肩まで浸かって、十まで数えて!
@nakataji-syakusi
第1話 世の中、バカばかり
世の中はバカで溢れている。
研究で心身をすり減らしている奴、スポーツに打ち込み、負けて悔しがっている奴、実らない恋愛に苦労する奴、どいつもこいつもバカばっかりだ。
人の能力には限界があり、負担はできるだけ避けるに限る。
無謀な夢は追わないし、複雑な人間関係などもってのほか。
そう、時代はストレスフリーだ。
根性論で人生を損なっては元も子もない。
ストレッサーは可能な限り排除すべきで、無理は良くない、嫌なことからは逃げて構わない。
だから俺は大学二年生になっても、サークルにも入らなければ、コンパに参加したりもしないし、レポートだって「可」のみを狙う。無駄な友人は作らない。
誰に憚ることもない、これは最先端の幸福追求法なのだ。
大学から徒歩五分、居酒屋チェーン『鶏華族』の店内。
司の演説が終わったあと、彼の妹、夏美はぽかんと口を開いてから、言った。
「ニートまっしぐら」
特徴的なハスキーボイスが、騒がしい店内に吸い込まれて、消える。
「ふん、バカめ!」
司は腕を組んで、ふんぞり返った。
「ニート、若年無業者。働かないと言えば聞こえはいいが、世間の風当たりを考慮すれば、あんなにストレスの多いライフスタイルもあるまいよ。いいか、真のストレスフリーとは、」
ダンッと音を立てて、テーブルにグラスを置く。
「背伸びしない職場環境で、微妙にやる気のない上司の下、ほとんど期待されない仕事を最低限の力で淡々とこなし、妬まれもせず非難もされず定年まで波風立てずに勤め上げることをいうのだっ!」
「兄の労働観が甘すぎる……」
勤め上げるだけで大変なんだよ、舐めちゃダメだよ、と勤労経験のない妹に諭された。
「まったく……。『サークルとか入った?』って世間話のつもりだったのに、ここまで話が膨らむなんて」
「ふん、兄を見直したか」
「うん。マイナス方向に」
自分語りだけでこれだけ喋れるのちょっとキモいよ、と。
余計なお世話だと、司は思った。
〆の鶏白湯麵を二杯、タッチパネルから注文していると、夏美が再び口を開いた。
「でもさ、お兄ちゃんの理想って、それはそれでしんどくない?」
「どういうことだ?」
「いやだから、運の要素が絡むわけじゃんさ」
夏美はレバー串を噛み切りながら、
「えっとつまり、ぬるま湯に執着しすぎると、後が怖くない? ほら、クラス替えの時だってさ、『優しい先生に当たりますように!』って祈ってると、怖い先生だった時ショックだけど、『怖い先生でもどんとこい!』って初めから思っとけば、怖い先生でも平気、みたいな」
「なかなか鋭いことを言うな」
「うへへ」
「中学生のくせに猪口才な……」
「中学生だからこそ、かもね!」
横ピースである。司は鼻を鳴らした。
「ふん、覚悟の方向性の問題だ。潮の流れが激しくとも、泳ぎ続けることでしかたどり着けない場所がある」
「う~ん、わかるようなわからんような……」
「まあ、ここまでの話が妥当かどうかはともかくとして」
夏美は、運ばれてきた白湯麵をふーふーと慎重に冷ましつつ、
「少なくとも、お兄ちゃんには絶対無理だと思うけどね。そんな、干からびた魚みたいな生き方」
「……ほう、何故そう思う?」
「ん~?」
少し考えるふりをして、
「……なんとなく?」
首を傾げて、疑問符を浮かべてみせる夏美。
敏いとはいえ、所詮は中坊。
誤魔化されたのが司にもわかった。
気を遣われるのは心苦しい。夏美がちょくちょく様子を見に来るのも、両親の差し金もあってのことだろう。
少し冷えた空気を敏感に感じ取ったのか、白湯麵をすする夏美は、あ、もう八時じゃん、と店の時計を見て呟いた。
箸を置く。
「じゃ、そろそろ帰るね、お兄ちゃん。今日はご馳走様」
席を立ちかける妹を、司は鋭く制した。
「いや、こちらこそご馳走様と言わせてもらおう」
「へっ?」
瞬きする夏美。そんなかわいい妹の方へ容赦なく伝票を押しやりながら、
「聞いて驚け。俺は今日、財布を持ってきていないのだ。ふふ、お前なら分かるだろう、これに込められた並々ならぬ決意とかくごふっ!」
勝ち誇っていたらグーパンされた。
「おい! 何をする!」
「下宿までチャリで三分だろ。取ってこい」
「……はい」
わかりました。
わかりましたから、そんな目で睨まないでくれ。
妹の軽蔑を背中でひしひしと感じながら、司は店を出て夜の街に漕ぎだした。
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「まったく、なんなのだあいつは。少しは兄を敬ってだな……」
住宅街を仄暗い街灯が照らしている。
ぶつぶつ呟く司は実に不審者的だったろうが、男子大学生という人種は皆大なり小なり不審者なので、問題はない。
駐輪場に自転車を停めていると、アパートの二階、司の部屋の真上の廊下を女子が駆け抜けていくのが見えた。
身長が高く見えるのは、パンプスを履いているせいだろうか。
いつも「今どき」の女子大生なファッション(司基準)に身を包んでいることから、司は便宜的に『女子大生』と呼んでいる。
それにしても、あの走り方は尋常ではない。
推測するに、
「漏れそうだったか……?」
いや、我ながら下世話過ぎる。以後慎まねばなるまい。
自戒した司は部屋の鍵を開け、きちんと財布を確保すると、再び自転車を飛ばして『鶏華族』へと舞い戻り、無事に会計を済ませた。
微妙に足りなかったので、夏美にも出してもらった。
格好のつかないことで、実に司らしいと言えた。
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