指刺す
近海 とく
指刺す
何気なく、代わり映えのしない日々を過ごしていた。よくいる、平凡な会社員。環境面でも収入面でも人間関係でも、特に良くも悪くもない会社に勤めて、周りに紛れて生きていた。そんな僕にも唯一とも言えるような趣味がある。それが音楽鑑賞だった。趣味は音楽を聴くこと、なんて趣味のないやつが言う事だと言われたらそれまでだが、僕にしては割と本当に好きだった。かと言って、別にクラシックやジャズなんかの洒落た音楽を聴くわけではなく、僕が聞くのは歌番組でよくあるようなJPOP、そしてネット音楽だった。そんな時、「Mitsuki」を演じている彼女と出会った。彼女は歌を動画サイトに投稿していた。彼女をフォローしているのは数十人。だけど僕は魅了された。透き通るような、一度聞いたら忘れられなくなってしまうような歌声。眠っているなんて勿体ない才能だった。それから、僕は彼女の曲を聴くようになっていった。
しかしある日から、彼女が動画を投稿しなくなった。SNSも全く動かず、活動が休止している状態だった。僕は思いきって、彼女にDMを送った。
『あなたの歌声、とても素敵です。陰ながら、ずっと応援しています。また、Mitsukiさんの歌が聞けるのを待ってます。』
読み返してみると、恥ずかしい文章だ。数分たって、もう送信を取り消そうと思った時、彼女から返信が来た。
『ありがとうございます。そんなふうに思ってくれている人がいるなんて思わなかった。今、仕事が忙しくて、歌う時間が無くて…趣味で歌を歌い始めたようなものだから、もう動画投稿は辞めようかと思っていたんだけど、エノキさんのおかげでやる気が出ました。時間がかかっても必ずまた歌をあげるから、待っててくれると嬉しいです。』
エノキというのは、ネット上での僕の名前だった。僕もまた、現実と違う「自分」を演じていた。彼女から返事が来たこと、そして自分の言葉が届いたことが嬉しくて、僕はすぐに返事をした。
『まさか返信してくださるなんて思いませんでした。新しい歌、楽しみに待ってます。』
そのやり取りから数週間後、彼女のチャンネルに新しく動画が投稿された。今までよりも、さらに素晴らしい歌声だった。気づけばまた、僕は彼女にメッセージを送っていた。
『今回の歌も最高でした。個人的には今までで一番好きだった!また歌ってくれてありがとう。』
するとまた返信が来た。
『ありがとうございます。収録してる時、ずっとエノキさんの言葉が頭から離れなかった。それがあったからいい曲になったのかも?笑 これからもよろしくお願いします。』
僕の言葉がこれほどまでに、彼女に刺さっていると思わなかった。と同時に、行動してみるものだなとつくづく思った。僕の言葉がなければ、彼女が歌を動画で投稿することはもう無かったのかもしれないのだ。
それから、彼女が歌を投稿する度にDMでやり取りをするようになった。だんだんと何も無い時にも、関係ないことも話すようになり、彼女の前では自分を演じないようになった。お互いの本名も、顔も知らないけれど、僕達は友達だった。
そんな時、彼女のある動画がバズった。徐々にフォロワーは増えていたのだが、その動画の影響で一万人、十万人…とうなぎ登りに多くなっていった。動画の再生回数も、桁違いに増えた。
『すごいね。やっぱりMitsukiは才能を持ってたんだよ』
いつものようにDMで送ると、
『こんなにたくさんの人に聞いてもらえて、びっくりしてる。でも、ここまで続けてこれたのは、あの時メッセージをくれたエノキくんのおかげ。あれがなかったら、今頃普通の会社員だよ。本当にありがとう。』
ただただ嬉しかった。僕の好きな歌声が世間に知られていくのが。そしてその本人が、僕のたった一つのメッセージのおかげでここまで来れたんだと言ってくれたことが。
