堀江敏幸『本の音』と愚直な職人芸

「なぜ本を読む?」。堀江敏幸『本の音』をこのたび再読し、あらためてそんな問いを自分自身に向けてしまった。「なぜ読む?」……それは答えるのが難しいのだけど、ぼくの率直な答えを言えば「『読まない人生』というのもありうる」とは思う。それはことによると『読む人生』よりも豊かなものかもしれない。でも、「それでもぼくは『なんだかんだ言いつつ結局読む』人間なのだ」ということで落ち着いてしまう。いや、もっともらしい答え(つまり「言い訳」)ならいろいろ並べることができる。おなじみの「心が豊かになるから」「教養のため」といった答えだ。しかしぼくは本音の部分では、自分はそんな功利主義で本を読んではいないと自覚している。ただ「暇つぶし」に読む、というそれ以上でもそれ以下でもないのがぼくの不真面目極まりない読書である。だからぼくは本を読んだことで何者かになろうと目指したり、あがいたりすることはない。かつてはそれでもプロの作家か書評家になれたらと思っていたのだけれど、そんな身のほど知らずな夢も消え失せてしまった。


ところで、堀江敏幸は「なぜ本を読む?」と訊かれたらどう答えるのだろうか。この作家は『本の音』のみならずさまざまな小説や随筆、作家論や作品論などで「読む」ことから始まる文を記してきた。思いつくところではブッツァーティやチェーホフに触れつつ、あてどもなく(つまり、やはりこれも「何者かになる」という夢も野望もないままに)「読む」人が現れる『河岸忘日抄』が挙げられる。そうして堀江敏幸が読んできたテクストが実に膨大であり、しかもそうした豊かなソースを自由自在・融通無碍に引き出せる稀有な知性の持ち主であるということはこの『本の音』やその次に出された第二書評集である『振り子で言葉を探るように』でも明瞭にわかる。この作家にとっては明らかに「読む」ことと「生きる」ことはつながっている。「生きる」過程で出会う作品を「読む」。そしてその読書体験について自らの中で血肉化させてテクストとして編み、こうして書評や散文としてアウトプットする。そうして「生きる」……そうした「読む」と「生きる」が(あいだに「書く」作業をはさみつつ)無限運動として彼の中で位置づけられているのだろう。


だが、間違えないでほしいのは堀江にとってよく「読む」ことがよく「生きる」ことということがらには結びつかないことだ。そんな生硬な、十代向けの教科書のような立身出世モデルを踏襲しかねない読み方・生き方を堀江はよしとしない。大上段に構えて、計画立てて「読む」ことに励み生産的・効率的に「生きる」のではない。そんなマクロな生き方ではなく、ミクロに1冊1冊の本と律儀かつ誠実に対峙し、そうして出会った本から何を引き出せるか自分なりに考えて言葉にしていく。1つまた1つと自分の中から言葉を探り出して、それを書評というスタイルの文章に落とし込む。そうしたストイシズムに満ちたスタンスにはまったくブレがなく、常に安心して読める。そのブレなさ、クオリティの落ちなさ、そして優美な文章の物腰は横綱相撲にも似ている(と、相撲をそんなに知らないのに安易に書いてしまったが)。常に「読む」ことを続け「生きる」、そんな堀江の強靭な思索の結晶がここにあると思った。


堀江の守備範囲は広いようでせまいようで、こだわりがないようである不思議な特性を備えていると見た。フランス文学の専門家ということだけあって『フランス名詩選』やベケット、ミラン・クンデラやフィリップ・ソレルスが登場するのが目を引く。日本の作家では保坂和志や松浦寿輝といった単独で思索に耽る書き手を好むようだ。そこに例えば『おぱらばん』『熊の敷石』といった堀江の小説の登場人物の影と共通した匂いを見出すのは早とちりがすぎるだろうか。しかし、この早とちりが当たっていると仮定するなら堀江は小説の空気と書評の空気を(おそらくは「あえて」「戦略的に」)分けずに書き続ける人物だということになる。ただ書かれるテクストがはらむ思索・論理の強度を追求し、その綿密に書かれたことがらの強度が生み出す快楽・愉楽を重んじる。そんな強度に内在する愚直な誠実さとねばり強さをこそ、ぼくは信頼したいと思う。それはスノッブな(だが「畏れ多い」)知性そのものよりも大事なのかもしれない、と。

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