第12話 勝手に体が動いたとき


「ねぇアンタ、今なんて言った?」


「…? えっと……誰、ですか?」


 トウキは何が何だかわからないため質問する。何故声をかけてきたのか。道でも尋ねたいのか、しかしそれなら何故彼女等はその顔に皺を作っているのか。

 癇癪を起こしている様に見えるが、身に覚えのない話だ。


「誰でもいいでしょ。それよりさっきアンタなんて言ったの?」


 先ほど言った話の復唱。特に何か言った覚えはないが、彼女等が来るまでに行ったことが何かは覚えている。


「気持ち悪いって言いました…。それがどうかしましたか?」


 息苦しさを感じる状況と、事実朦朧とする頭の中で、何かを感潜る能力はトウキにはない。今彼ができることは、最低限の言葉で最低限の答えを話すことのみだ。


「ーーッ!! どうかしましたかですって!? アンタ私達のことバカにしてんの!!??」


 だが、彼女はなぜか怒りの形相を見せている。その意味がわからず、まずトウキは自分の意見を言おうとする。


「何が…ですか? 気持ち悪かったから気持ち悪いって…言っただけです」


「それは初対面にしては失礼ではないでしょうか? 私たちに向かっていうには些か乱暴な言葉遣いですよ」


 そこに割って入ったのは青髪の女性ミーナだ。今話していた赤髪女性リーゼとの会話がどうやら思う様には進まないと感じたか、彼女はトウキに初対面で失礼だと言ってくる。

 しかし、絡まれたし彼に非はない。

 ただ彼女達がトウキの気持ち悪いという言動に対して自分達が1人の男性によって語っていることに対し言ったのだと勘違いしているだけだ。


 でもトウキは全く理解できなかった。


「何を言ってるのか分かりませんが、それは僕ではなくて…そっちだと思います。初対面ですけど。なんでそんなに喧嘩腰なんですか?」


 彼女の方こそ喧嘩腰である理由がわからない。

 残念なことにトウキも今は何も考えられない状況だ。

 ここで何かしらのすれ違いがあったとしてそれを改める様な考えは脳の限界により不可能。


「このっ…アンタバカにするのもいい加減にしなさいよ!! 気持ち悪いとか喧嘩腰だとか!! アンタが言えることじゃないでしょ!」


「…僕の話…もしかして、理解できていなかったり…しますか?」


「はぁ? 流石に調子に乗りすぎでしょ…」


 声を荒げる彼女にトウキは手違いでもあるのかと尋ねた。

 しかしそれが煽り文句の様になって更なるヒートアップがなされる。


 っと、そうした時、彼女達の背後から声がかかる。


「どうしたのみんな?」


 先程の男子生徒だ。金髪の整った顔の人。その腕を掴んで、短髪金色の女性も付いてくる。


「ーー? ユウくん。ってリネア何当たり前の様にユウくんにくっついてんのよ! 離れなさい!」


「えぇ〜嫌ですよぉ〜。それよりぃ〜どうかしたのぉ〜?」


「急に大声出してらしくないよ? リーゼ」


 ヌルヌルとした話し方が特徴的な彼女、リネアは少年ユウに寄っかかりながら口を開く。

 リーゼの飛び抜けた声と彼女等がいなくなったことに気づいたのだ。


「それはこいつが私達のことは気持ち悪いっていうからよ!!」


「…うっ……吐きそう…」


 何を言ったのか聞こえなかった。

 気持ち悪いとはトウキは言った。

 しかし、それ以上の情報が入る前に吐き気がもう一度やってきて、それが思わず声に出る。先程彼女達が言った発言は聞こえなくとも、恐らく暴言か妄言かのどれかではないだろうか。         