『これからもずっと一ファンとして、友達として、応援してる。Mitsuki頑張れ!』
『ありがとう!最高に心強いファンで、友達だよ!』
画面上で、僕らは笑いあった。
しかし、楽しい日々というのは、ある日突然崩れ去る。一つの動画がバズった影響で、過去に投稿されていた歌も聞かれるようになったのだが、その中のひとつが有名バンドの代表曲のパクリだと言われ始めたのだ。彼女がそんなことするはずない。けれど、世間は彼女の本当の姿なんて知らない。彼女はネット上で叩かれるようになり、アンチコメントがどんどん届くようになった。
『アンチとか気にするなよ。あれは正真正銘Mitsukiが作った歌だから。アンチよりもMitsukiの歌が好きって人の方が沢山いるんだ。』
『ありがとう。でも、そのバンドの人達の曲聞いてみたら確かに似てて、そう思われるのも仕方ないなって思ってる。どうすればいいんだろうね…』
日に日にアンチは増えていく。Mitsukiのことを知らないのに、パクられたと言われているバンドのファンでもないのに、水を得た魚のように、ただ自分の鬱憤を晴らすためにMitsukiを鋭い言葉で刺していく。黙っていたら黙っていたで、『やましいことがあるから逃げるんだろ』と追い込んで、Mitsukiが謝罪文を出し、問題の動画を削除しても、『消したからって許されるわけじゃない』『逃げるってことは図星だったんだw』と、Mitsukiの心を二十四時間絶え間なく傷つけた。
ある朝、Mitsukiのチャンネルを見ると、動画が全て消えていた。嫌な予感がした。すぐさまDMを開く。すると、その瞬間にMitsukiからメッセージが届いた。
『ごめん、エノキくん。私の歌を好きって言ってくれる人に、いつまでも音楽を届けたかったけど、もう限界なんだ。動画のコメント欄を閉じても、DMを受け付けないようにしても、私のことを悪くいう人の言葉が入ってくるの。生きてちゃダメなんだって思えてくるの。好きでいてくれる人もいるのにね。それは分かってるのに、死にたくなるの。本当にごめんね。』
…まさか。
『死ぬまでにエノキくんに会いたかったな。もっと色んなこと、話しておけば良かった。』
ダメだ。ダメだダメだダメだ。絶対にそんなことさせない。
手が震えていた。返す言葉が思いつかず、ただ彼女のメッセージに既読をつけていくだけだった。
『何か言われるのが怖くて投稿できなかった歌がひとつあるの。エノキくんには聞いて欲しい。』
冗談だろ。
『待って』
ようやく文字を打ち送る。やめてくれ、そんなことあっていい訳がない。
『今まで本当にありがとう。』
『お願い待って』
『今どこにいるの』
『僕には君が必要だ』
『おねがいだから』
『まって』
『しなないで』
一刻も早く届くように、メッセージを急いで打ちこんで送った。間に合え。間に合ってくれ。
その時、彼女からひとつのURLが届いた。
『きみのこえをきかせて』
僕が送ったそのメッセージに既読がつくことは無かった。
数時間後、ネットに彼女が死んだという記事が乗った。飛び降り自殺だった。止められなかった。僕が一番彼女に近かったのに。…死ぬ直前まで、話していたのに。それから、ネット上で彼女のことを呟く人が増えた。アンチでは無い、憐れむ声を掛ける人達だ。彼女が死んでからしか、彼女を肯定してくれる人が増えることは無かったんだと思った。
その日は、動けなかった。ただ、ネットで彼女に関するツイートや記事を眺めていた。暗くなっても、夜明けが来ても、ずっとずっと、延々と増えるコメントを見ていた。彼女を殺したネットの世界にいても、僕は何も感じなかった。
日が登って、朝が来た。また、彼女のチャンネルを開く。動画は一本もない。そこで、最後に送られてきた歌のことを思い出した。もう、やり取りすることの無いDMを開いた。
