山口仲美『日本語が消滅する』とおっとり刀のナショナリズム

言葉とは何だろう、と考えてしまう。あるいは、その国に住みその国を愛するナショナリズムや愛国心、ひいてはアイデンティティとは何だろう、と……山口仲美『日本語が消滅する』を読むと、ぼくは否応なしにこのぼく自身の内側にあるこのアイデンティティ/自我について思いを馳せてしまう。その自我を作り上げたのはぼくが40年以上この日本という国で育ってきた経験によってであり、したがって好むと好まざるとにかかわらず日本という国の風土はぼく自身の血肉と切り離せないものであるとも言える。たとえば、ぼくはどうしたって寿司や刺身や冷奴に心がときめくし、夏目漱石や谷崎潤一郎を原語で読めることにも喜びを感じたりもする。ぼくは自分なりに英語を学び、おっとり刀の英語で海外のDiscordのユーザーたちとチャットを楽しんだりもするのだけれど、矛盾する言い方になるのだけれどそうして「異文化」に触れれば触れるほどこの日本という国や文化が実に面白いバランスで成り立つものだという実感を新たにする。


『日本語が消滅する』では、実際に日本語がこの地球上から消えてしまう可能性がさまざまにシミュレートされる。この国には実に7000ほどの言語が存在するというが、現在総勢1億人ほどが使っているという日本語でさえも自然災害や同化政策や少子化といったさまざまな要因によって「消滅する」可能性が十分にありうると指摘されている。そして、そうした災害や政治的なコンフリクト以上に起こりえそうな可能性として挙がるのが、ご存知のとおり世界を席巻するグローバル化である。「自発的に」、つまり経済的な利益や簡便性から日本語が他の言語に取って代わられる可能性だ。ぼく自身この論旨の展開を最初は「またまた、『日本語が消滅する』だなんて大げさな……」と構えて読んでいた。だけど次第に、「あながちホラ話でもないのだな」と「蒙を啓かれる」思いで読み進めてしまった。そしてそこから、「日本語が消滅する」ということがいかに損失でありうるかについても思い知らされてしまったのである。それがぼくが冒頭に書いたぼく自身の中に根付いている民族的・国民的なアイデンティティのことだ。その意味で、この本を読むことは日本人としての矜持を(再)確認するということでもあるのではないか?


そうして「日本語が消滅する」ことは端的に、言葉によって自我を安定させているこのぼくの心の平安が失われてしまうということである。難しい話ではなく、たとえばまったく言葉が通じない世界に投げ込まれてしまった時に感じる混乱を思えばつかめることだ。あるいは、言葉はそのままこのぼく自身のアイデンティティを作り上げ「世界の見方(価値観・世界観)」をも作り上げている。ということは、言葉が失われればその言葉に内在していたそんな「世界の見方」までも失われるということになる。そんな可能性を指摘する山口仲美の筆致は実に熱い。こちらの情というかパッションに訴えかける熱があり、こちらもついついノセられてページを繰る手が止まらなくなる。そこからさまざまなことがらについて考えることも可能だろう。どのようにして日本語を守るか、あるいは異文化理解・共生を目指すか。ここから建設的な議論へと結びつけるべく、ぼく自身も水村美苗『日本語が亡びるとき』を再読しようかと思った。


ただ、この本がフォローし切れていないことがらもあるのではないかとも思う。そもそも「日本語が消滅する」原因のグローバル化(英語が「世界言語」となる現象)を支える一部の日本人の英語コンプレックスにメスが入っていないということ。あるいはこの本の議論を敷衍していくならそのまま日本という国がたどった政治的な背景についてもメスを入れていかなければならない。いや、もちろんこの2つは「ないものねだり」というものでしかない。この本はすでに日本語という言葉の特性や美点をこの上なく如実に指し示し、そこから日本語が使える幸せについても、そしてその日本語に誇りを持つことの大事さも実にわかりやすく、かつ熱く説いている。それだけでもぼくとしてはリスペクト/畏敬に値する。そして、この本をたたき台としてもっと日本の文化を見つめ直し同時に海外の文化に対しても畏敬の念を抱く、そんな国際人になりたいと思ってしまった。

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