辺見庸『青い花』と文章が呼び覚ますまぼろし

ぼくの場合、おかしなもので「どうしても小説は読めるのにエッセイは読めない」という作家やあるいは逆に「エッセイは腑に落ちるのに小説はどうも苦手」という人がいたりする。具体的に誰のことなのかまで書き記していくとキリがないけれど、ぼくにとっては辺見庸もまたそんなふうな「かたよった」「バランスの悪い」読書をしてきた書き手だった。なぜかはわからないけれど、ぼくは辺見の『自動起床装置』『ゆで卵』といった小説作品にはぜんぜん触れず彼のルポルタージュ『もの食う人びと』や『反時代のパンセ』シリーズといったものばかり読んできたのだった。そんな読み方をしてきたツケというのはどこかで回るもので、ここ最近その辺見庸の書いたものをめっきり読まなくなってしまった。『青い花』を読む気になったのはその意味では「たまたま」というかほんとうに「ひょんなことから」としか言いようがない。ぼくはこの本を、カオティックなプログレッシヴ・ロックを聴くような心持ちで読んだ(キング・クリムゾンの『アースバウンド』みたいな)。


「カオティックなプログレッシヴ・ロック」と書いたのは、この小説にはスジらしいスジがないからだ。いちおうは、どこかに向かって歩いている人の独語というかモノローグでスジは進む。だが、彼がどこに向かって行くのか、彼が何者だったのか、彼は今どこにいるのか、といったことはまったくといっていいほど語られない。読み進めていて、その読者への不親切さというか間口の狭さにとまどった。しかし、この語りには何かいわく言いがたいものがあるとも思った。読んでいると単純な話として、「におい」を感じたのだ。あるいは「景色」を見ることができ、そこにある「音」をも確かに体感できたと思った。だがそれは写実的な描写がていねいに施されているからというわけではない。一見するとひどくぶっきらぼうな書き方がなされているようなその文章の中に、独自のグルーヴというかリズム感を保ちつつ言葉がていねいに1個ずつ埋め込まれているからだ。少なくともぼくはそう読んだ。


その意味では、この作品は小説というよりは(こうした堅苦しいジャンル分けに意味があるかどうか自信がないけれど)散文詩なのかもしれない。ならば、辺見庸はこの作品で「あらためて」彼の持ち前の詩人ないしは幻視者としての力量を示したということが言えるのではないか……(とエラソーに大見得を切ってみる)。文字・活字を読むこと、そこにある文字をたんねんに目で読むことが視覚以外の感覚を総動員させて、そうした「まぼろし」に触れさせる。この作品を単に「いやこれはそんなこむずかしい話ではなく、単に『3.11』以後のカタストロフに揺れる日本を描いた作品だ」と語ることはたやすい。ぼくもそのようにしてあっさり/ざっくりナタをふるってぶった切って安心したいとも思ってしまう。でも、そのような凡庸なジャンル分け・チャート化にはついに乗り切らない残余・過剰としてそうした幻覚的な要素があると思った。そして、それを読めたことは彼と同じ国語を理解する者としてしあわせだと思った。


そして、そう考えていくとこの作品を果たして英訳すること、「インターナショナル」に読ませることは可能なのだろうかとも問いたくなる。辺見はこの作品の中でよく「言い損なう」。あるいはスムーズに言葉を言えず「つっかえる」。それに加えておびただしい他者の言葉が引用され、なまなましい記憶が想起されたその断片もコラージュのように差し挟まれる。現前する光景をなめらかによどみなく語ることを辺見はよしとせずそうして「言いよどむ」……そのギクシャクした語り(これもざっくり言えば「つたなく」さえ読める)が、逆にこの作品に独自のアクセントをつくる。なら、そのギクシャクした語りを外国語に訳するとまったくちがうものができてしまうだろう。そうして翻訳不可能な作品、日本語でのみ強度を誇りうる作品を書いてしまった辺見庸について、ぼくはもっと真剣に考え直し自分のうかつさを反省する必要があるようだ。あるいは、その必要はもっと昔から感じていなければなかったかな……と、夏休みの終わりになって宿題がぜんぜん進んでいない自分自身に立ち返ったような気分になってしまったのだった。

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