目撃者
その頃、市警で取り調べを受けていた男は気が狂いそうになっていた。なぜマターオを殴ったのか、そこに今回の事件の手掛かりがあるかもしれないと思った警察に執拗に詰められて、ワニ、ワニと口走った。
「そうだ。あの死体にはワニの歯形がある。ワニの皮膚片まである。正確には脱皮した痕跡だがな。つまりだ、あの死体はワニに喰われたんだ。おまえがワニを使ってあの死体を無惨にもめちゃくちゃにしたんじゃないか? 鰐を飼うのには当局の許可が要る。ところが許可リストにはおまえの名前は当然ながら載っていない。なんせ娑婆に出たばかりだからだ。ところが娑婆に出たばかりのこそ泥のおまえは路上であの女性に向ってなんて言った? 『こいつがひとを喰ったんです!』だと? 言ってみろ。なんでそう思ったんだ」
男は沙漠に迷いこんだ羊のように錯乱していた。らくだでありたかった。男はじっとりと汗ばむ掌を握って昨夜を思い出そうとした。
ニューヨークの夜は闇につつまれた。
窃盗罪で刑期を終えたばかりの男、ママ・ママロンは手に職つかず、だからといって路頭に迷う生活に踏ん切りがつかずにいた。裏路地の残飯でもひっかけようかと猫が目をひからす小道に入りかけると、淡い振動がして、ぱっと街の明かりが消えた。すうっと死神が街を覆った具合に、なにものかの悪意が浸潤していった。
思わず空を凝視した。電線の隙間に月が隠れていた。猫が向こうからとびだし、ゴミバケツにぶつかって鈍い音がする。頭のなかで砂嵐に似た音がした。収拾がつかなくなった。
これは好機だ! これを逃せばもうあとはない! いまこそ本領発揮の時ではないか!
悪魔が耳元でささやいた。とっさにママロンは脚を大股に駈けだすと、手っとりばやく周囲にスーパーを探し求めた。道路のうえを何人もの人間が立ち往生している。思わぬ事に自動車が二重の光線を投げかけて走ってきた。そうだ、うっかり忘れていた。ガソリンだから停電とは無縁なのである。
そこで大通りを避けて手ごろなコンビニに入ると、あたりはまっくら、ものものしい空気につつまれていた。レジめがけて窓際の雑誌棚からカウンターへ向おうとすると、足下をこする音。床をひきずる音。靴にぴちゃぴちゃと汚水が撥ねる音。
なまぐさい臭いとともに食品棚の影からシャツを着た女が這いずって現れた。こちらに気がついて舌を出す。思わず
「大丈夫ですか」
「……ォオウ」
そろそろと近づくと相手も全身の汗を床にこすりつける具合に、ぬめりある動きで下肢を振って蛇行した。あまりに体軀の躍動がおかしく、前のめりにかがむと、前肢は月光に反射して凹凸の影をなし、股のあいだから第三の脚が円柱の棒の生き物のように左右にふれた。
「ワニだ!」
稲妻が脳天に走った。
それは、女の体軀でしなやかなうねりを駆動させている胴のまま、ジッとこちらを見つめていた。
下水道から這いあがってきたのか。
そうとしか思えなかった。マイケルがもぐって以来、音沙汰のない地下の話の進展が急に顔前に浮上したような気がした。
ママロンは取調室の目の前の警官にまくしたてた。
「思ったなんて生半可なものじゃない……! おれは見たんですよ! ニューヨークの街が停電した時、よかれと思ってそばのコンビニに入った。おれに似たような考えのやつはほかにもいるだろうと思って、早い者勝ちだったんだ。そしたら、見たんだ! ワニですよ! こーんなでっかいワニがいたんだ。しかもそいつは女のなりだったんです。腹這いになって、体を、こう、セイウチみたいに床に押しつけて、トドでもいい! 胸が圧迫されてたから絶対に女です。そいつがシーソーみたいに前後に躍動してたんだ。びっくりしてすぐ逃げたが、数十メートルも行ったら気になって引き返してきたんです。コンビニの角で待ち伏せていたが、しかし待てども現れなかった。そりゃあそうですよ。だって出てきたときには、人のかたちをしていたんだから。驚天動地していたからまったく気づかなかった。そいつが出て行ってから、誰も出てこないのでおれはコンビニへ戻りましたよ、ええ。それで気づいた。で、出て行ったやつを追いかけていったら、いたんですよ。集会場へ入っていった」
警官はきょとんと目を点にした。そのとき取調室の扉がひらいて、別の警官が現れた。小声で、
「集会場の死体の身元が判りました。指紋で判別できました」
「前科者なのか」
「いや、FBIのオルターさんです」
ささやいた。
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