柄谷行人『言葉と悲劇』と厚顔無恥の功徳
「書く」ではなく「語る」思想家や批評家の可能性について、最近ぼんやり考えるようになった。これは少し前に茂木健一郎『脳と仮想』を読んでいたところ、「語る」小林秀雄の講演の魅力について触れられていたので「そうか、推敲が可能でありしたがって何度も練り上げられて鍛えられる『テクスト』も大事だけど、ライブ感が増している『講演』『対話』も面白いのかもしれないな」と思い始めたからだ(もちろん講演録とは結果的に文字起こしした『テクスト』で発表される。だからいくらでも推敲が可能ではあるとも言える)。それでぼくは今回この『言葉と悲劇』を読んでみて、柄谷行人が筆をいったん置いて『語る』ところからはじめた彼の思想からあらためて多くを学ばされた。とりわけ、今回の読書ではぼくは柄谷の関心領域が広いことを思い知らされた。江戸の思想や西洋の哲学、あるいは文学や広告などの大衆文化、マルクスに代表される経済学まで多彩な領域をカヴァーした「懐の深い」人であり、同時にその問題意識として実にわかりやすい、明瞭なことがらを「語る」人だと思ったのだ。
ぼくは実を言うとマルクスを読んだこともなく、恥をかくことを恐れずに告白すればここで語られている西田幾太郎やスピノザにしてもぜんぜん知らない。さすがにデカルトはかじったことがあるけれど、その理解たるやお話にならない。ほかにもフォローできていない領域だって多々ある。それがあらためてわかったので、そんな不勉強なぼくとしては「これはやはり哲学や数学においてせめて柄谷の十分の一ほどの修練は積まないことにはとうていかなわないな」と思ったのだった。でもそんな「かなわない」ぼくなりに読み取ったのは、柄谷が設定する問題意識が実に「ぼくたちにとってどうにもならない」「所与」の条件を問題にしていることであり、言い方を変えるなら「当たり前」すぎることがらのその内奥を見据えようとしているということだった。その意味で柄谷の本を読んでいて抱く感覚はそれこそウィトゲンシュタインにも似ていて、あまりにも「自明の理」のことがらを突いているがゆえにアクチュアルだと思ったのだった。
柄谷は(有名なタームとして)「他者」と「共同体」について語る。ぼくたちが住むこの世界は、たとえば言葉なら言葉がくまなくすべてを包み込んだ世界である。あるいは人類がすでに踏破した世界とも言える。いずれにしても「まったくもって手つかず」ではない。それが柄谷が語る「共同性」ということなのだろうと理解する。言い方を変えれば、世界の裏側とされるところまで行こうがぼくは「このぼく」の主観を脱して語ることができない。その「このぼく」の主観ではついに予知/予測できずに訪れうるもの、それを「他者」と呼ぶのだろう(理解できていないのでとりあえず「だろう」と書いた)。だが、この「他者」とは「あたりまえ」にぼくたちの生活に存在する要素ではないだろうか。難しく考える必要はない。ぼくだって「このぼく」の「他者性」(つまり「このぼく」の中にまったく予想していなかった要素が存在いするということ)に恐れおののくことがあるからだ。デカルトやスピノザを引く柄谷にならってそうした「このぼく」(それは「コギト」なのかもしれないし「身体」なのかもしれない)について考えるのは実にスリリングだ。
そうして敷衍して考えていくと、柄谷の思考が実に面白いことがわかる。ただ、それはぼくが自分勝手に柄谷の書いたものを料理することで成り立つ(つまり、ぼく自身の無知や無教養をギリギリのラインで「うっちゃる」形で読んでいるわけだ)。それは柄谷を読んだことになるのだろうか。あるいは、そうしてオープンソースとして柄谷を「使う」ことはどこまで有効なのか。いや、思想に限らず本なんてぼくはマジメに読むよりもこんなかたちで「使う」方が面白いとも思うのだけれど、でもそれはさすがに「柄谷読みの柄谷知らず」であるはずだ。でたらめな和製英語を自分勝手にでっちあげてそれを使いまくったところでそれがその人が英語がペラペラである証左にはまったくもってなりえないように、ぼくもいったんここでガチで柄谷ほどの修練を積む必要があるのではないか、と思ってしまった。いや、そんな修練は耐えられっこないので結局ぼくはこんなふうに「いや、これは柄谷を『使う』のであってですね……」としたり顔で済ませるしかないのだけど。
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