青い文字で表記されている、URLを押した。初めて聞く曲を、聞き馴染みのある声で歌っている。彼女の歌。最後になってしまった歌。その歌は、僕に感情を思い出させた。
声を出して泣いた。ずっとずっと泣いていた。画面が濡れて、顔がぐしゃぐしゃになった。何で自ら命を絶つなんてことをしたんだ。どうしてそうなる前に、僕は止められなかったんだ。最低だ、最悪だ。僕も、もっと君と話したかった。君のこと、何も知らない。本当の君の姿も、歳も、名前も。なんで僕は、彼女が動画を投稿しなくなったあの時に、あんなメッセージを送ったんだ。あれがなければ、彼女は今も生きていたのに。
「僕のせいだっ…」
数時間ぶりに出した声は、怒りか悲しみか苦しみか、分からないほどにぐちゃぐちゃだった。
時が経ち、数ヶ月がすぎた。世間からは彼女のニュースも歌も忘れ去られていた。自分だって同じだ。彼女が居ない現実にも自然と慣れ、今までと同じように生活していた。でも、僕の心には穴が空いているようだった。ずっとずっと、埋まらない穴。その穴はどんどん広がって、僕を飲み込んでしまいそうだった。心から笑えたことはあの日から一度もない。
そんな時、スマホに通知が来た。通知画面を見て、僕は思わず声を漏らした。
「え…?」
来るはずのない、彼女のアカウントからのメッセージだった。動揺してスマホを落としそうになり、急いでグッと握りしめる。恐る恐る、僕はそのメッセージを開いた。
それは、彼女の母親からだった。
『初めまして。美月の母です。あなたは美月と仲良くしてくださってたようですね。ありがとう。』
ただ呆然とそのメッセージを眺めることしか出来なかった。
『急なお話で申し訳ないのですが、良ければウチへ来ていただけませんか?』
「…えっ?」
思わず声を出してしまった。会ったことも見た事もないMitsukiの実家に?思考がぐるぐると巡る。でもやはり、なにか返信しなければ…
『僕はMitsukiさんの声しか知りません。直接会ったことも、一度もありません。そんな僕が、いきなりご自宅に押しかけたら迷惑じゃないですか?』
数十秒後、返信が来る。
『いいえ、私もお話したいの。美月がインターネットで活動していたことを知らなかったから、色々と聞いてみたくて。交通費はお支払いしますから、どうかお願いできませんか?』
胸の中をずっとかきたてられている気分だった。これから生きていく中で、彼女のことを覚えていないフリをして、徐々に感情も薄れて、社会に埋もれて生きるのだろうと思っていた。いや、きっとそうなのだろうが、また彼女と間接的に関わる機会を得ると思わなかった。どうするべきかしばらく考え、やはり断ろうと思った。僕にそんな資格はない。忘れたフリをしながらこれから生きていくつもりの僕が、会ってはいけない。中途半端に関わりを持っていてはいけない。そう思い返信を打とうとした。
…いや、これはこの心の穴を埋める最後のチャンスなのかもしれない。このまま生きたら彼女を殺した奴らと同じ色に染まってしまいそうだ。そんな人生は送りたくない。本当は…そうだ本当は、Mitsukiがこの世界に居た事実を喜びながら生きたい。Mitsukiのことをずっと覚えていたい。今まで打っていた断りの返事を消して、打ち直す。
『僕で良いなら、行かせてください。』
送られてきた住所は電車で一時間ほどで着く隣県だった。僕がDMで電車の到着時間を伝えると、彼女のお母さんが迎えに来ると言ってくれた。
駅の改札を出ると近くのベンチにそれらしき人がいた。僕が近づくとその人は立ち上がり、「エノキくんですか?」と声を掛けてきた。
「そうです。榎木紘です。Mitsukiさんのお母さん、ですよね。」
「ええ。橋田尚子と言います。わざわざここまで来てくれてありがとう。」
