47 母親
大晦日に、あたしは実家に行った。大樹は抱き付いてはこなかった。その代わりに、塾の成績表を見せてきた。
「一番上のクラスにおるんやで。凄いやろ?」
「凄いなぁ。よう頑張っとうなぁ」
ダイニングテーブルには、毎年同じように、寿司が並べられていた。あたしは自分の席に座った。キッチンからは、すでにダシのいい匂いがしていた。園子さんが言った。
「みんな、先に食べとき。お蕎麦すぐ用意するからね」
父親が真っ先にマグロに手をつけはじめた。あたしはイクラだ。この年のカウントダウンは、大樹も起きていて、一緒に新年を祝った。
「大樹、園子、もう寝えや。蘭と話したいから」
「えー、おれも起きとく!」
「あかんよ大樹。お父さんとお姉ちゃん、大事な話あるねん。もうベッド行きなさい」
父親は、いつかのようにビールをグラスに注いで出してくれた。
「蘭、彼氏とは別れたんか」
白夜とのペアリングは、大樹に突っ込まれると面倒なので、財布にしまっていた。
「ううん、まだ。でも、東京で就職決まったから。卒業したら別れる」
「東京までついていかへんのか?」
「だって、あたし神戸におりたいもん」
「まあ……気持ちはわかるわ」
父親も、結局神戸を離れられなかった人間だ。こうして一軒家も買った。死ぬまでこの地に居続けるのだろう。
「それで、蘭。ほんまに西宮のとこ就職するんやな?」
「うん。卒論も書けたしな。四月になったら、今の家から西宮まで通うよ」
「そうか。ほな、ちょっと早いかもしれへんけど、これ、渡しとくわ」
一旦父親は立ち上がり、引き出しから一通の封筒を出した。封は固く、ハサミで切って中身を開けた。
「これな。蘭が社会人になったら渡してくれって言われとったんや」
生みの母親からの手紙だった。
『蘭へ。就職おめでとう。手紙を書くなら、このタイミングだと思ってそうしました。これから、しんどいこと、辛いこと、たくさんあるでしょう。社会とはそういう場所です。学生時代のようにはいきません。お父さんのことを頼りなさい。今、二人の仲がどうなっているかはわからないけど、お父さんは社会に揉まれてきた人です。きっと指針をくれるでしょう。頑張ってね。それから、蘭の名前について。お母さんが、胡蝶蘭が好きだから、蘭と名付けました。純粋な愛という花言葉を持ちます。お母さんは、蘭のことを純粋に愛しています。ずっと見守っているからね』
あたしは一筋の涙を流していた。ティッシュでそれを拭き、父親にも手紙を見せた。彼も泣いていた。
「正美……」
「お父さん。あたし、お父さんの話聞きたい。もっとこれから聞きたい。お母さんとの話もしてほしい」
「蘭。ほんまやな、蘭。ちゃんと話せなあかんな」
それから、父親は母親との馴れ初めを話してくれた。
「正美は取引先の事務員さんやったんや。お父さんが一目惚れしてな。当時は携帯電話持ってなかったから、家の電話番号渡してん」
「へえ? それでそれで?」
「かけてきてくれてな。私も気になっとったんです、言われて、翌日デートの約束したんや」
「やるやん」
あたしは父親にぐいぐいお酒をすすめた。一年ほど交際を続け、父親がプロポーズしたらしい。母方の祖父母からは反対されたというのは以前聞いた通りだ。
「まあ、蘭が産まれて、向こうの親も納得してくれたけどな」
「あたしのおかげ?」
「うん。まあ、はよ死なせてしもて、また仲悪なってもたけどな。蘭にとっては大事なお祖父ちゃんお祖母ちゃんや。就職したんもええ機会やし、久しぶりに挨拶してみてもええかもしれへんな」
それから、園子さんとのことも聞いてみた。今までは、そんなこと絶対に聞きたくないと思っていたのに。あたしも大人になったのだろう。
「園子は部下の知り合いやったんや。飲み会で一緒になってな。実は、しばらくは蘭のこと隠しとった」
「ええ、そうやったん?」
「いよいよ言わなあかんってなってな。正直に、今までのこと話したら、蘭に会ってみたい、家族になりたいって言われたんや」
「園子さん……」
初めて食べたカレーの味を思い出した。まだ若かった園子さんが、小学生の親になるという決意を固めたのは、相当なことだっただろう。あたしは言った。
「園子さんって、ほんまにお父さんのこと好きなんやな。そんで、あたしのことも」
「そうや」
「あたしも長いこと意地張ってたけど、そろそろ、やめにする」
朝になって、あたしはリビングで園子さんの顔を見るなりこう言った。
「お母さん。おはよう」
「ら、蘭ちゃん?」
「だから、おはよう。お母さん」
「おはよう……おはよう、蘭ちゃん……」
あたしたちは抱き合った。この十年以上、彼女も長かったことだろう。あたしはようやく素直になれた。お母さんと呼べる幸せを、あたしは噛み締めた。
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