第11話 最悪な気分
フレア王国に存在する大きな恩恵。その恩恵とは書物を読む権利という素朴なものだ。
受けられるのは英雄学園に入学した生徒と教師といった学園に携わる限定的な猛者達。
書物という財に目をくらませた野蛮民達は皆後に目も当てられぬ様な処罰を下され、また、その権利を得た者は皆平等に歓喜した。
エリートであると、そう思わせる彼らに与えられる恩恵は、果たして将来毒となるか、それとも神の祝福の礎となるだろうか。
それは誰にもわからない。
わからないが、
「うえぇぇっ……吐きそう…」
その少年は今まさに吐瀉物の1つでも吐きそうだった。
眉間に皺ができているのは勿論の事、糸目のみたいに瞳を細くさせ前が見えているのかも分からない。
図書館を出て30分ほど経った頃だろうか。現在は学園から離れた先にある病院に戻ろうかと迷ったところ、この状態で戻ってしまっても大丈夫なのかと死に絶えそうな脳で考えている最中だ。
『おいおい情けないなぁ!! どうしたんだそんな顔をして!』
ミューレは嬉しそうな表情でトウキの隣で歩いていた。本を読めてご満悦の様子だ。
だがトウキはその気持ちに一切同調できなくて、ミューレに睨みを効かして言う。
「師匠の、せいじゃ無いですか……。こんな最悪の気分…初めてです。言葉足らずにも……程があーーーうっ」
そこまで言ったところで腹パンを食らった様な痛みが身体中を駆けていくと同時に、彼の吐き気はその抑制を振り切ってキラキラとしたそれ等を外界へと吐き出した。
ギリギリになって街中にたまたまあったゴミ箱にその全てを声にならぬ声と共に吐き出して、もう死ぬのでは無いかと苦痛のオンパレードを味わっている。
「おかぁさん、あの人さけんでるよぉ?」「見ちゃダメよ。早くいきましょ!」「あいつ大丈夫か?」「あれ学生だよな」「どこのだよ」「あの制服ミラン生じゃ」「流石にそれは無いだろ。あそこはバケモンばっかのエリートが通うとこだぜ? あんな道端でいきなり吐く様なやつがミラン生な訳がねぇ」「確かに」
言われたい放題である。
通りかかる人が目撃しているのは苦しそうに吐く若者であり、人によっては関わりたく無いと思うこともあるだろう。
ほとんどがそうだ。誰かが助けるだろうからいいかと、トウキには近づいてこない。
それでもやはり優しい人が1人はいるようで、
「大丈夫かよあんちゃん。めっぽうくるしそうじゃねぇか」
「だ、大丈ぼゔぉぇ」
「だ、大丈夫ではねぇな」
心配してくれる人の前で吐くのは恥ずかしくも、抗えない気持ち悪さだ。
羞恥。死ぬほど恥ずかしい。けどこの気持ち悪さにはどうも耐えられる自信がない。
心配してくれた人にもっと心配させるのは嫌だと思ってゆっくり背後に目を向けると、そこにいたのは4、50代のちょびへげのをした厳ついおっちゃんだった。茶髪で顎髭が少し目立つ、特段イケオジという顔では無いがトウキにとっては心配してくれている時点で性格はすごく良い人なのだと認識できる。
「僕、死ぬかもしれま、せん。おじさん…遺言置いといていい……ですか?」
「馬鹿野郎なに重荷背負わせようとしてんだ。人は吐いただけじゃ死なねえよ。さっさと全部吐いちまえや」
低い声がトウキの耳に届くと、その中年男性は少年の背中をトントンっと叩く。
彼のその怖面からは考えられない様な行動だ。
苦しみに耐えながらもその優しさには、『この人になら』と思ってトウキは口を開いた。
「すいません…では、死んだ母に、迷惑かけてごめんって伝えといてもらってもーー」
「遺言も吐いてんじゃねえよ!? それに死んだやつにどうやって伝えんだよお前が伝えろや!! 後最後に言っとくがお前このゴミ箱ウチのだからな!?」
「う、うちの…すいませ…うっ…」
おじさんがツッコミを入れると同時に耐えかねた彼から更なる土石流が排出された。
脳が揺れる痛みが視界そのものを朦朧とさせて、喉が痛くなるくらいそれが止まることはない。
なんの感動もなしに涙が出るのはいつからだろうか。
