彦介にとっては雪と言う存在はそこにいて当たり前のものだった。


体が弱い彦介は活発な男の子より女の子と遊ぶことが多かった。

それをからかわれた時にかばってくれたのは雪だった。

小さな頃から身近にいたのだ。

雪は茨島いばらじましゃの禰宜夫婦の子どもだ。

昔から正義感の強い女の子だった。


そして茨島社には沢山の古文書があった。


彦介はそれに惹かれた。

沢山の書物は自分に知識を与えてくれる。

雪の父親もそんな彦介を見て随分と可愛がってくれた。

そしてそのままやしろの仕事を継ぐ事となった。


彦介は早いうちから家を出て茨島社に住み始めていた。

もう許嫁いいなずけと言ってもいい状態だ。

親世代が決めた話だが彼にとって嫌な話ではなかった。


その時代ではそれは当たり前の事だ。

それに彦介も雪に対して好意を持っていた。

いずれ雪と結婚し、子どもを産み育て、昔ながらの禰宜の仕事をする。

その合間に自分が昔から調べている事も続けられるのだ。


鬼の事を。


その生活はずっと続くはずだったのだ。


だが、二年前の地震から大きく変わった。


雪の親は亡くなり、禰宜の仕事の全てを彦介はしなければならなくなった。

そして親を亡くした子を育てなければいけない。


それが嫌だという事ではない。

ただ、余裕がなかった。

本当なら二年前に雪とは祝言を挙げていたはずだ。


だが、今金剛と言う男が現れた。


人好きのする感じの良い男だ。

彦介も初めて見た時から彼に良い印象を持った。


不思議な男だ。

そして自分が昔から調べている事に深いかかわりがあったのだ。


それは運命なのかもと彼は思った。

そして雪にとっても金剛は深い縁があるのだ。


先程縁側で二人は話をしていた。

その姿は彼には妙にしっくりとする感触があった。


自分と喋っている時の雪とは違うのだ。

金剛といる雪はまるで無くしてしまった片割れが

見つかったような感じなのだ。


彦介には雪は自分のものと言う感覚は確かにあった。

その確信は金剛が現れてから揺らぎ始めている。


だが今強引に雪を確実に自分のものにして良いのかどうか、

彦介にはそれには抵抗があった。

それに金剛と言う男は自分より

遥かに人生経験も多く、懐も深いのだ。


いつも迷っている自分とは違うと彦介は思った。

どうやっても金剛には勝てないだろう。

自分とは格が違うのだ。


雪が本当はどう思っているのか彼は知りたかった。

だがそれを彼女に問いただす勇気もなかった。


彼は二年前の地震を苦々しく思い出した。

あれさえなければ自分の人生に大きな転機は無かっただろう。

そしてそれを引き起こしたのは鬼の様だ。


自分は昔から鬼の事を知らなくてはいけないと

ずっと思っていた。

もしかすると本能で鬼が自分の人生に深くかかわると

知っていたのかもしれない。


そして彦助は思わず首を振った。

それを金剛が見る。


「どうした、彦さん。」


彦介がはっと金剛を見る。


「……、いえ、なんでも。」


金剛の視線は真っすぐだ。

嘘をつかない正直者の目だ。

彼はもしかすると深くは考えていないのかもしれない。


「何でもありません。

私は鬼の事を調べます。ここには書物がまだたくさんある。

お雪ちゃんのお父さんが死ぬ前に

ここの本を助けてくれと言った。

多分今のこの事を予見していたかも知れない。」

「そうだな、よろしく頼む。」


今は自分の感情で動く時ではないのだろう。


心に引っかかるものはある。

目の前にあって当たり前のもの、

それがもしかすると無くなるかもしれない。

だがそれは自分が棚上げしていた事なのだ。


早く動けば良かった。


そう思った事が今まで何度あっただろうか。

引っ込み思案の自分の悪い癖だ。


そう思いながら今も相手に問いただすことが出来ない、

なんて情けない男なのだろうと彦介は思った。


「じゃあ、私は夕飯の準備をします。」


雪が立ち上がり奥に行った。

金剛も刀と玉鋼を見に行くのだろう。

彦介に手をあげると外に出て行った。


部屋には彦介だけが残された。

その時だ、お花が彼のそばに来た。


「ひこちゃん、どうしたの?」


小さな顔が彦介を覗き込んだ。

彦介の表情がすぐれないのを心配したのだろう。


「いや、なんでもないよ、お花、ありがとう。」


彦介は花に笑いかけた。


三歳の花と四歳の小春は姉妹だ。

二人の親は地震で亡くなってしまった。

他にも引き取った子どもはいるが、

花は乳離れしたばかりでかなり手がかかったからか

彦介は花には特別な思いがあった。


その花は今では自分で歩き食事をする。

そして姉の小春と違ってお転婆な子どもだった。

だから川まで自分で行ってしまったのだろう。


彦介は膝の上に花を乗せた。

花は嬉しそうに彦介を見上げる。


華奢で柔らかな存在だ。

こんな小さな子は親を亡くしている。

それが彦介は可哀想で仕方がなかった。


「なあ、お花は金剛さんが好きか?」


彦介は呟くように花に聞いた。

花は彼を見上げる。


「おっちゃん、面白い。」


彼女はにかりと笑う。

花にとっては金剛は命の恩人だ。


「そうか……。」


彦介はため息をつく。

すると花が立ち上がり彦介の頭を撫でた。

彦介は驚いて花を見た。


「お花……。」


花が笑う。


「ひこちゃん、寂しいの?」


彦介や雪は何かあると子どもの頭を撫でた。

それを覚えているのだろう。

子どもは大人が思っているより人の顔色を見る。

花は彦介の心の中の微妙ななにかを感じたのだろう。


「ゆきちゃんはよく頭なでなでしてくれるよ。」


小さな花の手が彦介の頭をそっと撫でる。

その感触はとても心地良い。


「なあ、お花、」


花が彦介を見た。


「お雪ちゃんと金剛さんってどう思う?

