第3話 お風呂と、折居司のプライド

 司たちの通う国立東山大学は、この地方一帯で最も名の知れた総合大学の一つである。入試倍率は毎年三倍を超え、即ち、学生のレベルも総じて高い。

 高校時代の司は、すこぶる勉強が得意だった。

 ストレスフリーな人生を送る上で、学歴はおそらく重要である。その点では、過去の自分を褒めてやるのも吝かではない、と彼は思っている。

 

 津葉芽の紹介してくれた臨時バイトは、文学部棟の心理実験室で行われるとのことで、司は早めの昼食の後、大学へ向けて出発した。

 講義棟へと続く桜並木は、既にピンクの衣を散らし、青々とした葉が茂っている。

 腕時計を確認すれば、時刻は十二時五十分を過ぎている。後で津葉芽に怒られたりするのは嫌なので、司はペダルをこぐ足を速めた。


 駐輪場に自転車を停めていると、


「あの~、被験者バイトの集合って、ここであってますか?」


 明るい声に振り向くと、ニコニコした笑顔とぶつかった。

 低身長、小顔。

 栗色の髪に、同じく栗色がかった大きな瞳。都会的なかわいい系の美人と言えるだろう。裾を一部インした白のTシャツ、膝上までのプリーツスカートにサンダルを着こなし、全身から楽しげな雰囲気を発散させている。

 司と最も縁のないタイプの女性である。


「ああ、ここで合ってると思うぞ。それそろ時間なのに誰も来ないが」

「ありがとうございます。よかった~!」


 胸をなでおろした彼女は、ふと真顔になった。

 司の顔を覗き込むと、むむむ~、と思案顔である。


「俺の顔になにかついているか?」

「いえ、違うんですけど。あれ? なんか見覚えがある気がするなぁ……」

 

 司も健全な男子である。女子に至近距離で舐めるように見つめられて、平静を保つことは難しかった。


「おい、ちょっと離れろ貴様」

「ごめんなさい、でもあたし記憶力には自信あるんです。すぐに思い出しますから!」


 手を打って、


「もしかして昨日、NHKの動物番組に出てました?」

「いや、でてないが……」

「あれ? 違ったかぁ……」


 司は知る由もないが、昨晩はアフリカのサル特集が放送されていた。


「待ってくださいね、もうちょっとで思い出せそうなんですよ……。このアングル? いや、こうでもないな……」 


 モデルの撮影会のように様々な角度から司を観察する。

 一歩離れて、全身を視界に収めた女子は、ぱあっと表情を明るくした。


「わかった! あなた、アパートの一階の人ですよね!」


 そう言われれば、司にも思い当たることがあった。


「そうか貴様、二階に住んでいる『女子大生』か」


 いつも「今どき」の女子大生なファッションに身を包んでいることから、司が『女子大生』と呼んでいる相手である。凄い勢いで廊下を走っている姿を幾度か目撃しているので、司の印象にもなんとなく残っていたのだった。

 なんとなく楚々とした人だと思い込んでいたのだが、こんなに元気な感じだったのか。

 遠目に見た時と実際に話してみた時で印象が変わるのはよくあることである。


「失礼しました。じゃ、改めて自己紹介をば。わたし、橘秋乃っていいます! 文学部の二回生です!」

 

 名乗られては仕方がない。最低限のマナーとして、司も自己紹介をした。


「折井司だ。文学部二回」

「折井くんって言うんだ。つばちゃんも隅に置けないなぁ」

「いや、あいつとはただの飲み友達だ。そういう誤解はやつの名誉に関わる。やめてくれ」


 秋乃は首を傾げる。


「あれ? 自分の名誉じゃなくて、です? 確かにつばちゃんはかわいいですけど、ちょっと卑屈すぎません?」

「ふん」


 司は思い切り鼻を鳴らした。


「あいつが関わろうとしたのは俺であって俺ではないのだ。今の関係など、俺がやつの情けに縋っているだけにすぎん。出がらしのようなものだからな」

「……よくわかりませんが、初対面で、そんなメンドくさそうなこと言わないでください」 

「あ、すまん」

 