 あらぬ噂を立てられるのは虐めでもよくあることだ。


 エリトと同じ人種なのだろう、とトウキは決定づけている。


「コイツまだーーーッ」


「こらこら、落ち着いてリーゼ。いきなり怒鳴るのは良くないよ。それに、君は怒った顔より笑った顔の方がとっても可愛いんだからさ。僕にその笑顔を見せてよ」


「ーーーッ。そ、そう? 分かったわ…」


 憤りを感じる彼女を眺めたのはユウで、その甘いマスクとクサイセリフで彼女の肌を赤くするのはリーゼだ。

 なだめるというより、自分に注目させるという様な感じ方をさせてくれる。


 その状況をトウキとは別に同じことを思う人物がいた。


『わぁ吐きそう』


『師匠も…ですか? 師匠も…無理してたんですね…』


 ミューレはうえぇっと顔に皺を作ってしょうもなさそうに彼等を蔑んだ目で見る。

 その吐きそうという言動にトウキも、実はかミューレもトウキと同じ痛みを共有しているのかもしれないと勘違いしてしまう。

 当然、


『…多分お前が思ってる様な理由ではないが…もっと間接的にな』


『ーー? そう、ですか…じゃあ許しません』


『何がだ』


『ーーーー』


 少しの落胆と、しかし実際に幽霊が痛みを感じるものなのかというどうでもいい考えが浮かんでくる。

 ユウはトウキの方を見て少し蔑んだ目でトウキを見た。


「君、ミラン生かな」


「え…? あぁ、はい。そうです…」


「そうか。なら厳しく言うようだけどこの子に謝ってくれないかな?」


 ユウがそういうのは、彼女達が傷ついたからだろう。

 眼前に明らかに死にそうな人間はいるのだがーー。


「? どうしてですか?」


 トウキも流石に意味もなく謝るのはちょっと嫌だ。

 特にミューレという師匠ができてから、ずっと行動を共にすることになるだろうことを理解してから、弟子である自分が弱く惨めであることは師匠であるミューレも惨めな存在であることと同義であると思っている。

 トウキが体裁を保つことはミューレの体裁を保つことだ。


「どうしてって。失礼を働いたなら謝るのが礼儀だよ」


 ミューレは、なら謝る必要など、いや、寧ろおぬしらが謝ることが正解だと。当然ながらに思う。

 トウキは彼女達に何か言った覚えはない。

 今こうやって攻め立てられる理由もないだろう。


『真偽の一つも確かめず疑うとは…』


 ミューレは何やら呆れている様子で、トウキが悪いことではないだろうと彼自身もちょっとだけ自信を取り戻す。


「僕はあなた達の事を貶した覚えはないです」


「そうなのかい?」


 見に覚えのないトウキははっきりそう口にした。早々に話をつけたい。話をつけて病院へ行きたいっと願うばかりで、でも彼の心情を理解しようと思うものは、どうしようかと悩むおじさんくらいなものだろう。

 彼には関わってほしくない案件だ。

 ミラン生は金持ちが多い傾向にあるため、変なやっかみに巻き込みたくない。


 ユウはミーナとリーゼに向かって質問し、そして彼女達が言い放つことは、


「いえ、この方は私たちに向かってはっきりと言い放ちましたよ。気持ち悪いとか、吐きそうだとか」


「それは聞き捨てならないな。どうやら嘘をついているのは君の様じゃないか。君もミラン生だろう? あまり無様な真似は晒さないでくれ。さっさと謝りな」


 ユウはどうぞっと言わんばかりにジェスチャーして、しかし当然疑問だらけなのは変わらない。まず、


「誰に…ですか?」


「この子、いや、僕達にだよ」


「…なんでですか?」


「僕の話聞いていたかい?」


「僕は…気持ち悪かったからそう言っただけで、そっちが何か言うのは…間違いだと思います」


 発言の自由を、誰かに握られることを納得しようものはないだろう。そしてそれが彼等のプライドゆえの何かだったとして、それならいっそう理解できない。


「間違い…? ふざけたことを抜かさないでくれ。君は申し訳ないと思わないのか? この子達を見て。こんなに可愛い子達が君の言葉で傷ついているんだよ?」


「「「!!!」」」


 ユウの言動に彼女達は顔を赤らめた。トウキがいてもいなくてもこう言った雰囲気になるのは自然だった。それにしても、


『とんだ茶番だ。おい小僧、こいつら殺そう』


 何気なく異常なことを言うミューレは、やっぱり独特で、トウキも霞む脳で返事する。


『師匠まで何言ってるんですか? この人達もよくわからないこと言ってるし。そもそも』


「僕は、少なくとも貴方達を傷つける言葉を言った覚えはありません。よく分かりませんが…一回寝た方がいい、と思いますよ」


 その発言に、どれだけの皮肉が秘められているのだろうか。勿論トウキは真面目に言った発言の一つに過ぎない。っが、しかし脳死会話のみを強要される彼の言葉は、言葉の刃物、果物ナイフや包丁といったものではなく、切れ味の良い刀と言った方が正しいほど尋常な攻撃力を秘めていた。


