柄谷行人『探究I』と結局つかめなかった蜃気楼

ぼくは読書メーターというサイトで読書の記録をつけているのだけれど、およそ3年前にこの柄谷行人『探究I』を読み通してその寸評を書いている。だけど、その寸評を読み返しても「え、こんな本だったっけ?」と感じる始末でありつまりは『探究I』にいったい何が書いてあったのか、これっぽっちも思い出せないという体たらくだ。この『探究I』に限らず柄谷行人の書くものはそうして、ぼくにとって蜃気楼のようにやっとつかめたと思ってもその瞬間に指の間をすり抜けていくそんな手応えのものとして立ち現れる。その原因としては、ひとえにぼくがアホだからということで片がつくのだろうと思う(もちろん本音です)。でも、負け惜しみを言えばそうしてぼく自身が記憶喪失者な読者だからこそ何度も『探究I』や『探究II』、あるいは他の柄谷のテクストを読み返して学び直せる楽しみというのがあるのだと思う。では、今回の読書でそんな記憶喪失者なぼくはいったいどんな蜃気楼の一端をつかめたというのだろうか。


ぼくはこうして言葉を書き記す。そしてそれを、あなたが(そして厳密にはこれを書いているぼく自身も)読み取る。それを柄谷は「教える―学ぶ」という図式で説明しようとする。その図式において「私自身の“確実性”をうしなわせる他者」(文庫版p.8)が現れる。それは「語る―聞く」ではいけない、と彼は書く。「教える―学ぶ」の関係では相手が知らないことをそれを知っている人が「教える」ということが前提となる。だが、その「教える―学ぶ」のやり取りで「教え」られたことが相手にとってはっきり「学」ばれたと言える時。それはどんな時なのだろう。いや常識的に言えば相手が「教え」たことを呑み込めた時となる。が、ウィトゲンシュタインを引く柄谷はその定義をさらに掘り下げ、そうして「学」ばれた時、呑み込めたと言い切れる時はどこなのかを問い続ける。それは「命がけの飛躍」を伴う、結果として蓋然的に(つまり、なんとなく/だいたいで)伝わったとしか言えない時である、ということになる……というのが柄谷のはじき出した結論になると言えるかもしれない。


というような整理から、柄谷はぼくたちの言葉のやり取りがいかに無根拠なものかを暴いていく。それはそのままマルクスを引いた貨幣(つまりお金)のやり取りの無根拠さと結び付けられていき、あるいはぼくたちの住む世界における真の「他者性」とは何かといった議論へと至る。確かにこうした議論は読めば読むほどスリリングではあるのだけれど、ではその無根拠なコミュニケーションの成り立ちを暴くことやもしくは「他者」への態度を学ぶことはいったい何を生み出しうるだろうか……と書いていって、たぶんぼくがいつまで経ってもこの『探究I』を読み通した気になれない理由がわかった。つまり、柄谷は柄谷の実存から生まれた問題意識を哲学や文学の語彙で語っている。これは貶すつもりで書いているのではない。誰の哲学ももともとはそうした個人の実体験(読書や実人生の経験など)がソースとなると考えるべきだろう。なら、そうしたことがらはぼくにとって結局柄谷が書き記すテクストで追体験/トレースするしかない。平たくざっくり言えば、ぼくは柄谷の哲学をヴァーチャルに体験するしかない。


でも、そう考えていくとぼくは誰の哲学だってヴァーチャル・フィロソフィーとして体験しているとも言えるわけで、そんなヴァーチャルなプログラムとしての哲学を自分の実人生で走らせようとして、当然ぼくは柄谷でも誰でもないわけだからおかしなことになる。ということで言えば、ぼくは今回の読み込みとこんな感想を書く作業を通して、結局ぼくは柄谷の哲学を参考にしてぼくの人生を生きるしかないと思った……というのがファイナルアンサー(古いかな?)ということになる。ただそんなふうに書いてしまうと、最初は未知のものとして(たぶんに「他者性」をはらんだものとして)現れた柄谷のテクストを自分にとって都合よく、口当たりのいいマイルドなものとして受け取ることになるのではないか、と一抹の不安を感じてしまいもするのだった。結局そのようにしてぼくは、今回の読書体験で得られたものもいい読み物だったという程度の感想で読み流してしまうのかな、と。そんな記憶喪失者なぼく自身こそがぼくにとって「他者」でありうる……と書いたら叱られるだろうか。

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