坂本龍一『坂本図書』と「浮気なぼくら」の読書の形

坂本龍一『坂本図書』を読み終えて、あらためて「坂本龍一とは(誰だったのか)?」といったことを考え始めている。というのは、ぼくは坂本龍一とはいったいどういう人だったのか、いまなおつかめていない。だから、それについて考えると胸のあたりがもやもやしてくるのだった。ほんらいならこれはおかしな話で、元来小林秀雄だったかが喝破したように人というのは亡くなってしまえばその発言内容や活動が枝葉末節を切り落とされて、ある種の「わかりやすいイメージ」に落とし込まれてしまうものだろう。それはもちろん、決して批判的にのみ捉えられてはいけない話でもある。亡くなった人に対してはその業績を静かに称え、至らないところは反面教師として学び、そのようにして「送る」……それが礼儀というものだとは思う。でも、坂本龍一に関して言えばぼくはいまなお「いったい誰だったんだあの人は?」と思わなくもないわけで、そんなもやもやを払拭するためにYMOや坂本のソロ、あるいはアルヴァ・ノトやフェネスなどとのコラボを聴いたりする毎日を送っている。完全に手のひらの上で踊らされているな、と思いつつ。


『坂本図書』は、帯文によれば「無類の本好き」だったという坂本龍一がその生涯を掛けて読み込んできた本について触れ、それらについて書評的なコメントを行い同時に彼の回顧録的な文を盛り込むといったコンセプトで成り立っている。いわば、「本を語る」坂本龍一のその語りから、それらの本のみならず同時に「坂本龍一という人物・人生のあり方」まで見えてくるという濃い1冊と言えるのだ。読みながら、あらためてこの坂本龍一はまったく読書傾向がつかめない「ヌエ(鵺)」のような人だと思った。その関心領域は実に広い。村上龍や中上健次といった彼の盟友たちの本、あるいは坂本自身がシンパシーを抱いたであろうジャック・デリダの本が入るのは理解できる。でも、それら以外にも夏目漱石や石川淳といった日本文学の古典やあるいは井筒俊彦ならびに九鬼周造といった日本の哲学が入り、同時に生物学や時間論のハードな本が入り込む。いったいこの人の関心領域の「メイン」は何だったのだろう、と言葉を失う(何なら「脱帽する」と言ってもいい)。


そうした、いい意味でガチガチに「メイン」を決めて系統立てて読むのではなく(とはいえ、ミーハーに流行りの分野をヒョイヒョイ「食い散らかす」読書でもなく)己の関心に忠実に、「内なる声」に沿って読んでいく坂本の読書は実にしなやかだ。そしてごく自然に、自分の理解の及ぶところと及ばないところを切り分けて虚心坦懐に本と向き合い、そこから何かを学ばんと謙虚にして貪欲な姿勢を保ち続けている。この謙虚さと貪欲さはぼくも見習いたいと思った。その姿勢あるからこそ、こうしたさまざまな関心領域は坂本龍一という1個の頭脳、いや肉体まで含めた1個の生命体の中で融合したのだろう。別の言い方をすれば、坂本龍一はピアノを弾き紛れもなく世界レベルの音楽を作り上げた人ではあっただろうけれど、同時に「世界を駆ける知識人」でもあったのではないか。いや、「知識人として」単著など教授は残したことはなかったような気がするのだけれど、それでも発言や交流からそのように整理する誘惑をぼくは抑えきれない。


そうしてアマルガムとしてさまざまな時間や生命、哲学や音楽、映画や文学から得たものを音楽や発言として発露してきた教授とは、一口で言えばいまなお実に「ミステリアス」な存在である。ぼくは単純で愚鈍な人間なので、どうしたって他人をレッテルを貼ってわかりやすく図式に落とし込むクセがある。だけど、教授の場合このわかりにくさ、ミステリアスさは別格でそのまま「人間とは、実に多面的で多動力を備えた存在なのだ」という当たり前の驚異を確認させてくれる。人間は実に、いろんなことをしてしまうバイタリティにあふれている……もちろん、こうしたコメントは「過褒」どころか「褒め殺し」というもので実際の教授はただ単にスノッブな、知的な意味で尻軽な人だっただけなのかもしれない。ならば、そんな尻軽な教授が「ハンティング」した本たちの記録をこうして読むことは多面体としての教授を新たな角度から確かめることであり、そこから「人とはこのようにして読書で自分を形作ることができるのだな」という驚異を再確認させてくれる、と言ってもいいと思ったのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る