第2話ナポレオン=ボナパルト
今日はナポレオン・ボナパルトについて。
取り敢えず、流れを書きます。テスト勉強のようで詰まらないので、逸話まで飛ばしてもらって構いません。
高校生は読むように。
ナポレオンは1796年、イタリア派遣軍司令官としてオーストリア軍を破り、有名人となる。
更に、1798年、敵国イギリスとインドの連絡を断つためにエジプトに遠征。その遠征中、1799年、ロゼッタ=ストーンを発見する。
同年、11月に総裁政府を倒し、3人の統領からなる統領政府を樹立。
第一統領となって、事実上の独裁権を握った。(ブリュメール18日のクーデター)
1789年以来10年間続いたフランス革命は終了して、1793年には徴兵制が導入され、国民意識が強まり平等な市民が国家を編成するという国民国家の理念が生まれた。
ナポレオンは1801年フランスと対立関係にあった教皇と和解。
翌年、イギリスとも和解。(アミアン和約)
1804年ナポレオン法典を公布。
ナポレオンは絶大なる人気を得て皇帝に即位。ナポレオン1世と称した。(第一帝政)
1805年イギリス、ロシア、オーストリアなどは第3回対仏大同盟を結成し、イギリス海軍がフランス海軍をトラファルガーの海軍で破った。
しかし、ナポレオンはオーストリア、ロシア軍をアウステルリッツの三帝会戦で破る。
1807年プロイセン、ロシア連合軍を破りティルジット条約を結ぶ。
しかし、ナポレオンのほころびが。
プロイセンの思想家のフィヒテが愛国心を鼓舞する中、シュタイン・ハルデンベルクらが農民解放などの改革をして、プロイセンがドイツ統一の基礎を作る。
ナポレオンは1812年大軍を率いてロシアに遠征したが失敗した。
原因は冬将軍。寒さに勝てなかったからだ。これをきっかけに、ナポレオンは転落する。
ライプツィヒの戦いで諸国はナポレオンを破り、ナポレオンはエルバ島に島流し。
1814年、ルイ18世が王位について、ブルボン朝が復活。
1815年、ナポレオンはパリに戻って皇帝に復位したが、ワーテルローの戦いで大敗し、南大西洋のセントヘレナ島に島流しになった。
逸話
ナポレオンは遠征中必ず赤ワインを持って行く。それが、赤ワインのジュヴレ・シャンベルタン。村のジュヴレを村長が付けて今の呼び名して格上のワインとした。
それをこよなく愛した。
また、缶詰めに繋がる瓶詰めを考案したのはナポレオン。
ガラス瓶詰めにして、加熱処理した。遠征では美味しい食事が兵力に繋がると考えていたからだ。
また、ショートスリーパーで3時間しか睡眠時間は無かったと言われている。
これだけ、栄光と挫折を味わった人物も少なかろう。皇帝まで上り詰め、島流しに遭うとは。
ナポレオン=ボナパルトの話は色んな参考書が出ているので、そちらをお楽しみ下さい。
では、また次回。
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