第2話 バイトを、しようよ
「なあ春風」
『なぁに、折井くん……』
「40度の酒を5度の焼酎で割っても8度にならないのはなぜだ?」
『正解はCMのあとぅ~』
「なぜ酒を飲むのか、そこに酒があるから」
『ふふ、おしゃけ……』
「そうだな、春風。おしゃけと言ってもサーモンの方ではないのだぞぉ、二十歳未満は摂取しちゃだめなほうなのだぞぉ」
『あはははは! 司くぅん、それはすばらしいギャグですのう』
「そうだろう、そうだろう!」
「天狗の舞」の一升瓶を片手に握った
『ていうかさ~』
と呟いた。
『空が明るいね……』
「ああ、そうだな……」
六畳一間に、ビールの空き缶が所狭しと転がっている。
窓を覗けば、ランドセルを背負った小学生が元気に登校していく姿が見えた。
電線の上でスズメがかわいらしい声で鳴いている。
ちゅんちゅん、ちゅんちゅん……。
ちゅんちゅん、ちゅんちゅん……。
ちゅんちゅん、ちゅんちゅん……。
「ぐぁぁああああああああああああああ!」
イヤホンから大音量が流れ込んだせいか、津葉芽が顔をしかめる。
『ちょ、なに? 急にどうしたの? 頭に響くよ、折井くん』
「さすがにダメだろう、これは! さすがにダメだろう、これは!」
司は卓袱台を、ワニワニパニックを叩くかのように連打した。
「俺は今我に返ったぞ。ここ三日、毎晩飲んだくれて気がつけば朝を繰り返している! こんな不健全な生活が許されていいはずがない!」
『え? いまさら?』
現実の重たさに打ちひしがれ、卓袱台に突っ伏してうんうん唸っていた司だったが、天啓を受けたかのように突如がばりと顔を上げ、
「あっ、そうか! 気が付いた! 俺は同じ日を三度繰り返してしているのだ! これこそがタイムリープだったのだ!」
『ごめん、普通に三日経ってるよ』
司の妄言を、津葉芽がばっさりと切って捨てた。
「くそう、タイムリープなら飲んだくれたのが実質一晩カウントになると思ったんだがな。そう上手くはいかないか……」
現実逃避に失敗した司はもぞもぞと戸棚に向かい、朝食のカップ麵を取り出し、電気ポットのスイッチを入れた。一晩の深酒でも身体に悪いという正論を振りかざす人間は、例によって不在である。
『まあまあ、飲んだくれるなんて司くんにはよくあることじゃない。気にしない、気にしない』
「よくあるのが問題なのだ。だいたい考えてみれば、晩酌に誘うのはいつも春風、貴様の方ではないか! つまり、俺の生活が崩壊しているのは貴様が悪い!」
『いやー、一人で飲むのつまんないし~。オンラインだから、画面つなぐだけだしね~。気軽に誘えちゃうのですよ』
朗らかに笑う春風の顔には、既に酒の気配はない。長い黒髪がトレードマーク、大和撫子的な風貌の彼女は、実はロシア人と見まがうほどの酒豪である。
『でも、ストレスフリー主義の折井くんがQOLを気にするなんて意外かも。ストレスさえなければ、別に自堕落でもいいんじゃないの?』
「ふん、バカめ。夏美同様、貴様も何も分かっていないな!」
自説を開陳するときにふんぞり返るのは、司の癖である。
「ストレスフリーとは頑張らないことではないのだ。努力や挫折を経験せずに、お手軽に適度な達成感と充実感のみを手に入れる。それがストレスフリーなのだ」
『折井くん、そろそろ誰かに謝ったほうがいいんじゃない……?』
ストレスフリーの概念を最初に提唱した、偉い誰かに。
そんな津葉芽の心配を無視して、司は続けた。
「要するにだ、酒浸りの生活は、自堕落すぎてストレスフリーの概念にそぐわん。俺は適度な充実感を得る必要がある!」
無駄に偉そうに、こう締めくくる。
「つまり、早急に何かをやった気になる必要があるのだ」
実際になにかをやるのではなく、「やった気になる」だけでいいというのがミソである。血のにじむような努力も、血を吐くような悔しさも、ノンストレスライフには無用なのだ。
ふーむ、と画面の向こうで思案顔だった津葉芽は、ぱっと表情を輝かせた。
『じゃあさ、折井くん。バイト、しようよ!』
「なに? バイトだと?」
立膝をついて、画面につめよる司である。その目には、強い猜疑の光が宿っている。
「いいか春風、言うまでもないと思うが、俺は主義としてストレスの多いバイトはしない。『仕事を通じて成長できる』といった詐欺まがいの謳い文句は俺には通じんぞ……?」
『そんな警戒心を露わにしなくても。安心してよ、滅茶苦茶ちょろいバイトだから』
「それはそれで警戒を要する」
『面倒くさいなぁ~』
旨すぎる話には裏があるものだ。当然の用心だと、司は思っている。
『今回はホントに大丈夫なやつだよ。サークルの先輩がやってる、被験者のバイトなんだけどね』
「ほう……?」
『あ、薬の治験とかじゃないよ。なんか修論に必要らしくて。心理学、空間認知だったかな、色んなサイズの部屋で計算問題を解いたりするの。
拘束時間は三時間
報酬は三千円』
時給千円か。悪くはない。
悪くはないが、もう一声欲しいような気もする条件だ。
計算問題を解くだけならさほど労力はかかるまいが……。
司が逡巡していると、
『折井くんさぁ』
呟く津葉芽の笑顔に悪魔的なものを感じて、司はパソコンから後ずさる。
「……な、なんだ?」
『私に借金あるの、覚えてる?』
「……」
司の背中に嫌な汗が流れた。
「ちなみに、お、おいくらほどだっただろうか……?」
『ふふ、さあ~? いくらでしょうね?』
にこりと津葉芽は微笑んだ。
このあといくらかのやり取りを経て、司は津葉芽の提案を受け入れる。
本日の午後一時から、三時間の労働である。
どちらにせよ、教科書購入などで金が入り用な季節である。予定外の収入は司にとってもありがたいのだ。
『あ、言い忘れてたけど』
高速フリック入力を駆使してその先輩とやり取りをしながら、春風は付け加えた。
『もう一人私の友達、同じ時間に斡旋してるから、仲良くしてね~』
「言われるまでもない」
弱みを握られている司は食い気味にうなづく。
実際、仲良くするなど造作もないのだ。余計なことを一切喋らず、無難な相槌に専念すればいいのである。
踏み込み過ぎず、摩擦を避ける。ストレスフリーな人間関係とは、そうした地道な努力の上に築かれていくものなのだから。
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