そう言って微笑んで、お辞儀をされる。背が低めで小綺麗な、優しそうな人だった。この人の朗らかな姿を見ると、やはりここまで来たのは間違いだったのではないかと思い始めた。だってMitsukiは、僕のせいで死んだんじゃないか。
「こちらこそありがとうございます。こんな僕が何かの役に立つんでしょうか…」
ありきたりな事を言いながら、今まで現実で会ったことのなかった人の親に会っているのが不思議だとぼんやり思った。
「そんなに自分を卑下するのはやめてください。あなたが居てくれたから、美月は最後まで孤独じゃなかったの。」
言わなきゃ。僕ののせいでMitsukiは死んだんだと。僕があの時彼女の歌を待ってるなんて言わなかったら、今頃会社員として幸せに暮らしているはずなんだ。
「立ち話も何ですから、そろそろ行きましょうか。」
結局何も口には出せず、ただ尚子さんの後を着いて言った。
Mitsukiの実家は駅から十五分程バスに乗り、降りた小さなバス停から歩いてすぐのところにあった。和風のよくある昔ながらの家、という印象だ。
「少し汚いけれど…ごめんなさいね。」
「いえ、全然です。お邪魔します。」
古いのかもしれないが綺麗に整頓され、玄関にある靴箱にもホコリは全く積もっていない。定期的に掃除されているのだろう。
僕が通されたのは八畳程の部屋だった。そこに、彼女が眠っているであろう仏壇があった。そこにお供え物が沢山してあった。彼女がどれだけ慕われていた人物なのかがうかがえた。
「…手を合わせてもいいですか」
「ええ、もちろん」
僕が仏壇の前に座ると、若い女性の写真が飾られていることに気づいた。素敵な笑顔をしたこの人こそがMitsuki…橋田美月。もう、彼女の笑顔を直接見ることは叶わない。
線香に火をつけ、手を合わせる。僕にそんな資格は無いと言われてもおかしくないけれど、最後の機会かもしれないから。
「突然来ていただいたのは、お話したいことと、お聞きしたいことがあって」
お参りをした後、お菓子とお茶が用意されている席に着くと、尚子さんが話し出した。
「私、勝手にDMというのを見てしまって、あなたと美月の会話を少しずつ、全て読ませていただきました」
僕とのDMを見たということは、誹謗中傷のDMも嫌でも目に入っただろう。僕がMitsukiを遠ざけていた間、この人は現実と向き合っていたのかと思う。僕は責任も持たず、逃げてばかりだ。
「勝手に覗いてしまったこと、ごめんなさい。そして改めてありがとう。美月の心を軽くしてくれたのはあなただと思うの。それから…一番伝えたかったこと。美月が自殺したことについて責任は感じないでほしい。」
…ああ。
心の奥では少し分かっていた。この人は絶対に、僕を責めない。
「なんで、責めないんですか」
俯いて呟く。
「僕がMitsukiに歌を求めてなかったら、彼女は今頃生きていました。日常の中の幸せを見つけて過ごして、自分の好きな歌で苦しまずに済んだのに。僕がMitsukiを殺したも同然じゃないですかっ…」
「それは違う」
落ち着いた声で、淡々と尚子さんが言う。
「そんなこと、あなたが思っていたら…美月が悲しむ。私のせいであなたが苦しんでいるって。私も美月も、あなたに苦しんで欲しいんじゃない。本当に美月を殺した人達は今も社会で普通に生活している人達でしょう?何食わぬ顔でいつも通りに。私はネットとかSNSとかよく分からないけれど、美月に直接、ウザイとか死ねとか消えろとか言った人たちがいるのよね。匿名だからって、全く責任も持たず。恐ろしい数の人たちからいじめられた」
話しながら、尚子さんは泣いていた。怒りで震えているようだった。
「美月の遺書に、生きたくても生きられない人だっているのに、ごめんなさいって何度も何度も書いてあった。そんなあの子に自殺を選ばせるくらい、苦しめたの…?」