なんか仲が良いよな。」


花が首を傾げる。


「ひこちゃんもゆきちゃんと仲が良いよね。」

「まあそうだけど。」


三歳の女の子にこんな事を言うのは変だと思いながら、

頭を撫でる手の心地良さに少し甘えているのかもしれないと

彦介は思った。


「ごめん、変な事を言ったね。ありがとうお花。」


花がにこりと笑う。


「あのね、」


少しばかり花が恥ずかしげな顔になる。


「あたい、大きくなったらひこさんと結婚したい。」


彦介が花をはっと見た。

一瞬なんと返事をしたらいいのか分からなかった。

花が不安を感じている自分の心を覗いた気がしたからだ。

だがそれは小さな子が言うおもちゃみたいな夢だ。


「そうか、ありがとう。お花は可愛いなあ。」


彦介はふわっと花を抱いた。

小さな子どもだ。

花が笑い声をあげる。


花の両親は今のこんな愛らしい姿を見る事無くこの世を去った。

どれほど無念だっただろうか。

それを思うと彦介の胸は痛かった。


花も小春も長丸も寅松も、

自分達が引き取った子どもはちゃんと育てなければいけないのだ。


今自分が抱えている悩みなど大したことではないのかもしれない。

選ぶのは雪だ。

彼女が思うようにすればいいと、

彦介はそう思う事にした。






子ども達が寝静まった頃、金剛が雪に話しかけて来た。


雪は彦介と同じ部屋で明かりの元で縫物をしていた。

彦介はいつものように本を読んでいる。


「雪さん、すまん、うばらの事を聞きたいんだが。」


雪ははっとする。


「そ、そうでしたね、うばらさん……。」


雪は彦介をちらりと見る。

別におかしな話をする訳ではない。

だが雪がうばらの記憶や感情を感じてから、

雪にとってはそれはかなり生々しい出来事だ。

少しばかり彦介の前でその話をするのは気後れした。


「私は席を外しましょうか。」


彦介が本を閉じて立ち上がった。


「いや彦さんも聞いてくれ。」


金剛がどっかりと座ると行燈の光がぼんやりと皆を映した。

外からは何も音はしない。

時々風が微かに通るだけだ。


「……私が感じたのは茨の木のうばらさんです。

金剛さんのお母様のうばらさんではありません。

だからそこで見た金剛さんは

今ここにいる金剛さんではなくてご先祖様です。」


その時、ふわりと野茨の香りが漂って来た。


硝子のように透明で硬い

少しばかり緑の気配がする爽やかな香りだ。


ふうと雪の顔つきが変わる。


「金剛。」


雪が顔をあげるとその額には赤い筋があった。


「うばら、か。」


金剛が静かに言う。


「……そうだ。私はお前をずっと待っていたのじゃ。

お前が生を授かった瞬間から、

私はお前がここに来ることを祈っていた。」


金剛が複雑な顔をする。


「それは分かっている。

俺が子どもの頃からお前はいつもいた。

だが、俺はお前が夫婦めおととなった金剛ではないぞ。」

「その体はな。だがその魂は金剛だ。

時間をかけて私は血縁に散らばってしまった

命の記憶を人の魂に集めたのじゃ。

お前の父親と母親の魂が重なった時にそれは完結して

鬼を封印出来るお前が生まれた。

私はどうしてもあの鬼を治めなければならない。

雨多うだ柆鬼ろうきを封印するのは金剛と私の心からの望みだ。」