『ーーーぶッ!! らははははははははははは…っ!!! 最高の煽り文句だ! 皮肉が聞いとるわ皮肉がッ!! 無自覚がこれほど無知で無鉄砲で敵なしとは!』


『わ、笑い事じゃないですよ! 変な人達に絡まれましたし』


『変な人達…! らはははは腹が痛うなってきた!! ははははははっ!!』


『……』


 腹を抱えて笑う彼女にトウキはムッと頬を膨らませる。そもそもトウキの脳をこんなにめちゃくちゃにしたのは彼女であり、本来なら今日は日中病院で涼んでいるはずだったはずだ。


「自覚がないということか。君は人として大事なものが欠落しているよ」


「なんで…あなたにそんな事言われなきゃいけないん、ですか? ユンくんでしたか? あなたには、関係ない話だと思います。それじゃあ僕は…もう行きますね」


 言葉遣いが普段よりかなり荒くなっている自覚はトウキにもある。痛みが憤怒に変わろうとしていて、それを抑制しようと理性が働く。

 だからこれ以上はいけないと思い、トウキは立ち去ることを余儀なくされた。


「……おい! ふざけてるのか! 待て!」


「ーーーー」


 ユウの静止を振り切り、おぼつかない足取りで病院までの道のりを辿る。といっても彼は一度病院をいつの間にか通り過ぎて街の方まで出てきた身だ。帰り道は一度通った経路をまた引き返す必要があった。


「待てって言ってるだろ…っ!!!」


「ーーーッ」


 しかし、ユウはトウキの服を背後から引っ張る。トウキを地面へ叩きようと力を入れ、彼は密かに受け身を取る。


『まずい…もう力も入らなくなって、きた…』


 手から光が消える様に、彼の血液が、いや、力が抜けていく。

 起きあがろうにもなかなか起き上がれなくなってきて、ユウ一行の問題だとか、そういうのはどうでも良い。

 最初から無関心だったと言うべきだ。


「何こいつ、弱すぎない?」


「触れただけで倒れるなんて、なんでこんな人がミラン生にいるのでしょうか? 恥ずかしい話ですね」


「どうせぇ〜なりすましとかぁそんなんでしょぉ〜。ユウくんみたいなカッコいい人に憧れたんですよきっとぉ〜」


「…ふふっ、僕はそんなかっこいい人間ではないよ。少なくとも悪いことをしたら謝れる人ではあるけどね」


 キメ顔を決めるユウに、人種がどうとかは感覚的にまずいこと言っているなと思う反面、しかし、どうにもトウキは、限界が近いようだ。


「「「カッコいい!!!!」」」


「それじゃあもう行こう。この様な凡人に構っている時間は俺たちにはないよ」


 そうやって彼等はその場を後にした。いくつもの足跡が耳に届く。トウキはそれを聞きながら帰ろうと、どうにか体に力を入れた。


 しかし、どうしてもこの状況で気になることがある。


『……師匠?』


 視界に映っていない彼女が、恐らく右で思いを強くしている。


『……凡どもが…』


『ーーーッ』


 でもその思いは、ミューレであるが故、どうしようもできない事態だ。幽霊である彼女が現世に関与はできない。

 その殺気は、薄れゆくトウキの本能を戦慄かせ、全身の震えと共に意識がはっきりとする。


『ゴミにも満たぬゴブリンが…ワーレのものに何をした?』


 彼女の言葉と癇癪は、トウキを心配している証拠だ。

 それは彼も嬉しい事実ではある。しかしミューレを見るからこそ、ミューレを感じ取れるからこそ、殺気を感じ取れる彼であるからこそ、萎縮して立つことすら許されぬその事態は、嬉しくも、複雑な気分だ。


