吉増剛造『詩とは何か』と世界の音を聴く営為
ぼくが詩に興味を持ち始めたきっかけは実はごく浅いもので、だから吉増剛造という詩人のこともまったくといっていいほど知らなかった。恥ずかしい話だ。今回、ぼくはそんな吉増の『我が詩的自伝』とこの『詩とは何か』を読んでみた。そして、彼のたたずまいに確かな「軽さ」を感じた。日本語の用法において、「軽い」という言葉は時に悪い意味で使われることがある。たとえば「尻軽」「軽薄」といった言葉がすぐさまぼくには思い浮かぶ。だが、吉増の「軽さ」はそうした無責任さを感じさせない。敢えて言えば「フットワークが軽い」というか、どんな重々しさやクソ真面目さとも無縁に(しかし真摯さを貫きつつ)詩作や読書に励んでいるという印象を受けるのだ。吉増はこの『詩とは何か』の中で実に「軽やか」にさまざまな書き手の本を引用する。詩人というジャンルからはエミリ・ディキンスンや吉岡実、田村隆一や石原吉郎が引かれる。これはまあ想定内のことかもしれない。
だが、そうした想定をはみ出して「軽やか」に吉増はヴァルター・ベンヤミンやフランツ・カフカ、吉本隆明(もっとも、吉本は詩人としても活躍していたのだが)までをも参照する。それはしかしハッタリに終わらず、着実に吉増が日々の読書で鍛えた知性に裏打ちされたものであることがうかがえ興味深い。そして、ぼくがもっと興味を惹かれたのは吉増にとってその読書や詩の執筆、あるいは吉本隆明の書物を書き写すという行為が、それらを通して肉体的な営為にまで至っているということだ。ぼくは最初ここを取り違えていた。たくさん読んでいる書き手ということでもっと頭脳というか知的戦略性が先行した頭でっかちな書き手とばかり思っていたのだ。だが、ここで見せる吉増は常にペンを持つ手で考え、書き記す肉体派の様相を呈している。そして自らの肉体を受像機として世界と渡り合い、世界の音そのものを聞き取って書き記そうとしているように感じられる。
世界の音を聞く吉増……彼はそこから、たとえばカフカを読み込み「自分が表現しているはずにもかかわらず、その自分自身にうまく伝えることが出来ていない」「痛苦」(p.83)を聞き出す。だが、このカフカの「痛苦」とはつまり吉増自身の「痛苦」のことでもあるのではないだろうか。吉増もまた、自分自身の表現の前で時にぶれ時に迷い、まったくの空白の中、受動的に「他者との偶然」に翻弄されるがままに書き綴っていることがうかがえる。ということはつまり、本書でさまざまな詩人や哲学者たちに仮託して吉増はかなり自分の詩の創作術や価値観をあからさまにしていることになる。ここまで率直に書いていいのだろうか(しかも、こんなにもわかりやすく)と思ってしまう。だがそのわかりやすさ、率直さこそが吉増のねらいなのかもしれない。ここからさらに新しい詩、新しい表現に向かう人もいるのではないかと思った。
そしてぼく自身も僭越ながら、ここで綴られる吉増の肉体的な詩作術に敬意を抱く。彼は音楽を愛好するという。三島由紀夫にならって言えば、音楽はぼくたちの身体を巻き込み無力化する働きがある。流れるメロディやリズムにぼくたちは実に翻弄されるしかない。だが、その翻弄される中でグルーヴをつかみ取ることだって不可能ではないはず。吉増はそうして多彩な音楽、多様な詩や文学に触れる中である旋律を聞き取り(あるいは読み取り)彼自身の詩という形態へと継承して行っているのではないか? ぼく自身は実は吉増の詩作を数えるほどしか読めていないので即断はできないが、彼がその瞬発力を活かしてギリギリの「非常時」から書き記す詩からはそんな「一度触れたら忘れられないインパクト」のあるグルーヴや旋律が届く。ならば、ぼくが書いている詩もそうしたグルーヴや旋律を兼ね備えたものであれば、と思う。それとも、そうした音楽性はついに吉増のような才人のみが持ちうるものなのだろうか。
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