岡真理『ガザに地下鉄が走る日』と「人間とは何か」という問い

人の中にある「人間らしさ」とは何だろう? 岡真理『ガザに地下鉄が走る日』を読むとそうした単純かつ本質的な問いにいま一度思いが至る。この問いを敷衍させるなら、ぼくならぼくがその「人間らしさ」を失う瞬間があるとすればいつになるのか、そしてそれはどんな形で現れるのだろうか、ということになる……この『ガザに地下鉄が走る日』を読もうと思ったのは、知られるとおりいまもっともホットな政治問題としてイスラエルとパレスチナをめぐる情勢がトレンドに上がっているからだ。とはいえ、日本に住むぼくに彼の地のリアルな情勢などわかるわけがない。ニュースで仄聞することやソーシャルメディアで知ること、あとはこうして読書や映画などを観て得ることなどが主となる。でも、そうした「偏った」「ヴァーチャルな」情報からでも(まさに岡が記しているような)彼の地で行われてきた「非人間」的な行為の生々しさは十二分に伝わってくる。


これは「誇大妄想狂」と批判されることを覚悟の上で言えば、『ガザに地下鉄が走る日』を読んで思ったのは「『夜と霧』が決して過去のものではない」ということだ。フランクルのあの著作で、まさにユダヤ人たちはナチスの優生思想の元に粛清され、何ら罪を犯したわけでもないのに生きる権利を奪われた非人間的な事態の一端に触れることができる。いま、岡の本を読むとそうした「民族浄化」的な(それこそ「誇大妄想」とも思える)行為がまかり通っておりそこから多数の難民があふれ出ていることがわかる。歴史の皮肉を思うのは、かつてそうして粛清の経験をくぐり抜けざるをえなかったユダヤ人たちもまた「敵は殺せ」という主義に染まっていることが本書で指摘されているからだ。とはいえ、恥ずべきなのはむしろこのぼくの方で「過去にあんな惨禍をくぐりぬけたのに」と思ってしまうナイーブな(単純極まりない、とも言える)世界観を自覚させられてしまった。裏返せば「敵は殺せ」という主義はそうした惨禍をくぐり抜けてもなお相対化されない、実に魔性の強度を備えた思考なのだということをいま一度確認しなければならない。


そしてその「敵は殺せ」という主義が名指し、憎悪の対象と指し示すプロセスから生まれた難民たちはいったいいま、どんなリアルを生きているというのだろうか。本書は2018年に刊行された本だが、いまなおここで記されている論考には相当な凄味が感じられる。難民たちは子を産み、その子たちは難民二世となる。彼ら(とりわけ生まれ落ちた時点で難民である宿命を背負わされた「二世」)は、ぼくのような日本人が持つ権利を根こそぎ奪われた状況で祖国も持たずにさまようことになる。ぼくが持つ権利とは具体的に挙げていけば最低限の衣食住(別の言い方をすれば身の安全)が保証されており、戸籍があり、パスポートがあり、いざとなれば国家が守ってくれる環境だ。そんな環境を持たない難民の苦悩をいま一度思い知らされてしまう。彼らは死ぬに死にきれず、生きていてもロクな未来・希望を描けず、したがって明日死ぬかもしれない絶望のさなかにあって退廃した生活(たとえばドラッグに溺れるなど)を送らざるをえないのだ。


そんなイスラエルとパレスチナをめぐって、何かできることはないだろうか? と考える。ぼくにできそうなことの1つは、いま一度ぼくが何の狂信にも染まらずしたがって「人間らしさ」を失っていないか、その可能性を自省することだ。これは決して「言葉遊び」をしたいわけではなく、たとえばアルゴリズムが弾き出すデータに保証されて「見たいものを好きなだけ見られる」ネットという環境になれてしまうとついつい「敵は殺せ」的な過剰な正義の暴走に染まってしまう危険性が考えられる。その「敵は殺せ」的な正義(あるいはそれこそ狂信)から実際に人を殺めるステップまではそう遠くないのではないか。そう考えて、そこから敵味方関係を乗り越える友愛を真に練り上げること。そうした骨太の平和主義・博愛主義は可能なのか。人と人が触れ合う限りどうしたってつきまとう争いを乗り越えて『ガザに地下鉄が走る日』を実現させることは可能なのか。それが21世紀の『夜と霧』的な状況を知るぼくたちに対して大事な課題の1つとして問われているのではないか。

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