第5話 初めて聞く言葉の定義は、ややこしい
お風呂ジャンキー、とは。
一定の時間入浴しなければ、禁断症状が出る人間のことだという。
秋乃の場合、四~五時間の間に一度は入浴しなければ、「とんでもないこと」になるのだと。
「それはもう、とんでもないことになるんです……」
青ざめた顔で、秋乃は小刻みに震えながら言った。
「と、とんでもないって、具体的には? どうなるのだ?」
「意識を失って、うわごとを言い出すらしいんです」
「どんな?」
「最初は『おふろおふろおふろおふろおふろおふろおふろ』」
「怖いな!」
ほぼ妖怪ではないか、と司の頬が引き攣る。
「それが徐々に『フォッフォッフォッフォッフォ』に変わっていって」
「それはそれで怖いな!」
「そこから先は、」
わかりません、と秋乃は俯いた。
「わからない、とは?」
「文字通りです。誰も教えてくれないんです」
お風呂ジャンキー? 禁断症状?
荒唐無稽だと思った。
信じる方がどうかしているバカな話だ。
折居司は、その二十年の人生において、常識では測れない物事に幾つか遭遇してきた。その中でもこれはとびきりだ。ありえない。
しかし……。
『もう少し、頭を柔らかくされてはいかがですか?』
あのような助言に今更従ったところで何になる。未練たらしいのは心に毒だと分かっているのに。
「……バカめ」
呟いて、司は顔を上げた。
「風呂屋の娘よ」
「だから、ちがいますってぇば」
言い返す声にも、力がない。
「今言ったこと、全て嘘ではないのだな? ドッキリでもないのだな?」
こくり、と秋乃は頷く。
その目には、嘘をついている色はなかった。
司が尋ねる。
「あとどのくらい持ちそうだ?」
「もう、景色がぐるぐる回ってましゅ……」
ため息をつく。
スマホを取り出し、電話帳から「いもうと」を探し出し、タップする。
「おい、夏美」
『おかけになった電話番号は、ただいま電波のとどかないところに』
「ベタベタなボケをかますな。お前の声くらい聞き分けられる」
電話の向こうから舌打ちが聞こえた。
『……どしたの、お兄ちゃん?』
「お前、今どこにいる?」
『下校中だけど?』
「じゃあ、市バスだな。通話できてるってことは、これから乗るのか」
『そうだけど……。うわ~、ヤな予感がする……。電話を切りたいって感情が、とめどなく湧き上がってくるよぉ……』
流石の危機察知能力というべきか、ブツブツとこぼす夏美である。
「少し面倒かもしれんが、お前に頼みごとがあるのだ」
『やっぱりか!!』
「俺の下宿に向かってくれ。で、風呂を入れろ」
『なんで⁈』
半ギレの夏美は、
『なぜ風呂? 自分で入れろよ!』
「そういう訳にもいかんのだ」
『わたし、今日塾あるんですけど』
「塾は七時からだろう? ひとっ走り、寄り道する時間はあるはずだ」
『妹のスケジュール把握しすぎだよ! それでも一人暮らし大学生か⁈』
もっと実家に無関心であれ! と怒鳴られる。
「蛇口を捻っておくだけでいい。十分後には俺も帰還するからな。蛇口を捻ったら、帰って構わん」
『ええ? 意味わかんない!』
「説明している暇はないのだ」
『ああ、もうバス来たじゃん! 乗るよ? 乗るからね?』
「今度、プリンアラモードを奢ってやる」
『黙れ金欠』
通話が切れた。
こういう時の夏美は、なんだかんだで頼んだことを遂行してくれる。
伊達に長年兄妹をやっているわけではない。
さて。
「か、勘違いするでないぞ、風呂は俺も入るのだ。俺が風呂に入るついでに、貴様も運んでやろうというだけで……」
言いつつ振り向けば、……秋乃が完全に目を回していた。
「おい、風呂屋の娘! おい!」
駆け寄る司。
「目を覚ませ! 起きろ! 肩を貸してやるから、アパートまで歩くのだ!」
肩を掴んで揺らされても、秋乃はふにゃふにゃ言うばかりで目を開かない。
苦しそうではない、むしろ幸せそうなのが救いだが、自力での移動は不可能になった。
「どうするのだ、これ……」
途方に暮れる司。秋乃の唇が薄く開く。
「お……」
「『お』なんだ?」
「おふろおふろおふろおふろおふろおふろ」
「うるさいわ!」
その小さな頭をはたきたい。衝動を必死に抑える司である。
しかし、本当に秋乃の宣言通りの症状が出ている。意識が回復する見込みはなく、一刻も早く処置をする必要があるのは明白だった。
「くそう、かくなる上は!」
かがんだ司は、秋乃の背中と膝裏に手を回そうとする。
要するにお姫様抱っこである。
しかし、直前で司の動きが停止する。
「うっ……」
まつ毛が近い。踏ん張ろうと前屈みになると、息が首筋にあたる。
秋乃は華奢なので、腕力的には持ち上げることが可能なのだが、別の要因によって司は作業を断念せざるえなかった。
「くそう、かくなる上は!」
take2。
かがんだ司は、秋乃に背を向けた状態で彼女の座る椅子へと近づく。
椅子の背を倒し、秋乃の体重を受け止める。
要するにおんぶをしようしたのだが。
……せなかになんかあたっている。
「くそう、かくなる上は!」
take3。
直接触れるから悪いのである。
何かを間に挟めばよいのだ。
逆向きに座ってもらった椅子を背負子のように背負い、両腕を思い切り背後に伸ばす。両腕をベルト代わりにがっちりと秋乃の腹部を固定する。
おんぶの体勢に椅子を挟んだ、おんぶ改。
「フハハハハハ、これで文句はあるまい!」
こうして二宮金次郎のようなスタイルとなった折井司は、えっちらおっちら秋乃の運搬を開始したのであった。
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