轟孝夫『ハイデガー「存在と時間」入門』とそれいけ! 哲学道

轟孝夫『ハイデガー「存在と時間」入門』を読む。実を言うとぼくはハイデガーの『存在と時間』はいつも「気分転換」に読む(そして、たいてい第一巻で挫折する)。もちろんぼくは何ら専門的な哲学的教育/修練をほどこされた人間ではない。したがって、ハイデガーなんてわかるわけもない。でも、そんな「わからない」人間としていさぎよく白旗を揚げて、ただ文面から見えてくるものに忠実になろうとして読むと「なんとなく」見えてくるものはあるような気がするから不思議である。でも――もちろん、自分の無知無教養を思いっきり棚に上げて言うと――哲学書とのつき合い方なんてそんな感じでいいのではないか、とさえ最近は思い始めてきた。思えばぼくは村上春樹を好んで読むけれど、それにしたって春樹からすれば「立派な誤読」という可能性だってあるわけだ。そして、「立派な誤読」が「生産的な読書」につながる可能性だってゼロではない……というのはあまりにも夜郎自大(?)というものだが、ともあれぼくは哲学のプロじゃなくて、それでいままで怒られることもなかったので「まいっか」と思ってこうして感想をくっちゃべっている。


轟孝夫のこの本を読んで、ぼくは難解として知られる(そして筒井康隆や木田元など、日本でも多くの識者を惹きつけてきた)『存在と時間』の本丸に一歩近づけたような気がした。ぼくが『存在と時間』を好むのはその素朴過ぎる態度にある。たとえば、『存在と時間』では「存在の問い」が問われる。つまり、なぜこの世界はあるのか、なぜ自分はここにいるのか、といったように。でも、こうした基本的なことをいちいち問うていたら日常生活はとてもじゃないけれど成り立たない。それは呼吸を意識しすぎたら他の所作に集中できなくなって止まってしまうのと同じだ。その「存在の問い」はそして「問う」こと、「誰か」に宛てて言葉を投げかけるということから始まるのであってしたがって自分を出た「誰か」の存在が必要となる。こうして「問う」ことはそのまま自分自身を出て外とつながること、外の世界が返す言葉を知ることとつながっていく。自問自答? それにしたって、自分に向けて問うことはそのまま「自分の中の他なる部分(たとえば無意識など)」に答えを求めることではないか?


轟孝夫の分析は実にていねいでフェアネスに貫かれたものだ。いま、ハイデガー『存在と時間』を読むということは実はさほどたやすくない(ぼくも今回の読書でこの事実をあらためて学ばされた)。ハイデガーとナチ絡みのスキャンダルを踏まえた読みが要請されるし、もしくは『存在と時間』が未完の書であることだって押さえておく必要があろう。轟はそうした基礎を押さえつつ、『存在と時間』のベースとなる概念を平たい言葉で説明してくれる。「現存在」「世界内存在」「頽落」などなど。おかしなことに、こうして轟のような論者がていねいに教えてくれる言葉からぼくはついつい「よし、これで『存在と時間』を読破できる!」と思ってしまう。でも、そんな喜びはいざ当の『存在と時間』に向かってしまうと急にしぼんでしまう。これは轟のような解説者/研究者が説明する基礎概念を、ぼくはまだ「自家薬籠中の物」にできていないということを意味する。まだまだ修行が足りない、と言える。


でも、ならハイデガーや轟は「修行しまくった」「異次元の」人たちなのか。いやもちろん、ぼくとはケタ違いの学識/教養を持った人であることくらいぼくにだってわかることだ。しかし肝心のハイデガーが設定するアジェンダ(議題)はどうだろうか。ぼくはあえて言うけれど、ここまで丹念に「存在」の謎/神秘を追究したハイデガーは「子ども」の感性を持った人だったのではないかと思えてならない。そしてその「子ども」の感性から放たれるあまりにも新鮮な思索を、轟はスノッブな味付けを禁欲した「臭み」のないものとしてこちらに出してきた印象を受ける。ここから見るべきは、哲学者の見る風景もぼくたちの見る風景も「同じもの」である、ということだろう。そして、第五章の末尾に書かれている言葉をなぞって言うなら『存在と時間』は「道」なのだ。つまり、通過するためのものであり『存在と時間』そのものが終着点ではない。絶対的真理でもない。「これで終わり」的なものでもない。ならば、この「道」を通ってみることがぼくをして新たな進化を遂げさせるのかもしれない……轟のこの本はそんな勇気をも与えてくれる1冊だとも思った。

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