第88話 《SIDE:小早川沙月》

   ◆《SIDE:小早川沙月》◆


 沙月はとても複雑な気持ちだった。


 心の師であるハルカがきてくれたことは、ありがたい。

 たぶん、もしかしたら、心配してきてくれたのかと思う。

 そうだったら非常に嬉しい。


 だけど小早川の事情は自分の家の問題であり、ハルカには関係がない。

 たくさんお世話になったのだ。

 これ以上迷惑をかけたくない。


 他人を頼れば弱くなる――と教えられてきた。

 だから、沙月はハルカに頼ってしまうことに忌避の気持ちを覚える。

 申し訳なさ、家の教えに反する気持ち、弱くなる自分への迷い――。


 弱い自分に価値など何一つありはしないのだから。


 自分の目的や、家の教え、ハルカに対する気持ち、そのすべてが思考を乱す。


 もうすぐ、六儀園にて『顔見せの儀』が始まる。

 ハルカは今少し離れた位置から見てくれているはずだった。




 そんなことを考えていたら、目の前を落ち葉が通り過ぎて行った。


 場所は六儀園。


 江戸幕府、第五代征夷大将軍徳川綱吉の側用人、柳沢吉保が造営した庭園である。

 江戸でも二本指に入る名園であり、今回、『顔見せの儀』を行う場所だ。


 夏の暑い日差しを受けながら、緑の庭園の中を進む。

 本日に限り、殺し合いは禁止だったため、少しだけ開放感を覚える。


 沙月は、和風建築の建物の中へと入った。

 14畳の和室へと入ると、すでに他の参加者が4人ほどいた。



 沙月はその静かな和室に足を踏み入れると、一礼をして静かに部屋の隅に座った。

 参加者たちはそれぞれに緊張を隠せず、互いの顔を窺うように静かに様子を見合っている。


 しかし、今日一日の間だけ敵意を忘れる休戦日だ。


 互いの意識の奥底では、明日再び敵として対峙するという事実が静かに渦巻いていたとしても、戦うのは今ではない。


 六儀園の心地よい風が和室の襖を通してそっと吹き抜ける。

 窓の外には緑豊かな庭が広がり、時折鳥の鳴き声や虫の声が聞こえてくる。

 ここはまるで別世界のようだった。


 沙月の瞳は、一瞬たりとも他の参加者から離れない。

 この顔見せの儀が終われば、再び戦いが始まる。

 その事実が、沙月の心を重く圧し掛かる。

 しかし、沙月はそれを表に出さない。

 感情を内に秘め、静かな沈黙を守り続ける。


 沙月の隣に座るのは若い男で、彼は沙月の名前を聞くと、ほんの一瞬だけ微笑を浮かべた。

 しかしすぐに真剣な表情に戻り、何もなかったかのように目を閉じて瞑想に耽る。


 上総小早川の二人も、沙月からは少し離れた位置に座っていた。


 今もハルカは見守っていてくれるのだろうか。

 そう思うと、気持ちは少しだけ落ち着いた。

 だがそれは同時に、自らの力だけで生きていくという意志を揺るがすものでもあった。


 六儀園でのこの顔見せの儀は、ただの形式ではない。ここにいる全員が次の戦いへの一時的な休息を得るため、そして、互いに対する最後の敬意を払うためのものだった。

 沙月は静かに目を閉じ、心を落ち着かせる。


 すると外から気配がした。

 和室の雰囲気が微妙に変わる。

 三十代に見える男が入ってくる。


 彼が静かに襖を開け、室内に足を踏み入れた瞬間、空気が緊張で張り詰める。

 彼の身体からは、戦いの荒んだ気配が漂っていた。

 沙月はその人物を見て、無言で一礼をする。


「皆の衆。よく生き残り、ここまで参った。私は武蔵小早川泉家当主である。この場を取り仕切らせていただく」


 武蔵小早川泉家。

 それは東京に存在するもう一つの小早川であり、沙月の父と前回の武祭で争った人物であった。

 死亡率90%を超える武祭の生き残りだった。



「それにしても今回は傑物が多い。もしくは、少ないのかな。五人も生き残るとはな」


 取り仕切り人はそういって皮肉げな表情を浮かべる。


 取り仕切り人は、参加者たちの緊張が高まる中で口を開く。

 その風格ある立ち姿からは前回の武祭で生き残った実力者であることが感じ取れる。

 部屋の静寂を破り、彼の声が和室の隅々にまで響き渡る。


「本日ここ六儀園に集いしつわものたちよ、静かに耳を傾けたまえ」

 彼の眼差しは一人一人を見据えていた。

 歴史と伝統を感じさせる落ち着いた声音で発言を続ける。


「我らが武祭は、単に勝者や本家などを決めるためのものではない。そのことは存じているか?」


 沙月は頷く。周囲からも頷く気配があった。