ここは共用のゴミ箱もあるだろうに彼が真面目だから自分のゴミは自分で処理しているとかそんな細かなことも考える暇もない。
今彼が1番欲しているのは空気だ。
吐いてから死ぬ程大きく息を吸う。
「もう喋るな。別に怒りゃしねえからよ。…でもあれだな。お前どっかの学園の生徒だろ」
喋るなという割に質問してくる眼前の彼にトウキは鬼畜かと頭をよぎる。ミューレと同じ様に虐めるのが好きな快楽者かもしれない。
嘘だ。
優しさで言っているのは感じ取れていた。
トウキは「は、い」っと返事だけしておいた。
すると果物屋のおじさんは背後の屋台を親指で指しながら、
「そうかい、じゃあ友達でも連れて今度うちのもんでも買って行きな」
っとトウキに果物でも買うよう促した。トウキが吐きそうになりながらも少し視界を左に向けてみると、目の端で捉えられたのは店に隠れて見えにくいそれら。
僅かに見えるのは蜜柑や林檎の一部だった。
買ってけ、というのは迷惑かけても構わないからその代わりうちに利益を齎せ。そうすれば気負う必要はないだろうという彼なりの配慮である。
その気持ちはトウキにとってかなりありがたい言葉だ。
しかし言い難いことに、
「……友達いない、です」
友達でも連れてこいと言われても無理である。存在しないから。
「あ、あぁ。悪りぃな。なら今度、だな。気が向いたらうちで果物の一つでも買いに来いや」
「…そう、ですね。買わせてもらいます……」
彼の気遣いを一心に受け入れることができないことにトウキは申し訳なく感じて眉を下げた。
壁際に寄りかかりながらも彼の心も少し下がっていて、心も体もは拠り所が必要だ。
ここまで気分の悪い気持ちは初めてで今にでも倒れたっておかしくない。
△▼△▼△▼△
「落ち着いたか」
それからトウキはゴミ箱を視界端に捉えたまま座り込んで俯くこと10分程度。
先程までの死が目の前に迫っているのではと疑うほどの状況からなんとか死から十歩ほど離れたところまでは回復していた。
しかしそれでもどれほど持つか。
この痛みの原因はあくまで脳への多段負荷だ。
写像記憶を試みた結果、情報量の過多により自身の脳のスペック耐えられなくなっていたのだ。
そして、トウキの脳が壊れないギリギリを成立させてしまったミューレによる魔力信号と言う荒技。
魔力信号によって無理やり詰め込まれた情報と、トウキ自身が写像記憶として記憶したものの照らし合わせによる彼の負荷は、重積の末限界突破した。簡単に言えば1日に抱えられる情報量を遥かに超えて辛い、と言った感じだ。
それが成長につながるのは確かではあるが彼が起こしたオーバーヒートは通常とは異なりかなり重症的なものだった。
自身にかかるべきストッパーをミューレが無理やり外し情報を記憶の棚へと仕舞い込む。
それがどれほどの苦痛として清算されるのか。ミューレは分かっていたがトウキは分かってはいなかった。
とは言え、それを嘆く時ではない。
ひとまず楽にはなった。
「はい、有難うございます。楽になりました。…多分」
「多分、って。お前まだ今にも死にそうな顔してるぜ?」
男性が少年の顔を覗き込むと今死んでも驚きはないほどの顔つきをしているのが分かった。
げっそりとした顔のせいで元の顔の輝きが消えている。
「…そうですか。でも歩ける様になった、ので帰ります」
「そうかい、まぁ死ぬなよ」
「ん…」
そうやって雑になった返事を置きながらも彼はその重い体をふらつきながら持ち上げた。
ゴミ箱から離れても大丈夫だろうかと言う疑問は残しつつ、これ以上は迷惑をかけられないとその場を後にしようとする。
いや、後にしようとしていた。
ここで聞き覚えのない声が聞こえてきて、不思議とそちらへと目が行った。
「次はどこに行く?」
「ん〜リネアは〜カフェがいいなぁ〜。勿論2人きりでぇ〜!」
金髪の整った顔の男性と、その腕を掴む1人の金の短髪女性。その両サイドには赤髪と青が身の長髪女性が一緒に歩いていた。
「リネア、何抜け駆けしようとしてるの? ユウくんはあなたのものじゃ無いわよ。私のもの!」