うばらの額が少し開く。


「私はただの茨の木だった。

日に当たり花をつけ実を落とす。

それだけで良かったのに、あの鬼はなぜか私を選んだのじゃ。

自分の身の内に鬼は育った。

私は育てたくなかったのにな。」


雪の顔は既に元の顔でなくうばらのものだろう。

白く高貴な顔立ちだ。

だがその白さには人がおそれる何かがあった。


「鬼のが私を変えた。

知力と魔力を得て人の体も。

だが、それでも私は鬼のただの傀儡だったのじゃ。」


うばらがりついた雪が手を差し出す。


「お前の刀が私の額を裂いた。

その時私は初めて自分の意志を感じたのじゃ。

目覚めさせたのはお前、お前の刀だ。

その力はこの女子おなごも持っている。

この女子の力は鬼を留めることが出来る。

私にもあるが、あの時私は弱っていた。

だが今のこの女子は身も心も強い。

鬼と向き合う時はこの女子も連れて行け。」


先日の雪の話だ。

鬼と初めて対峙した時にかつての金剛が

刀を振り下ろした先にうばらがいたのだ。


「お前は私の人としての全ての始まり、

そして全ての終わりじゃ。

その終わりは近い。

私の苦しみを終わらせてくれ。」


うばらが目を閉じる。

涙が一筋流れた。


「そしてお前とずっと一緒にいたい。」


そう言うと雪の体がくたくたと崩れた。

金剛と彦介が彼女に寄る。


「大丈夫か、お雪ちゃん。」


彦介が言うとゆっくりと雪が目を開けた。

顔立ちはいつもの雪だ。


「……、あの、またうばらさんが。」

「ああ、うばらが雪さんに取り憑いた。

あの花のせいかもしれん。」


金剛が入り口の野茨の木を見た。

夜の中でその花は白く輝いている。


「金剛さん、」


彦介が深刻な顔で彼を見た。


「うばらさんが鬼と面する時に

お雪ちゃんを連れて行けと言いましたね。」


金剛は難しい顔をして黙り込んだ。


「そんな危ない事をお雪ちゃんにはさせられません。」


彦介の顔は真剣だった。

しばらく誰もなにもしゃべらない。


「……そうだよな、雪さんを死なす訳にはいかん。」


金剛が呟くように言った。

だがそれを聞いて雪が首を振る。


「いえ、私は行きます。」


雪は二人を真っすぐ見た。


「私はうばらさんの記憶を見ました。

金剛さん一人では無理です。

鬼を留めないと隙が出来ません。」

「お雪ちゃん!」


彦介が珍しく大きな声を上げた。

彼の脳裏に今日の昼間の光景が浮かぶ。

金剛と楽しそうに話す雪の姿だ。


「絶対に駄目だ、絶対に行かせない。

わざわざ危ない目に遭うなんて絶対に駄目だ。」


それを見て雪は返事が出来なくなった。

こんなに怒っている彦介を初めて見たからだ。


暗い明かりの下で雪は俯き、

彦介が両手を強く握りしめて雪を睨んでいる。

それを見て金剛がため息をついた。


「彦さん、あんたの言う通りだ。

わざわざ雪さんを危険に晒すなんてな。

俺が一人で行くよ。」


彦介が怒った顔のまま金剛を見て頭を下げた。

その横で雪が悲しげな顔をする。


うばらの言う通りにしないと失敗するかもしれないと

金剛は一瞬思った。

だが何かあればこの二人の未来を潰す事になる。

それだけは避けなければならない。


「さあもう夜も遅い。みんな寝よう。」