SNSの誹謗中傷は、簡単には止められない。一人一人が、指一本で人を殺せる。
「…ごめんなさいね。こんなことあなたに言いたくてここまで来てもらった訳じゃないのに。私も毎晩考える。どうして家族なのに止められなかったんだろう。もっと話をしておけばよかった。悩みは無いかと聞いておけばよかった。もう帰ってこないのに、後悔ばかり。あの子のことを考えない日はない」
怒りと悲しみと自責感と。被害者側はそれをずっと背負ってこれから先の人生を生きていく。Mitsukiを殺した犯人はまだ誰も捕まっていない。たとえこれから先数人が捕まったとしても、加害者全員が捕まることはないだろう。
「僕は、Mitsukiの歌が好きでした。Mitsukiの歌の素晴らしさに気づいて聴く人が多くなって、自分の事じゃないのにとても嬉しかったです。だけどそういう風に注目を浴びる人を疎く思う人は必ず出てきて、それが日常生活であれば陰口程度で済まされますが、ネットではそうはいきません。悪い所をずっと探して、見つけたら匿名だからって、わざわざ本人に向かって暴言を吐き続けるんです。自分だってバレないからって、ずっとずっと。いくら心が強かったとしても、応援してる人の方が多かったとしても、耐えられませんよ。どうしてそんなに簡単に人を傷つけられるのか、僕には検討もつかない」
この前まで生きてたのに。歌を歌っていたのに。今はもう、彼女はこの世界のどこにもいない。
「私にも分からない、でももう美月は帰ってこないから…乗り越えなきゃいけない」
「…乗り越えられますかね」
「私にも分からない。無理かもしれない。でも、ずっと引きずっていたら美月がもっと自分を責めてしまうから」
あぁそうか、この人の中で橋田美月はずっと存在している。死んでも消えたわけじゃない。ネットの中以外の彼女をずっと見てきているのだ。僕よりもずっと彼女を知っている。僕は彼女のことを知っていると思い込んでいた。僕だって、Mitsukiを殺した人達と同じ場所に立っているのだ。今日まで、本名も容姿も、何もかも知らなかった。知ったようなふりをしていた。
「そう、ですね」
そろそろ前を向かないといけない。
「ああ、そうだ。榎木くんに渡したい物があるの」
少し待っていてね。そう言って尚子さんはどこかへ行ってしまい、広い部屋に僕だけがぽつんと座っていた。
「ねぇ、Mitsuki」
尚子さんはすぐに戻ってくるかもしれないのに、俯きながらひとりでぼやく。
「死ななくても良かったじゃん、辛くても、他の選択肢があったでしょ?」
何も返ってこないとわかっていて、呟く。
「…って、思うけどさ、本人にしかその辛さは分からないよね」
ズボンの裾を握る。今まで心に押さえ込んでいた感情が、溢れ出てくる。
「どうして相談してくれなかったの…?俺じゃなくても、お母さんとか友達とか、君には君のことが好きで、君を支えてくれる人が沢山いたはずでしょう?」
もう、部屋の外には尚子さんが来ているかもしれない。こんなにひとりで喋らない方がいい。聞かれていたら困らせてしまうと分かっているのに言葉が止まらず、さらには涙がこぼれ落ちてきた。Mitsukiと、話したい。
「僕は今、君と話せなくて、辛いんだ。君が死んでから、ずっとずっと苦しい。なんでこうなったんだろう、なんで止められなかったんだろうって、毎日考えるんだよ。胸に虚が空いている気分だ。この気持ちをどこにぶつけたらいいの?僕はどうしたら正解なの?」
仏壇の彼女の写真を見る。姿を見たからといって思い出すものがある訳では無い。けれど写真の中の笑顔を見て、暗い話ばかりをしていてはいけないと思い始めた。そんな話をしにここに来たのではない。