「これは名誉のためのものである。我ら小早川は裏切りの汚名を甘受してきた。そこで江戸の世において、将軍様の開く御前試合に出場した」


 御前試合。

 それは将軍や高貴な人々が直接見守る中で行なわれる武術の試合である。

 参加する武士にとっては最高の栄誉だった。

 この試合は単に技術の優劣を競うだけでなく、武士としての格、家の威信をかけた戦いでもあった。


「古より続くこの小早川に、多くの試練と苦難が降りかかってきた。かつて裏切りの汚名により名誉を汚され、御前試合においても敗北の憂き目に遭い、その重荷はなおも我らの肩にのしかかっている」


 苦しげな声で言う。


「だが、小早川の名に刻まれた汚名は、未来において栄光の名と書き換えられるだろう」


 取り仕切り人は拳を握る。


「武祭は、ただ単に強者を決定するためだけのものではない。これは、我らが家の名誉を取り戻すための一手であり、過去の誤謬を正すための機会であり、運命を自らの手で掴み取るためのものである」


 鋭く、参加者たちを一瞥する。


「江戸の小早川が、時の将軍様と御前試合で勝利すると約束をしたという。御前試合はもう行われなくとも、御前試合で勝てる武士もののふを輩出するのだ。我らは二度と裏切ってはならぬ」


 血走った眼だった。


「常に頂点であれば、次に御前試合が開かれるときの勝者は我らである。ならば我らはその時まで刃を研ぎ澄ませるまで。小早川の伝統を以って、我らが血脈を脅かすいかなる試練にも、不屈の精神で立ち向かうべし」


 声がだんだんと大きくなる。


「武祭を続けるほどに我らの血と技は研ぎ澄まされる。並び立つ者のいない覇者となるのだ。我らの振るう刀の一閃が、小早川の新たな伝説を築く。我々の魂の叫びが、裏切りの汚名を清算するための一助となるだろう」


 全員に刻み込むようにいう。


「逃げず立ち向かえ。立ち向かえば、たとえ死しても、我らの名誉は報われるだろう」


 それは呪いの言葉のようですらあった。


「逃げるくらいならば、死ね」


 そうだ。

 小早川は決して逃げてはならない。

 そう言われている。



 その後、それぞれがその場にそろった一同に挨拶をする時がくる。

 まずは武蔵小早川泉家のもの。



 次に沙月の番がきた。


 沙月は深呼吸をし、静かに立ち上がった。


 まず、心を込めて深く一礼し、参加者全員に一度目を合わせてから、堂々とした声で挨拶を始める。


「私は武蔵小早川櫻家の次女、沙月と申します。この六儀園で、顔見せの儀に臨むことを誇りに思います。私は武蔵小早川櫻家の代表として、最強を目指します」


 息を吐く。


「過去の栄光を超えるため、私はこの刀を持ち、強さを追求し続けます。小早川の名の下に集い、歴史に名を残すような偉業を成し遂げるため、私は誰よりも強くなることを目指します。この武祭は、ただの試合ではありません。それは、最強への道を切り開くための戦いです」


 取り仕切り役の男を強く見る。


「かつての栄光を取り戻し、さらなる輝きをこの小早川家にもたらすため、私は刀を手にしました。この輝かしい歴史を背負うことは誇りであり、さらに強くなるための機会でもあります。小早川の名のもと私は、将来にわたって続く明るい運命を自らの手で切り開いていくことを誓います」


 それは誇張が過ぎていた。

 沙月自身、小早川家全体に対する思い入れなどはない。


「私の目指すは、ただ一つ。不動の力となること。武蔵小早川櫻家が直面するすべての挑戦に立ち向かい、揺るぎない強さをもってそれを乗り越えることです。この武祭は、その力を示す場となるでしょう。そして、私はその力をもって、我々の家が夢見た最も光り輝く未来を実現するために戦います」


 強くなるのだ。

 そう、誰よりも強く。


 ――まるで光り輝いて見える師匠のように、強く。


「私は今日、この顔見せの儀において、私は誓いを立てます。最強を目指し、止まることなく前進し続けるという誓いを。この場に立つ私たちは、自らの運命を切り開く者たちです。私は、他の参加者をねじ伏せ、その先頭に立ち、全てを超える力を示すことを約束します。私の剣は、私たちの未来への道しるべとなるでしょう」


 沙月が言い切ると、取り仕切り役の男は満足そうにうなずいた。


 それからほかの参加者たちが挨拶をしていく。

 以降は特に何事もなく、顔見せの儀は終わった。


 次は本戦だ。

 顔見せの儀まで生き残った小早川は、広島にある小早川本家にて、真剣による試合をするのだ。

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