菅啓次郎『本は読めないものだから心配するな』とテクストのスープ

この文を書くにあたってぼくは自分の部屋を一瞥し、そして愕然とする。というのは、ぼくという人間が実に「雑」にできていることを思い知らされてしまうからだ。何せぼくの本棚ときたらプルースト『失われた時を求めて』が(どうせ読み通せやしないのに!)全巻並んだとなりが沢木耕太郎のルポルタージュで、そのとなりに興味本位で買った村西とおるの伝記が並んで、『宮澤賢治詩集』もあって……とムチャクチャだ。でも、「それがぼく」なのである。いや、「人間の中には『多種多様に矛盾・分裂した自己同一性』があってですね」なんて小難しいテツガクに走らなくてもこの「雑」さは実に簡単に説明できる。というのは、ぼくは実に影響されやすいパーソナリティを備えているので、読書に関しては何でもかんでも面白そうなものは手を伸ばしてつまみ食いしてしまうのだった。さすがにこの歳になると好みも保守化してきたのを感じるのだけれど、それでも自分の「熱しやすく冷めやすい」ところについては「ああ、これも発達障害が原因なのだろうなあ」と思ってしまう。


管啓次郎『本は読めないものだから心配するな』を読むと、菅自身の読書もまた「雑」であり、その「雑」さこそが持ち得るような力についてあれこれ考えさせられる。といっても、菅の読書は決して「手抜き」「生半可」なたぐいのものではない。彼の読書傾向は実に渡辺一夫やル・クレジオ、エイミー・ベンダーや多和田葉子、ミシェル・レリスに田村隆一と幅広いが(それでいて、その中には確かな「スジ」「選球眼」も感じられて興味深いのだが)、そうした本たちが1冊の読書だけで終わるのではなく自在に他のテクストとつながっていて、いわば彼の中で「テクストのスープ」として熟成されているように思われるのだ。でも、ぼくたちの読書とはそんなものではないだろうか。人はよかれあしかれ、1冊の本だけでは満足しえないようにできているのではないか。あるいはこれは矛盾するかもしれないけれど、1冊の本だけを生涯読み解き続ける人生を生きるとしてもその肝心の本の中に、時にまったく違った色合いや様相を見出してしまうというのがぼくたち人間の定めではないだろうか。歳を取ればこちら側は成長・老成し、それにともなって考えも円熟し変化していくものなのだから。


そう考えていくと、菅啓次郎はその読書において「止まる」ことを知らない人というか「動き続ける」人なのだと感じる。彼はつぎつぎと本を読む(この書評集を読む限りでは、彼は「買いこむ」悪癖もあるのかなと思ってしまう)。1冊を未読し、それに満足したとしてもそれで「止まる」ことはついにない。ある本を読んだ記録は別の本の記録の中に(意識的・無意識的を問わず)受け継がれ、そうして管啓次郎という1個の「テクストのスープ」を形作っていく。それをもっと敷衍するなら、ぼくたちだってそれぞれ個々人の中に「テクストのスープ」を備えているはずなのだ。ぼくならぼくは、たとえば今日だって前述した雑多な本でカオスと化した本棚や床から思いつくままにサルトル『嘔吐』を手に取り、ページをめくってみた。でも読み通せなかった。こんなふうに、飽きたり時間がなかったりして「挫折」することだって人生の中には何度だってありうる。そしてそんな感じで「雑」かつ「無秩序」に読まれるテクスト、つまり必ずしも「完読」「読破」することの律儀な美学にとらわれない、とにかく読まれるテクストこそが人の中の「テクストのスープ」を作っている。


この『本は読めないものだから心配するな』という凝った、確実にこちらを励ましてくれるタイトルの中にあるのはそんな「雑」を生きることそれ自体のかけがえのなさなのではないか。あるいは、ここまで書いてきたようにぼくたちの中にたっぷり生成された「テクストのスープ」が存在することを認め、その事実の崇高さや比類なさに打たれることではないか。そう考えれば、この菅の書評集を読んでいて力を得られるその原因・理由が何なのかも見えてくる。ぼくたちは今日もおのおのの中にある「テクストのスープ」の中に数々のテクストを惜しみなく投げ込む。それははっきり「傑作を読んだ」とか「駄作をつかまされた」とかいうような、そんな手応えのある読書ではないかもしれない。ある種あぶくやおならのようにあっさり印象が薄れてしまうたぐいのものでもありうる。でも、菅啓次郎は「心配するな」とこちらを励ます。もともと「本は読めないものだから」。いや、正確には読めたと思ってもさっそくこちらの「記憶の鳥かご」から逃げていくのが本なのだから……そして、ぼくたちは生きる限り何度でも同じ本でも違う本でも読んだり読まなかったりして、そうして人生を継続し謳歌していけるのだから!

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