『ちょっと…落ち着いて下さい。これ以上の情報は…本当に、死にます…』


 息が荒くなって、体の水分が全部抜けたんじゃないかって思うほど深刻化した状態は、脱力感そのものを感じ取れる境地にまで発展していた。


「お、おい大丈夫か? 坊主! 坊主!」


 トウキの耳に聞いたことのある声が届く。心配の声であり、生死を問う信号でもある。


「……お、じさん、大丈夫です、よ。おじさんは?」


「俺は別にどうってこたぁねえけど……ん? リリがいねぇ! どこ行った!?」


「リリ?」


「俺の娘だ! さっきまで目の前にいたんだが…」


 心配事はおじさんに、しかし男性の娘へと転換された。

 そう言えばおじさんは父親だと言っていた。どうやら娘も屋台にいたようだ。

 トウキは無用なことに、見渡す余裕はない。視界ははっきりしたが、ミューレが殺気と飛ばしてくれたことによって奮い立たされた本能による一時的なものだろう。

 すぐに病院へ。


「おいぶつかるぞ!」


「ーー!!」


 その時だった。

 向かってくる馬車の音、否、僅かに聞こえるその音は竜車の音だ。砂や石を蹴飛ばして、トウキの背後から迫ってくる。

 ぶつかってくると声を張る通行人の男が見たのは、4、5才の少女が竜車に飛び出す光景だ。

 どうしてその状況になったかとかはどうでもよくて、そんな思想より早く声に出して誰かどうにかしてくれと、嘆くだけだった。


「ーー!? リ、リリ!!!!!!」


 おじさんが叫ぶ。だが声という音速で届くことはあっても、彼自身の運動能力で届くことはない。


「間に合わない!!!」「こ、子供が!!」「死ぬぞ!!」「あっ」


 竜車を引く竜車も気づくことを遅れ、少女が横から突然として侵入してきた状況を理解できない。

 気づく頃には急停止しようと、そのまま足を絡めてちょうど少女を潰す様に転倒する。

 観衆の声が騒めいて、悲鳴と叫喚がその辺りを支配する。


「ひ、轢かれた…」「おい不味くないか!?」「あの子って確かーー」「あぁ、果物屋のとこの…」「エイダンさんだよ」「可哀想に…ありゃペチャンコだよ」


 積荷と共に破壊された周辺は、乗っていた商人も無事ではないことが明白だ。それは当然、リリという少女も。


「そ、そんな…リリ……りり!!!! あああああぁぁぁぁぁああああ!!!!」


 その阿鼻叫喚を1番に煽動するのはエイダンで、涙を流す暇なしに、その声が只々、悲しいというより絶望感が露わになっている。


『成長は苦痛から得られるとは言うが…思わぬ収穫だな』


 ミューレの言葉は、どういう意味か、彼女の声は1人にしか聞こえない。

 しかしたとえ聞こえていたとしても価値のないことだろう。

 それは彼女の主観であり、彼女だけが分かった事実のもとに呟かれたものだ。


「…おじさん……」


「リリっ!!」


「どこ行くんですか?」


 駆け寄ろうとする彼にトウキはその袖を取って静止する。

 立ったまま彼は、その苦しそうな顔を変えることなく、でも、エイダンはその形相を鬼にして、


「馬鹿野郎竜車が突っ込んじまったんだ!! 行かねえと!!!!!」


 トウキを叱りつける様にしてその場を経とうとしていた。トウキは続いて聞く。


「大丈夫ですよ」


「あぁ!? 何言ってやがる!!! リリが下敷きになったのが見えなかったのか!」


 だとしても、少女が轢かれたところは見ている。生きている可能性は皆無だ。分かってるはずだ。彼も。


「落ち着いて、ください」


 取り乱す彼を鎮めないと、彼が自分の子である命同然の存在を無くすというその感情を、蝕まれてはいけないその感情を、彼が感じる必要はない。失ってなお知るその感情は、


「落ち着けるわけねえだろうが!! まだ生きてるかもしんねえんだ! 助けねえと!!」


 失った時のみ感じるものだ。トウキの背後に、もう一つの命がある。

 当然ミューレのことではない。心の中で生きてるというわけでもない。


「大丈夫ですって」


 だから落ち着かせるためには、そう言う他ないだろう。

 最も土壇場で彼は、それを退ける。


「は!? お前何言ってーーー」


 エイダンがトウキを見ると、その足下にはトウキのズボンを掴む少女の姿がある。

 先程、瞬きの瞬間まで離れた場所に駆けた少女の姿がある。


「ぱぱぁぁ?」


 少女は頭を傾ける。

 おじさんの顔が今までで1番怖かったのだ。

 厳ついから仕方ない。

 でも彼の顔はゆっくり崩れていって、涙が溢れて皺が増えて、醜くなる。


「…り…り……?」


「ぱぱぁぁぁぁああああ!」


「リリ…!!」


 抱き寄せられる少女は、弱々しくも精一杯その大きな背中を抱きしめる。

 エイダンにとって少女がどれだけの存在かそれが今この光景を見てよく分かる。


「良かった…!! 本当に良かった!!!!!りり…」


「怖がったよぉぉ!!!!」


 助けられたことにトウキは分からないくらい小さく口角を上げて、助けられたという事実と共にわずかな成長を感じ取る。


「ーーーー」


 そしてこの成長は、トウキのものであってトウキだけのものではない。

 だからミューレの方を向いて、


『師匠、今のは良かった…です、よね…』


『……悪くはなかった』


 まだ認められてはいない。っが、悪くないという言葉が、トウキにとってちょっとだけ嬉しくて、


「…そっか……」


 不謹慎だが何故か少女を助けた時より笑みが溢れる。


「…お前が…助けてくれたのか?」


「運が良かっただけです」


 運が良かった。本当にその通りだ。

 前の自分ではなし得なかったこと。

 何故か体が動いただけの異常事態でしかなかった。

 