「君の歌が好きだった、声が好きだった。僕の小さな一言で歌を歌い続けることにしてくれてありがとう。絶対に忘れないから。僕はずっと君の歌を好きで居続ける。長々とこんなこと話してごめん。でもこれで、ケジメつけることにしたから。前向いて生きるよ。立ち止まることはあっても前は向いておく。それしか君にできることが思いつかなくてさ」
明るく話そうと思った。彼女から幸せを貰ったんだから。自然と口角が上がった。
「顔見るのなんて初めてなのに泣いてごめん。君と出会えて本当に良かった。ありがとう」
返事は無い。部屋は静まり返っていた。胸の中のわだかまりは無くなり、少しの寂しさが残った。しばらくして部屋の戸が開いた。急いで目元を拭う。
「すみません、聞こえてましたよね」
そう言うと尚子さんは少し笑う。
「声は聞こえていたけど、内容はあまり」
元いた場所に腰掛け、薄い何かを僕に差し出す。それはCDだった。
「美月が遺した歌の全てをCDに焼きました」
ハッと顔を上げる。直子さんはそのまま続けた。
「データで送れたら良かったんだろうけど、慣れてなくてこれが限界で。ごめんなさいね。美月の歌、あなたには聴いて欲しくて」
「でも、彼女は聴かれたくないんじゃ…」
「いいえ、あなたには聴いて欲しかったんだと思う。だって」
尚子さんと目が合う。何故か鼓動が早くなる。
「美月があなただけに送った最後の歌、誰かのことを想っている歌詞なんだもの」
それを君に送った。もう答えは決まってるでしょう?
尚子さんは微笑みながら言う。
…まさか。そんなことがあるんだろうか、あって良いんだろうか。
歌を聴いていただけの僕を?一度も会ったことの無い僕を?本名も容姿も知らなかった僕を?…君の死を止められなかった僕を?
「だから、聴いてあげて」
「…ありがとうございます」
受け取る手が震えていた。落とさないように強く、でも優しく掴んで、そっとバックの中にしまった。
「お邪魔しました」
「本当に駅まで送らなくて大丈夫?」
「はい、最悪分からなくなってもスマホでマップ見ながら帰ります」
尚子さんは玄関まで見送りに来てくれた。約束通り交通費を…と言われたが断った。今日、僕はあまりにもたくさんのものを貰いすぎている。
「気をつけて帰ってね」
「はい。…本当にありがとうございました」
深く深くお辞儀をした。永遠に続きそうな静かな時間だった。
「幸せに暮らしてね」
「…はい」
もう、この家に来ることも、この人に会うことも一生無いような気がした。
家に帰りパソコンを開いた。CDプレイヤーを繋ぐ。音源が表示された。手が震えていた。一番上の再生ボタンをクリックする。
ああ、Mitsukiの歌だ。僕が惚れた綺麗な声だ。
また涙が止まらなくなった。最後の歌になっても、ずっと泣いていた。そして、終わりのフレーズが流れる。彼女が紡いだ、最後の歌詞。『君とたくさん言葉を交わす それでも贈れない一言 私は死んでも胸に抱えているでしょう この愛しているを』
僕だって、言いたかった。ただのファンの一人なんだから、会ったことも無いのだから、向こうが僕を好きになるなんてことないと思っていたから。僕だって君を愛している。大好きだ。忘れることなんてできない。そんなことを言ったら君を困らせてしまうだろうか。
ねえ、Mitsuki。どうして僕たちは生まれてきたのだろう。生まれてきた意味なんてなかったのかもしれないね。生きる意味すら分からなくなることもある。でも、死なない意味はあると思うんだ。君が音楽を届けていたように、人のためになるような生き方をしたい。死に際に、まだ生きたい、死にたくないって思えるように、僕はもう少しこの世界に残ってみるよ。
いつか来る最期の日まで、待ってて。
指刺す 近海 とく @emma_chikami
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます