです」

俺は、黙って聞いているしかなかった。

「私、結城さんが好きなんです。今まで出会った人とは比べものにならないくらい、結城さんが好きなんです。だから、私をここに置いて下さい」

「私と、希代美さんは12歳も年が離れているんですよ」

「そんなの大したことじゃないです。私が50歳になった時に、結城さんが62歳になっているだけのことです。そして、私が60歳になった時に、結城さんが72歳になっているだけのことです。私にとっては何も問題はありません。お互いの気持ちが大切だというなら、私の気持ちは充分あります。結城さんはどうなんですか?」

俺は、もう自分の気持ちに抗うことは出来なかった。

「こんな、おじさんでいいんですか?」

「さっきから、いいって言っているじゃないですか!」

希代美さんは、そう言って俺のベッドに入って来た。そして、引きちぎらんばかりに俺のパジャマを脱がし、俺の素肌に触れてきた。


俺の腕の中で、余韻に浸っている希代美さんに俺は言った。

「これからは一緒に通勤することになるね」

「じゃあ、席が一つしか空いてないときは、今度は私が結城さんに席を譲ります」

「いいよ。希代美さんが座れば」

「席を譲られた人は、とても幸せになるんです。私は結城さんを幸せにしたいんです」

俺はいつの日か、席を譲った方も幸せになれるんだということを教えてあげようと思った。

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