辺見庸『純粋な幸福』と言葉の濁流

いまこの国にあふれている言葉とは、はたしてどんな言葉なのだろう。辺見庸『純粋な幸福』はそうした、縮めてしまえば「リアルな言葉」「リアルなこの国の光景」とは何なのかというきわめて素朴でかつ挑発的な問いを放った詩集のようにぼくには読める。こんな言葉を安易に比喩として持ち出すのは幼稚というものだが、ぼくはこの『純粋な幸福』で語られる言葉をそのまま硬質なヒップホップが体現するような、それこそヒリヒリするほど「リアル」な感覚を表したものとして読んだ。それは同時に、どんな既存の文脈やバイアスにもとらわれずに「ナマ」の光景を見定めてやろうとする野心の現れのようにも感じられる。これはでも、読むことに悦楽・愉楽をもたらす類の優雅な書物とは言いがたい。想像すればわかるように、そうしてあらゆる言葉や事象を同等の強度で見定める試みはそのまま混沌へとなだれ込むこと、あるいは認識の限界を見ることであり端的に「苦行」でもありうるからだ。この本を読むことはしたがって、ある種の覚悟を必要とする。


この国にあふれている言葉……辺見がにらみつけているその言葉たちとは、例えばさまざまな文献のサンプリングである。カール・マルクス、エマニュエル・レヴィナス、あるいは誰かがつぶやいたうわ言めいた言葉……そうした言葉がゴツゴツと異物感・違和感をともなうものとして挿入されることで、言い表される要素と要素は時に激しくぶつかり合う。そこから、なめらかに運ばれるべき言葉の流れは濁り、淀み、そして言い表されようとするイメージもゆがめられる。そうしたギクシャクした言葉の流れやゆがむイメージはしかし、単に辺見の詩人もしくは語り部としてのヘタクソさを表しているわけではもちろんない。まったく逆で、そうしたカオス/混沌を作り出すことでぼくたちが辺見の言葉を通して見ようとするヴィジョン/光景までも変幻自在に歪めていくのだ。平たく言えば、この本を読むということはそのまま幻覚を見るということでもある。しかも、きわめて危険な。


辺見は戦前・戦時中の言葉までもサンプリングしていく。そこから見えるのは、いまとそういった過去がつながっているという事実/真理だ。それはなるほど「自明」「わかりきったこと」「いまさら」と映るかもしれない。だが、この時代とはどういう時代だろう。下手をするとそうした過去が捏造され、記憶が否応なしに薄れ消え去っていく時代ではないか。いまやインターネットでフェイクニュースを目にしない日はない。あるいは確かだと思っていたことがらさえ、日が経つにつれてグニャグニャに解釈が変容され歪められる。何が確かなのだろう……そう思って読むと、辺見がサンプリングする過去の文献も記録もすべて「いま現在」「リアル」に生起していることがらであるようにさえ読めるから不思議であり、また怖いとも思う。こんな言い方は陳腐かもしれないが、しかし「いまはあの時代の再来なのかもしれない」という感覚にリアリティが生み出されうる。その生々しい説得力もまたこの詩集の醍醐味だ。


そして、辺見は実にそうした過去のみならず「いま」をも見据えて――あえてこんな言い方をするが――「跋扈」している言葉にも鋭敏に反応している。ソーシャルメディアにぼくたちがおびただしく書きつける言葉を(それらはたいていは匿名の、文責を深く問われないあぶくのような言葉として読まれるのだが)そのまま大胆に詩文として呑み込まんとしているかのようだ。その意味ではこの詩集は「言葉の濁流」として読むべきかもしれない……と書くとそれこそ失礼だろうか。だが、そう言うのならば「清らかな言葉」「なめらかな言葉」はそれほど大事なものだろうかとも問う必要があるのではないか。何ら言い淀みのない言葉はそのまま喉越しよくツルツルと読まれるかもしれない。その言葉はしかし、そのまま流れ去ってしまう可能性もあるのではないか? そう考えるとここで辺見が街路のグラフィティアートのように書きつづったこの詩文の価値も見えてくる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る