 いろいろと複雑な事情があるのだ。

 重くなり過ぎた空気を仕切り直すように、秋乃は「話は変わりまして!」と言った。


「折井さんは一回の時からあのアパートに住んでたんですか?」

「そうだが」

「あたし、今年の三月にあのアパートに越して来たんですけど、本当にびっくりしましたよ~。今どき、あんなにボロい下宿があるんですね」

「まあ、そうかもな……」


 実はそこまで言われるほど酷い環境でもないのだが、女子大生の一人暮らしと考えれば、適切な物件とは言い難いのも事実である。


「階段がところどころ錆びてるし、天井と壁は薄いし」

「Gは出るし、耐震性能は怪しいし」


 下宿の悪口は、大学生の社交辞令の一つである。

 ただ一年以上住んでいる身として、けなしてばかりというのも気分が悪い。

 そう思った司は、少々のフォローを試みることにした。


「まあ、最悪でもないと思うがな。いい所といえば、大学から近いのと、家賃が比較的安いのと、あと……」


 考えてみるが、意外と褒めるところが少ない。 


「強いて言えば、風呂とトイレが別々か」


 迂闊にそう口走ったのがまずかった。 


「お風呂!」

「は?」


 がばっと乗り出した秋乃に、司は目を白黒させる。


「折井くんも分かるんですね! やっぱりいいですよね! あの風呂!」

「……?」


 ユニットバスでないという指摘をしただけなのに、何か妙な誤解されているような。しかし司が訂正するより前に、目を輝かせた秋乃が続ける。


「あたし、お風呂のサイズで下宿を決めたんです! トイレと別で、足を伸ばせて、でも広すぎないちょうどいいサイズのお風呂! 浴槽とそれ以外の部分の面積比も理想的だった!」

「はぁ……」

「引っ越したその日に、浴槽とタイルを真っ白に磨き上げましたもん! これ以上ないってくらいにピカピカに! 磨けば光るってああいうことを言うんだなって思いましたよぉ!」

「そうなのか……」

「あのお風呂なら、どんな人でも毎日三回は入るはず!」

 

 笑顔で断言する秋乃に、司は言った。


「すまんが俺、ひと月は風呂に入っていない」

「え?」


 秋乃の笑顔が凍りつき、それからみるみる真っ青になっていく。


「近寄らないでください、……フケツです」

「いや、誤解するな! 湯船に浸かっていないという意味だ。シャワーは毎日浴びている!」

「よかった~。って、いやいやシャワー浴びてたとしても。あんなに素晴らしい湯船があるのに、使わないなんて宝の持ち腐れですよ~」

「そうか……?」


 司は、カラスの行水である。秋乃の感性は理解の外だ。


「下宿生ならシャワーだけで済ませるやつも多いと思うが」

「確かにシャワーがお風呂の重要な一工程であることは認めますが、あくまでパーツに過ぎません。肩まで浸かって、ゆっくりしてこそのお風呂です」


 なにやら彼女なりの美学があるらしい。


「まあ、好きにすればいいだろう」

「ダメですよ! 折井くんもちゃんと湯船につからなきゃあ。リラックス効果もあるし、リンパの流れもよくなるんですから」

「余計なお世話だ」

「そんな言い方ないですって~」

「湯船には浸からん。絶対にだ。これが世の中の大学生の常識なのだ」


 張り合い始めると途端に幼稚になる。それが折井司である。


「そこまで言うならいいでしょう。無理やりにでも浸からせます!」

「水死体にするつもりか!」

「じゃあ、浸かるまで見張ります!」

「それは俺の風呂を覗くということだぞ。変態」

「違います!」


 秋乃は反撃とばかりに、こんな事を言い出した。


「ていうかぁ~、さっきから聞いてますけど『貴様』、『貴様』って時代劇みたいですね。そんな人に大学生の常識を語ることなんてできるんですかぁ?」


 口元を隠して、


「ふふ。折井くんって、面白い人っ!」


 背景に雷のエフェクトが流れたことだろう。

 「面白い人」とは、理解できないけど肯定しておこうという包容力まがいの憐憫が溢れるが故に、言われた方は非常に惨めな気持ちになる、陰キャ殺しの劇薬である。

 高すぎるプライドと繊細なハートを併せ持つ折井司は、こうした挑発への耐性がほぼ皆無だった。  

 額に怒りマークを浮かべて、司は切り出す。


「ふ、ふふ、ときに風呂屋の娘よ」

「いえ違いますよ? 実家が銭湯だからお風呂を擁護しているとかじゃありませんよ?」


 むしろ一人風呂至上派です、と秋乃。


「風呂なんぞ、極論すればトイレみたいなもんではないのか? 容器の中に水道水が溜まっていて、排水機能もあるのだからな」

「なっ! なんてことを……」


 秋乃が目を剥く。


「お風呂は人類の叡智の結晶なんです! トイレとは違う! ナポレオンだってそう言うにきまってます! フケツなドーテーくんには分からないかもしれないけども!」


 無論トイレだって、立派な人類の叡智の結晶である。しかし、後半の罵倒にショックを受けた司はそれを指摘するどころではない。


「フケツ……ドーテー……。ふ、ふんだっ、貴様など、どうせ入浴中に自身のボディラインを確認し悦に入っているのだろう。『あたしのカラダ以上に美しいものがあるだろうか』とか思っているのだろう。だから、貴様は風呂が大好きなのだ。要するに貴様は痴女だ、痴女!」

「……⁈」


 当てずっぽうな上、論理も破綻、なにより完全な個人攻撃だったが、秋乃には効果覿面であった。

 理由は、推してしるべし。


「痴女じゃない! そう言うあなただってどうせ、毎日自分の腹筋を見て悦に入っているんでしょ! 痩せてるから割れてるだけなのに! ガリガリだから、割れてるだけなのに!」

「……⁈」


 完全に当てずっぽうだったが、司には効果覿面であった。

 理由は、推して知るべし。

 

「ふふふ、バカな。だが、言わせてもらおう。俺は悦になど入らないし、そもそも貴様の風呂必要論は根本から間違っているのだ。そう、中世ヨーロッパの貴族は、一生に数回しか風呂に入らなかったらしいではないか。つまり風呂は人類にとって必要なものでもなんでもない! 浴槽に湯をためるなど愚の骨頂。そんな余裕があるのなら、水不足の国や地域に分けてやるべきなのだ!」


 こうした討論においてのみ無駄に冴えわたる、司の無駄な弁舌である。


「うぐぐぐぐぐぐぐ……」


 唇を噛む、秋乃。 


「でも、でも、あたしはっ」

「でも、なんだ? 言えるものなら言ってみろ」

「あ、あたしは、」


 真っ赤になった顔で、女子大生は叫んだ。



「お風呂に入らないと、死んじゃうのっ!」


「……?」

「っ!」

 

 意味不明な発言に首を傾げる司。

 いや、先刻までの発言も相当に意味不明であったが。

 一方の秋乃は、慌てて口を覆った。


「おい、死ぬとはどういうことだ」

「え? あたしそんなこと一言も言ってないよ? あ、折井くん、よかったらアメちゃん食べますぅ~?」

「露骨に誤魔化すな」


 余裕を取り戻した秋乃に追及を躱されているうちに、ごめんごめん、と謝罪を連呼する先輩らしき人がやってきた。そして、発言の真意を聞き出せぬまま、司は人文学棟の一室へと案内されてしまったのだった。

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