「貴方もよリーゼ。ユウくんはリネアでもリーゼでもなくこの私、ミーナを愛してくれてるの。勝手なことは言わないで」
「あはは…喧嘩はダメだよ?」
「「「は〜い!」」」
この光景をどう表現すべきだろう。甘い空気は目に毒だと言うが、この光景は猛毒ではなかろうか。
トウキに並ぶおじさんもしたり顔の様なニヤケ顔をして「男だなぁ」っと呟いた。
「あれ、お前んとこの学園と同じのか?」
その呟きをしてすぐ、おじさんは何かに気づいた様でトウキに学園について聞いた。
生徒かどうかを判断するのはその手持ちのバッチや学生証であって制服かと言われれば違うのだが、しかし実際同じ制服で違う学園の人間なんていないだろうから、トウキも一見した後、
「…そう、ですね…」
っと返事をした。
「へぇ、成程なぁ。まぁどうでもいいが。お前ももう帰んだろ?」
「…はい、そろそろ。すいません…商売の邪魔をして、しまって…うっぐ…」
まさかキラキラ星を吐くとは思っていなかったトウキに対しぶっきらぼうな態度ながらも優しさを感じさせるおじさん。
その優しさが今はより一層申し訳ないと思いながらも、嬉しいものは嬉しいのものなのだとも感じていた。
「あ、あぁ…そりゃ確かに迷惑だがよぉ。見るからに弱ってるお前を叱りつけるほど俺は器が小さかねえ。これでも一端の父親だからな。この程度どおってこたぁねえわ」
「ありがとうございます」
その優しさはどうやら父親という役柄付いてしまった様で、いや、こういう人だからこそ結婚しているということかもしれない。
迷惑だとはっきり言ってくれたのはいっそ晴々しくて全然迷惑じゃないって言われるよりも自然な空気を感じ、接しやすい。
『うむ、中々面倒見のいい餓鬼だな』
『ガキでは、無い気がしますけど…多分50くらいかな』
人族の半生を、半世紀という時間を過ごしただろう彼にとってガキなどという単語で括り付けるのは果たして正しいのだろうか。
しかしミューレとの価値観の違いもある様だ。
『ワーレにとってはまだガキだ。生前は200以上の年を過ごしたからな』
『それでも…ガキじゃなく無い、ですか? って、あれ、声に出てた…かな』
『いや、思うだけで会話は成立するぞ。契約仲でおぬしとは魔力により繋がっている。以心伝心も可能だ』
言葉にせずともその声は心により繋がっているとミューレは言う。
思いと思いが繋がっている状態で、だからこそ1人で喋り続けなくていいのはトウキにとってはいい誤算だ。
『あぁそうなんですね』
『驚かぬか』
『今は気持ち悪すぎて、驚く気力もないので……あぁ』
「気持ち悪い…っ!」
「「「「!!!」」」」
「お、おい坊主!?」
おじさんの声が聞こえる前に吐き気とか苛立ちだとかそうやって集積されたいろんなものが溜まりに溜まって、トウキはつい大きな声で発散した。
爆散という方が正しいとも言えて、その声がその周辺すべての人に伝わる。
「ーー? いや、でも…気持ち悪くって…」
この気持ちを共有できるものなら自身を不快に思っているすべての人にも一度味わって見て欲しいっと、思うのは決して良いことではないが、思うだけなら許されてもいいことだ。
しかしトウキに向かっておじさんは置いずらそうに頭を掻く。
「そうかもだが、それにしてもタイミングがわりぃぞ」
「…タイミング…ですか? 別に…タイミングなんてないと思うんですけど…」
タイミングも何もない。トウキが気持ち悪いーー気分が悪いと嘆くのは個人の自由だ。
脳が焼き切れる様な痛みを十分に感じた後で、不平不満の全てを口ずさむことすら許されぬというのなら、流石に黙っているわけにも行かぬ話だろう。
しかし実際は当然そういう話ではない。
近づいてくる足跡が聞こえてきて、彼等、否、彼女達は通り過ぎたはずにも関わらずこちらへと歩みを聞かせていた。
トウキがその人物を見ると、彼女達は先程この道を通り過ぎていった4人組だ。
「ねぇアンタ、今なんて言った?」
その声がトウキの耳を震わせる。
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