金剛が言うと二人は無言のまま別々の部屋に行った。

明かりが消えた居間で金剛がごろりと横になる。


「……どうしたらいいんだろうな、なあ、うばら。」


外から花の香りが微かに漂って来る。

だが金剛が感じるのはその香りだけだ。


二人の事も心配だ。

そして一人で鬼と向き合えるかも心配だった。


そしてもう一つ、

誰にも言っていない心配事があった。






金剛は明け方に荷車から刀と桶を取り出し川に向かった。

また魚を獲るつもりだった。

まだ皆は寝ていた。


鬼を封印するための刀だ。

それを子ども達に食べさせたいので魚獲りに使う。


それは良いか悪いか、

人に話せばそんなくだらない事に使うとはと

叱られるかもしれないと金剛は思った。


だが子ども達や人のためにそのように刀を使う事は、

くだらなくても悪い事ではないと思っていた。


自分や刀がこの世にどのようなめいを持って生まれて来たのか、

それは何となく悟っていた。

だからと言って他の用に使っていけないとは思えなかった。


子ども達が魚を見て喜ぶ顔、それで腹を満たす事も

とても大事であると。

そして子ども達に自分の命は何かの命の上に立っている事を

教える事も必要だ。

だからこそ生きている魚を見せる。

その姿を忘れる事無く手を合わせて食べるのだ。


川の流れは静かだった。

しばらく雨は降っていなかった。


そろそろ田植えの頃だ。

雨の季節が来る。

農民が本格的に忙しい時期に来る。

それまでには金剛は仕事を終えたいと思っていた。


金剛は刀を抜き川に入って行った。

手にいつもの静かな振動が来る。


その時だ。

自分の鼓動がいつもと違う拍子を打った。


一拍飛ぶ。

少し胸が苦しくなった。

金剛は刀を構えたまま目を閉じてそれを感じていた。


彼はほんの少し前から自分の体調に変化が来ている事が分かっていた。


長い旅暮らしだ。

元々頑強な性質たちだがそれでも歳をとったせいか

わずかな不調は感じていた。


そして今は、


「心の臓だな。」


金剛は呟いた。


仕方のない事だ。

自分もいい歳だ。

そろそろお迎えが来てもおかしくないのだ。


金剛は刀を静かに水面に振った。

光っているだけの刀の先端は水面ぎりぎりで止まっている。

すると魚が数匹浮いて来る。

金剛はそれを掴むと川辺に投げた。


金剛はもう一度剣を振る。

また浮いて来た魚を岸に投げ、川から上がると魚を桶に入れた。

その中で魚が再び泳ぎ出す。

これを見て子どもは喜ぶだろうなと金剛は思った。


「すまんな、子どもに食べさせたいんだ。

無駄なく頂くぞ。」


彼は桶を脇に抱えて歩き出した。


鬼にとっては人を喰う感覚は

人が魚を食べるのと似ているかもしれない。


だが人と鬼が違うのは、

鬼は人に対して害をなす事だ。

鬼が起こした出来事で人が苦しみ悲しむことを

愉しんでいるのだ。

それは許せない事である。


だからこそ、金剛は鬼を成敗する。


金剛が抱えた桶の中で魚が少し跳ねた。


「まあ近々俺もお前達が行くところに行くからな。

それで勘弁してくれ。」


彼は静かに呟いた。







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