 のだが、


「…ああ、お前がいてくれて本当に運が良かった…ありがとう…。リリは…俺の命なんだ…」


「ぱぱぁ?」


 おじさんは涙がトウキの吐瀉物の土石流並みに流れていて、トウキと違うのはそれが苦しみか歓喜かのどちらかだ。


「そう言うことじゃ…いや、やっぱりいいです。それじゃあまた今度会いましょう」


 トウキはそのままその場を後にした。

 状態は最悪。

 痛む体に痛む脳が今のトウキを苦しみ続ける。

 無理をした。

 助けるための咄嗟の判断とは言え人に軽く押された程度で倒れてしまうような弱い体で走ってしまった。


「ちょ、ちょっと待ってくれ! お前名前なんて言うんだ!」


 お礼にまた寄るっということだろう。

 助けられたトウキの後姿から名前が聞こえることを期待して抱きしめる腕とは他に耳を傾けてーー。


 でもエイダンの耳に届いたのは、


「……果物、買いに寄ります」


 また来ますっという彼との約束の言葉だけだった。



※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※



『見えていたのか? 背後の竜車が』


『目の端で捉えました。でもそれより、あんなに瞬発的に動けたことに驚いています……』


 歩くこと暫くしてミューレがトウキに尋ねる。

 あの時、瞬間的に全速力で行動に写せたことがトウキにとって不思議でならなかった。

 あんな事はトウキにも初めての体験だ。

 勿論悪い気分ではない。


『あれは『反射』と言う技術だ。本当に運がいいな。いや、成る可くして成った可能性もあるが』


『そうなんですね。それは、確かに運が良かった…』


 反射、即ち脳の経由なしに行動へ移す反応そのものだ。

 一般に自分の意識化で起こせる代物ではない。 

 例えば人が熱いものに触れた時、熱ッと手を話す様な刹那の行動。


 その刹那の行動は自分ですら気づくことが遅れるような超高速だ回避だ。誰にも侵されぬ聖域サンクチュアリーとも言える。

 それをトウキは僅かに意識化で行うという矛盾を実行していた。


 それより、

 

『おい、大丈夫か?』

 

 トウキの体はとっくに限界を迎えている。

 もとよりミューレの予定では即座に病院へ戻れば済む話だったため問題ないと見ていた。

 しかし予定を超えた異常事態、トウキがすぐに病院へ戻らなかった事や変に絡まれた事で彼は休むことができていなかった。


『多分後1分…も、歩…けないと…思います』


『なら眠れ。もう眼前に見えるところまで着いたんだ』


 はっきりしたと思われた視界がまた霞だして、おぼつかない足取りがもっと動かなくなって、でも、


『出来れば、勝手に出ていっちゃったから、自分で戻りたい…ん……だ、けど……ぁ…』


 自分勝手に出て行っておそらく病院内は大騒ぎだ。すごく迷惑がかかっているんだと思う。せめて自分で帰って謝ろう。


 でないと示しがつかない。


 そう思っていたけど眼前に見える病院の入り口、そこに、ある人物の姿が現れる。そのせいで気が緩んでしまった。


 彼は、


「テメェらしくねぇじゃねぇカ。病室抜け出すなんてヨォ…」


『「!!!」』


 その口調、急で驚いたけれど、すぐにわかった。

 乱暴な言い回しなのに、彼の行動は、いつもそうだ。


『あぁ、やっぱり運が良い』


「フヨ…ごめん、世話かけるよ」


「ケッ! どこにもいネェと思いきや急によくわッかんネェこと言いやがッて…。精々病室で死んどけヤ」


 走り回ったのだろう。荒い息遣いがここまで聞こえる。


「う、ん。そうさせてもら…う……」


 そこまで言ってトウキは膝から崩れ落ちた。しかしながらその顔は実に穏やかで安心し切った顔であった。

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