第6話 ようやく#全裸 を回収できるかもしれない

 厚生労働省の通達によれば、「男子労働者が、常時、人力のみにより取り扱う場合の重量は、当該労働者の体重のおおむね40%以下となるように努めること。」とある。

 健康診断で判明した折井司の体重は、55.3㎏。

 つまり、運んでいいのは22.12kgまでの荷物である。


「……ぜったい、それよりも重いぞ、こいつ」


 背中で目を回している秋乃を全身で支えつつ、司はこぼした。

 女性を羽より軽いと形容することがあるが、十九歳女性の平均体重は52.2㎏なので、流石に失礼にはあたらないはず。

 

「くっ、こんなことなら少しは鍛えておくのだった」


 急がなくては、風呂から水があふれてしまう。司の下宿は、蛇口を捻ってお湯を溜めておくタイプである。満杯になったら自動で湯を止めてくれるような、ハイテクな機能はついていない。

 少しでも時間短縮になればと夏美に頼んだのが裏目に出てしまうかもしれない。


「お、お風呂はまだぁ……」

「うるさい、もう少し我慢していろ!」


 うわ言を受けて、足を速める司。しかし、転倒を避けるため無茶な加速はできないのだ。我慢してもらうしかない。


「……あっ!」

「なんだ? どうしたのだ、風呂屋の娘!」

「おふろがみえる……」

「どこに⁈」


 夕刻、大学構内、広場のど真ん中である。風呂などあろうはずがない。


「ゆげ……、おゆ……、アヒルさんが浮かんで……」

「何を言っている? 走馬灯的な感じなのか? うおっ、手を伸ばすな、バランスが崩れる!」

「まって、いま入るから、おゆ、さめないで」

「違う! お湯の前に、貴様が夢からさめるのだ! 戻ってこい、おおい!」


 頬を紅潮させ、何もない空間に手を伸ばす秋乃。はたいて気付けをしようにも、司の両手は秋乃の腹に回されており、自由が利かない。

 これが風呂中毒の最終形態か、と戦慄する司だが、彼は間を置かず更なる衝撃を受けることになる。


「いま、はいるから……」


 呟きと同時に、椅子を通じて秋乃が動く気配がする。


「……おい、貴様なにをしているのだ?」


 こみ上げる嫌な予感と共に尋ねるが、返事はない。

 ただ、走る司の足元にコトンと二足のサンダルが落ちた。


「うんしょ、」


 秋乃の腹に回していた司の腕を、するりと布がずれてゆき、次いでぴとりと、滑らかなものが吸い付く感覚が襲う。


「……き、貴様、何をやっている?」


 秋乃は現在風呂の幻覚に憑りつかれており、夢うつつで風呂に入る準備をしている。司の背に冷たい汗が流れた。


「一体何をやっているのだ? なあ、答えてくれ! お願いだから!」

「……」


 哀願する司であるが、背後のもぞもぞは止まらない。

 意を決して振り向くと、


「んぎゃああああああああああああああああああああああああああああ!」


 折井司は冷静沈着を旨とする男である。プライドが高く、頑固、弱みを見せるをよしとしない。しかし、背後にくっついた女子がシャツを胸まで持ち上げているとの状況には、絶叫を抑えることができなかった。

 興奮とかエロチシズムとかを通り過ぎて、原初的な恐怖が彼を貫いた。


「まてまてまて! 脱ぐな、脱ぐな!」

 

 慌てて両腕で、秋乃のシャツを引きずり下ろす。


「くそっ、あと五分我慢しろ!」

「おふろ……」


 秋乃の恍惚状態は途切れず、頑強に抵抗を続ける。

 このままではいずれ限界が来る。

 講義中の大学というものは、想像以上に人が歩いていない。昼下がりの高級住宅街にも匹敵する。休み時間以外は、人の移動がない場所なのである。

 助けを求めようにも……。

 そう思い視線を彷徨わせると、運よく女子が一人で歩いてくるではないか!

 彼女に秋乃の脱衣を止めてもらえば、運搬はぐっと楽になる。

 司は希望を見出して、女子に駆け寄った。

 


「おい、助けてくれ!」 

「あの、」

 

 彼女は顔を赤らめながら、


「どういうプレイか存じませんが、せめて室内で……」

「違う! 誤解だ! この女が勝手に脱ぐのだ!」

「行為の責任を女の子になすりつけるなんて……、最低」

「正論だが、そもそも誤解だと言っている!」

「しゅ、守衛さん! 来てください! ここにクズ男、クズ男がいるんです!」

「せめて聞く耳をもってくれ!」


 即時撤退。

 誤解が誤解を呼び、時間をロスするのが目に見えている。

 女子の声を無視して、走り出す司。


「風呂屋の娘よ、もう少しの辛抱、……!」

「おふろ……」


 シャツに込められた力が抜けたと思えば、今度はスカートに手がかかっている。


「いい加減に、やめろと言っているだろうが!」

 

 制止をかけようとして、バランスを崩した。司も派手に転び、頬を擦りむいた。

 痛みをこらえて立ち上がる。


 振り向けば、地面に投げ出した秋乃がいる。

 息が荒く、スカートとシャツに手を掛け、近づくだけで強制わいせつで逮捕されそうな状態で倒れている秋乃が。

 

 放り出せばいい。

 司の脳内に、そんな声が響いた。

 今日出会ったばかりの女子を、傷を負ってまで助ける義理はない。これ以上こいつに関われば、変態の汚名を着せられてしまう。

 いや、見捨てるのではない。もっと適任が助けに来るのを待つのだ。それならば、道徳的に責められることはないはずだ。

 そうだ、春風に電話しよう。春風津葉芽なら、講義を放り出してでもこいつを助けに来るだろう。出会ったばかりの俺が対処をするよりも、仲のいいらしいあいつに助けられた方が、こいつにとっても嬉しいはずだ。

 こいつが風呂に入るのが少し遅れるくらいで、……。


 

 全てを失った昨年の冬。

 司はそのことを家族にも、春風にも伝えなかった。

 どうでもいい奴らはどうでもいい。

 だが彼らにだけは幻滅してほしくなかった。いつかばれると分かっていても、告げる日を一日でも先延ばしにしたかった。下らないプライドだと分かっていても、誰をいつ頼るのかくらい、自分で決めたいと思った。

 秋乃が俺に事情を話したのは、(半ば強制とはいえ)彼女の意志である。

 彼女の意思が確認できない状態で、春風や赤の他人に彼女の秘密をばらし、介助を頼む。

 それは果たして正しいことなのか。


「ああ、くそっ、覚えていろよ……」


 呟いた司は、再び秋乃に近づいていく。

 今度は邪魔な椅子なしで彼女を背負うと、そのスカートとシャツをしっかりと押さえ、再び駆け出したのだった。

 

 

 


 



 


 


 

 



 


 



 

 


 


 

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